東日本支部通信 第42号(2016年度 第7号)

2016.12. 2. 公開 2017.1.10. 傍聴記公開

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東日本支部 第42回定例研究会

日時:2016年12月17日(土)午後2時~5時
 場所:福島大学 人間発達文化学類音楽棟音講室
 司会:杉田政夫(福島大学)
 内容:
 【研究発表】
 1.今尾 滋(福島大学)
  「ヴァーグナーはどのようなテノールを欲したか
   ―ローゲの声を巡っての、ヘルデンテノールに関する一考察」
 2.横島 浩(福島大学)
  「Mozart(あるいは当時のウィーン)の音楽的趣味を
   J.S.Bachの原曲と編曲(K.405)から探る
   ―J.S.Bach平均律第2巻/ロンドン稿からウィーン筆写譜等を経たのちに、
   Mozart周辺が行った改変箇所と改変の理由を推理する―」

 【シンポジウム】「福島県浜通りにおける民俗芸能の被災と復興の状況」
   パネリスト:懸田弘訓(民俗芸能学会福島調査団長)
          佐々木繁子(請戸芸能保存会)
          川田 強(南相馬市教育委員会文化財課)
          大越良子(東日本支部)
   コーディネーター:杉田政夫


【研究発表】

ヴァーグナーはどのようなテノールを欲したか―ローゲの声を巡っての、ヘルデンテノールに関する一考察
今尾 滋(福島大学)

【発表要旨】
 発表者はヘルデンテノールに関する研究を専門としている。今回はヴァーグナーの《ラインの黄金》の主要登場人物であるローゲに焦点を当てて、ヴァーグナーがこの役に対してどのような声を望んでいたのか探ってみたいと思う。
 ローゲはどのような声によって歌われるべきか、ということに関しては定見がないか、もしくは二通りの意見に分かれているというのが発表者の見解である。では、作曲者であるヴァーグナーはそもそもローゲにどのような声を期待していたのであろうか。当発表の主要な目的はそれであるが、同時に、ローゲ役の担い手が多様であることの理由について、仮説を立てることも可能となると思われる。
 《ラインの黄金》の主要登場人物であるローゲは、北欧神話に登場するロキをモデルにヴァーグナーが自由に創作したものである。ロキは元々火を神格化した神であったらしいが、エッダからそれを読み取ることは難しい。ヴァーグナーはロキのトリックスターとしての側面にひかれたのであろう。奸智にたけ、先を見通す眼力を持ち、傲慢で自己完結するヴァルハラの神々の凋落を冷笑的に見守る。非常に魅力的なキャラクターで、演出家の中にはレーンホフのようにローゲをツィクルスの狂言回しのように扱うものもある。しかしながらヴァーグナー自身の関心は、ラインの黄金以後ローゲにとどまることはなく、のちの3作には登場人物の科白の中に名前のみが、あるいは音楽の中にモチーフのみが登場するのみである。この役は初演時にはハインリッヒ・フォーグルHeinrich Vogl(1845~1900)というテノール歌手によって歌われた。フォーグルはルードヴィッヒ2世によって行われた《ラインの黄金》と《ヴァルキューレ》の1870年の世界初演に参加し、ローゲとジークムントを創唱した歌手である。この初演は諸経緯により、ヴァーグナーが是とするものではなかった。それを裏付けるかのように、バイロイトにおける1876年の彼自身による初のツィクルスでは、歌手陣はほぼ全入れ替えとなったが、にも関わらずヴァーグナーはローゲにフォーグルを選んでいる。フォーグルは経歴から考えてヘルデンテノールとしての声を持っていたと考えられる。つまりヴァーグナーはローゲには純粋なヘルデンテノールがふさわしいと考えていたといえる。
 しかしながら現代ではローゲは必ずしもヘルデンテノールによって歌われるとは限らない。担い手となるもう一方の類型はキャラクターテノールである。ゲルハルト・シュトルツェGerhard Stolze(1926–1979)がその代表者であり、ハインツ・ツェドニク、あるいは毛色は違うがペーター・シュライヤーをその系譜にいれてもよい。
このようにローゲは2つの性格の異なる類型の声種による歌唱を許容してきており、これはオペラの諸役の中でも比較的珍しいことである。この両者には公約数が存在する。そのキーワードは「表現力」である。それはのちにリヒャルト・シュトラウスによって確立されるエギストやヘロデのような強い声を持つキャラクターテノールの先駆である。ローゲというキャラクターを創出したことによって、ヴァーグナーは新しい声種を作り出したとも言えるのではないだろうか。


【傍聴記】(小林 幸子)

 本発表は、ローゲが2つのテノール・タイプを許容する新たな声種であったこと、そしてヴァーグナー自身が同役に適すると考えていた声種はヘルデンテノールである、という2点について、主に提議するものであった。前者については、歴代のローゲ役を「ヘルデンテノール系(ジークフリート=ローゲ タイプ)」と「キャラクターテノール系(ミーメ=ローゲ タイプ)」に分類して列挙し、バイロイトでの同役の中心はヘルデンテノールであったが演技力が求められる役柄であるためにキャラクターテノールの需要も生み出したのではないか、との見解が示された。これには全く異論はないが、フロアからの発言にもあったように、各上演における演出意図から検証するというのもひとつの方法であろう。一方、後者は、作曲者の意に反して行われたミュンヘン初演のローゲ役フォーグル(ヘルデンテノール)を、バイロイト初演でもそのまま引き継いでいることを主たる論拠としている。しかしながら、先の通り「新たな声種」ということを提示する以上、ヴァーグナー自身がローゲのそうした特異性にどれだけ意識的であったか、という点も考察に盛り込んだ方が、発表全体としての整合性が取れるのではないだろうか。それには、ローゲに与えられた音楽的語法や役割(他者との関係性)、当時のドイツの劇場や歌手、声種区分の実情など、より具体的な論証が想定される。最終的な結論としては、声が通りやすく性格描写に優れたテノールがローゲ役にふさわしい、との発表者自身の見解が示された。
 報告全体は豊富な事例に基づき、前述のとおり多様な発展性を秘めるもので、今後、歌手でもあられる発表者が今回のパラレルな2つの論点を総合的に分析して展開されることを期待したい。


【研究発表】

Mozart(あるいは当時のウィーン)の音楽的趣味をJ.S.Bachの原曲と編曲(K.405)から探る
   ―J.S.Bach平均律第2巻/ロンドン稿からウィーン筆写譜等を経たのちに、Mozart周辺が行った改変箇所と改変の理由を推理する―
横島 浩(福島大学)

【発表要旨】

モーツァルトが『平均律クラヴィーア曲集』からフーガを取り上げて弦楽四重奏用に編曲したK.405は5曲組セットではなく6曲組セットの予定であったようだ。ハ短調フーガ断片k.deestはBWV.891の編曲となり、M.シュタッダラーの手によって補筆され完成されている。K.405第6曲目に位置する予定であったであろうこの編曲は、M.シュタッドラーが補筆した後半箇所の一部が混乱しておりそのまま演奏するには傷が大きすぎると思われるため、モーツァルト自身が完成していたらどのようになっただろうかと思いめぐらせてみた。

k.405のCDにはモーツァルトが手を加えた(修正した)音(?)が異様であると演奏家が判断し、原曲の音に戻して演奏しているのではないかと思われるものもある。しかし、もともとヴァン・スウィーテンの所持する筆写譜の写しを通して編曲を行ったのだから、モーツァルトがテキストとした筆写譜を特定できなければモーツァルト自身の意思で手を加えたのかの判断は付かない。残念ながら私にはその術がないが、YO TOMITA氏によって作成された現存する筆写譜の詳細な比較表を参照して、モーツァルトだけの変更であるのかを推測することがある程度できるであろうと考えた。

例えばハ短調フーガ断片k.deestの応答開始音からしていきなり違う。ナチュラルであるはずの変位記号がフラットである。ほかの筆写譜には見られないこの変更はモーツァルトの意思でなされたのだろうか?フラットに変更した理由はなんであろうか。フラットに変更すると応答における属調確定が早まることになるが、それはモーツァルトの趣味なのか。
また、アルブレヒツベルガーの手によってk.405-3(BWV.878)の終結カデンツ「Ⅳ-Ⅰの第2転回-Ⅴ-Ⅰ」は「Ⅱの第1転回-Ⅰの第2転回-Ⅴ-Ⅰ」に変更された和音進行を、モーツァルトは普段はほとんど用いることのなかった原曲の和音進行に戻している。おそらく筆写譜のミスを補うため、さらにモーツァルトの手によって別の音を変えたのではないかと思われる箇所も見られる。
最初期に筆写したアルブレヒツベルガーからの子筆写譜、孫筆写譜と進むにつれて対位法的記譜法から離れ声部が不明瞭なキーボードフーガの様相を見せるのだが、弦楽四重奏用編曲に当たり再度対位法書法へと還元する際にもモーツァルトの何らかの趣味が反映されるのではないかとも思われる。

1780年頃のウィーンの作曲家たちは、『平均律クラヴィーア曲集』に当時の様式感に基づいた変更を行っていたことは事実であり、その中の一つであるモーツァルトによる編曲もそうした新しい様式感に基づいた作品といえる。変更したのにはその理由があるわけで、いくつかの箇所をピックアップして考察してみたい。


【傍聴記】(大津 聡)

 モーツァルト研究において、古い音楽、とりわけJ. S. バッハの音楽体験と受容の問題は、常にその一角を占めてきた。本発表は、バッハの《平均律クラヴィーア曲集第2巻》からの編曲であるモーツァルトの《5つの4声フーガ》KV405を考察対象とし、モーツァルト、及び同時代人による、バッハの作曲上の受容を問題とするものであった。具体的には、富田庸の資料伝承研究に依拠することで展開の足がかりを確保し、主に《平均律第2巻》の「ロンドン稿」、ヴィーンの筆写譜の内唯一由来が特定されているアルブレヒツベルガー稿、そしてモーツァルトによる編曲の異同が、様々な角度から検証された。因みにモーツァルトの当該作品については、編曲の底本問題を含め、既にファーギュソン(2005: 97)の踏み込んだ見解が確認されることを指摘しておく。
 一方で、提示された成果以上に疑問と課題が残る発表であったことは否めない。アルブレヒツベルガーと他のヴィーンの筆写譜、モーツァルトによる編曲における処理の仕方の違いの限られた例を見ても、統一的な「ヴィーンの流儀」を導き出すのは容易ではないように思われた。また、そもそも「筆写」と「編曲」は区別される必要があろう。さらに結論として、《5つの4声フーガ》にモーツァルトの趣味の反映、言わばモーツァルトの個人様式を見出そうというのであれば、それ以前に、編曲が成立したとされる1782年という時期を前提とした、モーツァルトの創作事情へのまなざしが不可欠である。今後のより包括的な研究を期待したい。


【シンポジウム趣旨】

福島県浜通りにおける民俗芸能の被災と復興の状況
(コーディネーター:杉田 政夫) 

 東日本大震災、及び福島第一原子力発電所の事故は、福島県にあっては浜通り地方を中心に甚大なる被害を齎し、県災害対策本部即報によると、今なお多くの人々が県内(43869人)、県外(40405人)での避難生活を余儀なくされている(平成28年11月14日時点)。長引く避難生活や先行きの不透明さは人々を疲弊させており、震災の関連死(2092人)は、直接死(1604人)の数を上回っている。
 懸田弘訓氏によると、元来、民俗芸能の宝庫であった浜通り地方の保存会は、約350団体のうち60団体が津波で深刻な被害を受け、また約6割が放射能汚染等により継承、存続の窮地に立たされている(民俗芸能学会福島調査団編『福島県域の無形民俗文化財被災調査報告 2011~2013』2014年)。それでも指導者らによる懸命の努力や、関係者、行政による真摯なサポートにより、活動の再開を果たした団体は現在、60にのぼる。しかしながら、保存会員の避難先が各地に分散しているために集まるのは容易でなく、また交通費や宿泊に要する費用の問題、道具の保管や練習用の場所を確保することの困難さも相まって、再び休止に追い込まれるケースもあり、活動を継続するためには今なお多くの課題が残されているという(福島民友新聞社編『ふくしまの民俗芸能』2015年)。
 本シンポジウムでは、民俗芸能の研究者、再興に直接携わってこられた保存会員、そういった活動を支援する地域文化行政の担当者、学校において民俗芸能の教材化や実践を試みる音楽教育者に登壇いただき、各々の立場からご報告いただく。 
 福島県の民俗芸能研究の第一人者であり、震災後、民俗芸能学会福島調査団長を務められた懸田弘訓氏からは、福島県浜通り地方の民俗芸能の特質、被災の概況、再興の個別事例やそれを成し遂げた原動力、継承のための工夫や試み、並びに震災を機に再確認された民俗芸能の意義についてご講演いただく。請戸芸能保存会副会長の佐々木繁子氏には、津波により奉納先である苕野(くさの)神社の社殿、踊りの衣装、道具すべてが流出するなど壊滅的な被害を受けた請戸地区の田植え踊りが、どのようなプロセスを経て再興を果たしたのかについて、今後の課題を交えてお話しいただく。 
 南相馬市教育委員会文化財課の川田強氏には、原子力事故が民俗芸能団体に及ぼした影響、福島県の「地域の『きずな』を結ぶ民俗芸能支援事業」をはじめとした行政的サポートや民間団体の活動概要、文化財行政の立場からみた民俗芸能の重要性について報告いただく。大越良子氏からは、双葉郡の「納涼盆踊り」を調査、教材化し、当該地域の中学校音楽科授業において行った実践、及びその有用性を中心に紹介いただく。
 とりわけ東日本大震災以降、民俗芸能が人々のアイデンティティやコミュニティ感覚の(再)構築に重要な役割を果たすことが見直されている昨今、現況を把握し、研究者としてその再興や継続的活動に如何なる寄与が可能なのかについて、参会者と共に考える機会としたい。


【傍聴記】(川﨑瑞穂)

 2016年12月17日(土)、福島大学人間発達文化学類音楽棟音講室において開催された日本音楽学会東日本支部第42回定例研究会では、2名の研究発表ののち、シンポジウム「福島県浜通りにおける民俗芸能の被災と復興の状況」が開催された。当シンポジウムでは、被災地の民俗芸能の復興活動に携わってきた計4名の登壇者が、各々の立場から発表を行った。コーディネーターは、当日の例会の司会を務めた福島大学の杉田政夫氏が引き続き担当した。
 最初の発表者である懸田弘訓氏は、福島県の民俗芸能研究の第一人者として知られており、震災後には民俗芸能学会の福島調査団長を務めた。懸田氏は発表の冒頭、震災までは民俗学の立場から研究を続けてきたが、震災によって、今までのように研究をしていくことに躊躇いを感じたと述べ、震災後は、民俗学が「経世済民の学」、すなわち、いかに生きるかという生活の「知恵」の学問であるという柳田国男の定義に立ち返り、被災地の芸能の調査を行ってきたと述べた。その後懸田氏は、福島県浜通り地方の民俗芸能の被災状況と復興活動をパワーポイントの写真を見せつつ紹介し、震災後わずか1~2年の間に復興している事例を通して、伝承者たちの意志の強さを強調した。思い出されるのは、筆者が修士課程の1年生であった2011年に、いわき市錦町の熊野神社で伝承されている民俗芸能「御宝殿の稚児田楽・風流」を調査しに行ったことである。無論、直接の被害の多寡にも拠るのだろうが、震災後数ヶ月で短縮してであれ奉納していたことに驚かされたことを記憶している。懸田氏が強調したのは、芸能が「ふるさと」そのものであるということである。ゆえに芸能の消滅はふるさとの喪失を意味する。懸田氏は、震災を機に、福島県が「祭祀」と「芸能」の意義を再確認させてくれたと述べ、その保存には国の協力が不可欠であるとして論を閉じた。
 2人目の発表者である佐々木繁子氏は、請戸芸能保存会の副会長である。請戸地区の田植え踊りが伝承されている苕(くさ)野(の)神社は、津波によって、その社殿だけでなく、芸能に使用する衣装などの道具がすべて流出してしまった。発表では、東京に避難していた佐々木氏が、この田植え踊りをどのような経緯で復興させていったのかについて、パワーポイントを使って丁寧に説明された。佐々木氏は発表の最後に、衣装の保管、運営資金、そして後継者育成が今後の課題だと指摘した。特に衣装の保管が大きな問題であるといい、最後の質疑応答でも、懸田氏と共にその点を強調した。
 3人目の発表者である川田強氏は、南相馬市教育委員会文化財課に勤務している。川田氏は発表の冒頭、文化財行政の立場から懸田氏の活動の重要性について指摘した上で、民間団体の活動を紹介し、行政はこのような民間の活動の手伝いをするのだと述べた。そして、原発事故が民俗芸能団体に及ぼした影響をまとめ、地域に戻れない人々が、1年に1度はどこかで奉納・上演する機会を作ることが、今後の伝承においては重要になるのではないかと述べた。
 4人目の発表者である大越良子氏は、福島大学大学院の修了生であり、コーディネーターである杉田氏の元で修士論文を執筆した。修士論文では、双葉郡広野町の民俗芸能「納涼盆踊り」を調査し、その教材化の可能性について研究したが、今回はその修士論文の内容を中心に、パワーポイントを使い発表した。民俗芸能の伝承を考える上で、当該地域の学校は必然的に重要性を帯びる。懸田氏も述べたように、小・中学生の協力が今後の民俗芸能の保存・伝承には不可欠である。大越氏は、広野市の中学校で、地域の音楽素材を用いて授業を行った。そしてそこから、学校と伝承者の相互関係が、これからの伝承活動においては重要になってくるのだと結論付けた。
最後の質疑応答ではまず、福島大学大学院生の八巻和也氏から発言があり、教員を目指す上で参考になったとの感想を述べた。次に東日本支部の小塩さとみ氏から、どれくらいの頻度で練習をしているのかという質問があり、佐々木氏から、満足できる練習ができていない現状について説明があった。次に、音楽学会であるため音楽についての報告も必要ではないかと思い、筆者自身が音楽について質問した。民俗芸能の復興のなかで、失われた楽器の復元はどのようにしたのか、という質問に対し懸田氏は、復興の上では、保護団体の代表者・教育委員会の担当者・学識経験者で必ず「検討会」を開き、今までどういう楽器を使用していたかを詳しく聞き取りし、十分話し合った上で、できる限り地元の人に頼んで新調したという。近年は業者が少なくなって地元での調達は難しくなってはいるものの、復興においては、なるべく遠隔地には頼まないようにしたという。懸田氏は、変化して良いものと変化してはいけないものを検討することが重要であると述べた。最後にコーディネーターの杉田氏から、行政区分から離れた地域へ避難した伝承者への支援はどうなっているのかという質問があり、川田氏は十分に為されていない状況を説明し、地域を越えた連携が必要であるという結論に至った。


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