東日本支部通信 第40号(2016年度 第5号)

2016.8.30. 公開 2016.10.21. 傍聴記公開 2016.11.24. 傍聴記追加公開 

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東日本支部 第40回定例研究会

 日時:2016年9月17日(土)午後1時半~5時
 場所:国立音楽大学3号館114教室
 司会:横井雅子(国立音楽大学)
 内容:
〈研究発表〉
  演出記述の確立
  ―『アイーダのための舞台配置書』とヴェルディ自筆のメモの比較を中心に―
  長屋晃一(早稲田大学オペラ/音楽劇研究所)

〈シンポジウム〉
  歴史的ピアノの調査の可能性
  ―国立音楽大学、東京藝術大学の所蔵楽器が伝えるもの―
  パネリスト   小岩信治(一橋大学)
          横井雅子(国立音楽大学)
          中溝一恵(国立音楽大学、ゲスト)
          太田垣至(フォルテピアノ製作者、ゲスト)


【研究発表】

演出記述の確立 ―『アイーダのための舞台配置書』とヴェルディ自筆のメモの比較を中心に―
長屋晃一(早稲田大学オペラ/音楽劇研究所)

【発表要旨】
 19世紀後半、リコルディ親子によって、ヴェルディのオペラを中心に執筆された、一連の『舞台配置書 Disposizione scenica(以下DS)』は、当時のオペラ上演の実態と作品解釈を知るために不可欠な資料である。とくにジューリオ・リコルディが著した『アイーダのための舞台配置書(以下DS-Ai)』(1872)は、作曲者がミラノとパルマでの初演に立ち会い、その舞台の様子と指示を自ら台本に書き込んだ資料(モーガン・ライブラリー所蔵)を反映して書かれている。しかし、このヴェルディによる演出メモは、よく知られた資料でありながら、ほとんど分析されてこなかった。
 それまでのDSになく、DS-Aiの特徴の一つである、上演者・裏方へ強い要求をこめた「指示」の叙述は、ヴェルディのメモに拠るところが大きい。DS-Ai第1幕第2場の火の神の神殿におけるラダメスへの剣授与の場面で、ヴェルディはメモに加えて、紙片を挿入している。この挿入紙片には、DS-Aiの特徴の一つである強い要求、命令を示す叙述が表れている。
 その一方で、DS-Aiにはヴェルディのメモの記述と異なるところもある。たとえば、ヴェルディのメモとDS-Aiでは、第1幕第1場のアムネリスの登場するタイミングが異なる。前者ではロマンツァの最終詩行をアムネリスが舞台の隅で聞き、次第に近づいていくが、後者ではロマンツァが終わった後に「急いで」登場する。登場のタイミングの違いは、あくまでもドラマの一貫性を目指すヴェルディと、ロマンツァの後の拍手を念頭に置くリコルディの配慮の差異であろう。
 そうした現実のためのマニュアルの叙述中、とくに群像をなす合唱とバレエに多くの叙述が割かれ、効果が求められる一方で、主役であるアイーダについては、両者とも多く叙述していない。むしろ、彼女に向かい合う人物に多くの叙述がなされている。アイーダのモノローグは歌手の才能に任され、叙述しないという断りがDS-Aiにはある。だが、舞台全体のドラマから考えると、彼女は第1幕から第3幕まで一貫して、行為者ではなく行為を受ける「被-行為者」だということが読み取れる。その場合、前奏曲以降、登場毎に置かれたアイーダの主題は、彼女が舞台上に姿を見せる前に、他の人物に心理的な影響を与え、行動に反映させずにいられない、アイーダのアウラのような役割を担っているのだと言える。
 このように、ヴェルディのメモとDS-Aiの記述から読み取られるのは、楽譜の読みと登場人物の性格がもたらすドラマであり、またその叙述の言語と描図法を獲得していく過程である。そして、これらの記述が可能になることで、慣習を越えた、より細密な作品にヴェルディが踏み出していく契機の一つとなったと考えられる。


【傍聴記】(小畑恒夫)

 19世紀イタリアにおける「演出」の実態を知るための重要な資料にリコルディ親子による一連の『舞台配置書』があるが、長屋氏の発表は、息子ジューリオ・リコルディが制作した『アイーダのための舞台配置書』に注目し、その作成の基になった(と思われる)ヴェルディの自筆メモとの比較から、この『舞台配置書』がイタリアにおける「演出記述」に画期的な意味を持つことを示した。
 短い発表時間にもかかわらず、前提として知っておくべき基本的事実(パリ・オペラ座の "mise en scène"と『舞台配置書』の関係、ジューリオ以前の『舞台配置書』と以降の違いなど)がコンパクトに説明され、本題に入る。
 ヴェルディが『アイーダ』台本に書き込んだ50ほどのメモは、ほぼそのまま『舞台配置書』に取り込まれているという。メモは巫女や合唱などの群衆処理に強い関心を示す。またソリストたちに向けた所作・立ち位置・表情などの指示は人物の心理の動きの視覚化を意図するものであり、『舞台配置書』においては求める効果が得られるよう記述が改善されている。発表ではジューリオの指示に比較的忠実なサンフランシスコ・オペラ公演から冒頭の一シーンの映像を例にとり、指示が生み出す効果が示された。一部分ながら丁寧に行われた分析には説得力があり、興味深い研究と感じた。
 発表後、「この手法による今後の研究の可能性は」との問いに、長屋氏は「細部を分析することが19世紀の演出法の確立、あるいはヴェルディの作曲語法を考える上で重要な視点になる」と答えたが、作曲家のメモが残るのは『アイーダ』のみであり、その意味では後者の研究に寄与するものが大きいように思える。


【シンポジウム趣旨】

歴史的ピアノの調査の可能性
―国立音楽大学、東京藝術大学の所蔵楽器が伝えるもの―

 今回のシンポジウムでは、二つの歴史的な音楽教育機関におけるピアノ・コレクションの調査について報告する。国立音楽大学、東京藝術大学におけるピアノ調査は、異なる経緯でスタートしたものであるが、過去の音楽文化、この場合ピアノ音楽の諸相を探求するにあたって、往時使われていた楽器についての知見が重要な役割を果たすという認識を共有している。ピアノの場合、その3世紀あまりの歴史は技術革新の歴史でもあり、楽器が各時代におけるテクノロジーの集積であることを考えれば、時代による楽器の違いが音楽のありようを規定することは明らかである。二つの教育機関におけるピアノ・コレクションについての報告によって、教育機関がピアノを収集し、それらを研究と教育的目的に還元する意味と、明治・大正期における本邦の音楽関係者にとってのピアノの響き、そしてピアノに対する考え方を明らかにする可能性について示したい。
 国立音楽大学楽器学資料館は2012年から3年間にわたり「ピアノプロジェクト」を展開した。当館はピアノの歴史的変遷の提示を目的としてピアノを収集してきたが、所蔵ピアノに関する情報は個別に存在しているにすぎず、総覧する手段がなかった。楽器研究に貢献するという館の方針に沿う活動として、目録作成のための調査をピアノプロジェクトにおいて実施し、各楽器の計測、写真撮影、構造上の特徴等、蓄積してきた多くの情報の再確認と新たなデータ獲得を行った。
 目録においてはこれらのデータを整理し、写真ととともに記載しているが、楽器は演奏を目的として製作されていることから、音に関する情報も重要なため、ピアノプロジェクトにおいて開催された演奏会の映像の一部を収録したDVDを付録化した。
 20世紀末から欧米の楽器コレクションでは所蔵ピアノ目録が続々と刊行され、単に演奏するために楽器を保存するだけでなく、研究資料とみなして情報公開する姿勢が明確になっているが、当館のピアノ目録も広く活用されることを願っている。
 このような情報公開への段階として、ピアノプロジェクトでは他の形でも成果を還元することを目指した。そのうちの一つは、調査に当たった島延之氏(在ドイツ、ピアノ・チェンバロ製作マイスター)による「歴史的ピアノの内部調査に伴うワークショップ」で、目録の刊行以前にいち早く情報の一端をピアノ技術者や研究者、博物館関係者に届けることを目的とした。
 また、歴史的ピアノの各々がもつ個性を生きた響きとして聴いていただくために、13年と14年にそれぞれ1回ずつ演奏会を実施した。音楽大学付属の機関として教育的な意図を前面に押し出し、まずは大学小ホールで当館所有の5台の時代や形態の異なる楽器を使用し、久元祐子氏に演奏を依頼した。西洋音楽史における鍵盤楽器の変遷と、それに作曲家たちがいかに対峙してきたかを、久元氏の解説も交えてたどる趣旨である。翌年は一般向けに都内ホールで有料公演とし、同じく当館所有の3台の楽器を用いて久元氏による演奏会を実施した。前述のDVDにはこの二つの演奏会での演奏が収められている。
 これらイベントには主催者の予想を大きく上回る反響があり、歴史的ピアノに対する理解や、それらを用いての演奏がかなり浸透している様子を実感できた。今後は続く報告の東京藝術大学におけるピアノ調査のように個別の領域に切り込んだ研究が増えてくることが予想され、そのためにもコレクションの情報公開は欠かせない。
 東京藝術大学におけるピアノ調査は、小岩信治を研究代表者、そして大角欣矢会員、奥中康人会員(順に東京藝術大学、静岡文化藝術大学、いずれも東日本支部)を研究分担者とする科研費プロジェクト「20世紀序盤の本邦における和洋の共鳴 - 楽器の響きから考えるピアノ文化」(2015-17年度、番号15K02100)の一環として実施している。研究初年度から第2年度にかけてはまず、かの時代にピアノが存在した東京藝術大学を重要な調査対象と位置づけている。
 同大学、正確には東京音楽学校の調査は、二つの部分から構成される。一つは、その時代に同校に存在し、現在まで残されている楽器の調査。もう一つは、現存しないかもしれないが当時存在した可能性がある楽器の調査である。
 まず現存するものとして、現在大学美術館に所蔵されている外国産ピアノがある。これまでにイーバッハ(Ibach)社製グランドピアノ(製造番号63905)、スタインウェイ(Steinway)社製スクエアピアノ(製造番号17038)、チッカリング(Chickering)社製スクエアピアノ(製造番号24678)の3台について、音域、基本的な構造、配弦仕様などについて調査した。
 次に、過去に購入したがおそらく現存していない楽器について明らかにするため、東京音楽学校の会計資料を調査している。これまで詳細な検証が行われていなかったこの資料には、楽器購入費用などが記録されているおり、スタインウェイなど海外産楽器とともに、ヤマハのピアノなど国産楽器の購入の記録が確かめられ、当時この教育機関でどのようなピアノが求められていたのかが明らかになりつつある。
 科研費プロジェクトの全体としては、東京藝術大など教育機関に限らず、明治・大正期に本邦に存在したピアノについて、首都圏に限らず、広くパイロット調査を行うことも目的としている。調査対象となり得るピアノ(大正期までに本邦に現存した楽器。国産、海外産を問わず)についての情報を募っており、会員諸氏からの情報提供をお願いしたい。
(小岩信治、中溝一恵、横井雅子)


【傍聴記】(向井大策)

 この日、シンポジウムで発表を行ったのは、国立音楽大学と東京藝術大学の2つの研究グループである。前半には、横井雅子、中溝一恵、太田垣至の3氏より「国立音大楽器学資料館ピアノプロジェクト」(2012〜2015年)の成果報告、後半には、小岩信治、前半にも登壇した太田垣至の2氏より「東京藝術大学の歴史的ピアノ調査初年度の概況報告」がなされ、その後、フロアを交えてディスカッションが行われた。
 ともに両大学が所蔵する歴史的ピアノに関する報告であったが、それぞれが対象とする「歴史的ピアノ」の範疇は異なる。国立音楽大学のプロジェクトの主軸は、同大学楽器学資料館の『所蔵ピアノ目録』の作成のための調査にあり、同資料館が所蔵する歴史的ピアノがその調査対象となっている。一方で、東京藝術大学のグループは、明治・大正期の輸入および国産ピアノを対象とし、今回は東京藝術大学所蔵の該当楽器の本体調査(初年度は大学美術館所蔵の3台の調査を実施)および東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の会計簿の調査に関する報告を行った。東京藝術大学のグループでは、今後、研究プロジェクトの調査対象となり得るピアノ(大正期までに日本に現存した楽器)についての情報提供も募っている。
 このシンポジウムのタイトルは「歴史的ピアノの調査の可能性」である。歴史的ピアノに関する調査研究は、いまや、従来の楽器学のみならず、演奏実践、文化史、受容史など、様々な分野へと細分化している。このような研究アプローチの多様化は、楽器を研究することそのものの広がりを示すものだということもできるだろう。
 例えば、東京藝術大学のグループによる研究プロジェクト「20世紀序盤の本邦における和洋の共鳴――楽器の響きから考えるピアノ文化」(2015〜2017年)は、現存する歴史的ピアノだけでなく、実物がないものも含め、明治・大正期の輸入・国産ピアノ全体を調査対象にしようというものである。その事例として、小岩氏の報告では、東京音楽学校が、明治・大正期にどういったピアノを所有していたのかということを、当時の会計簿から明らかにする試みが紹介された。輸入および国産ピアノの購入記録、修理や備品調達、運搬などの記載を調査し、東京音楽学校を中心としたピアノの流通の実態を明らかにすることで、当時の日本社会における「ピアノ文化」の一端をあぶり出そうという試みである。歴史的楽器は、モノとして、楽器としての価値だけでなく、こうした文化のありようそのものを物語ってくれるものであるとも言える。
 一方で、今回のシンポジウムでは、歴史的楽器の調査研究の可能性をめぐって、もうひとつ重要な問題が提起された。前半に行われた国立音楽大学のグループによる報告では、まず横井氏より冒頭にプロジェクト全体の概要が紹介されたが、その内容は、楽器学資料館として研究のための基盤を整備しつつ、大学が所有する貴重な楽器コレクションをいかにアクセシブルなものにしていくことができるか、という問題意識を強く反映したものだった。このプロジェクトにおいて、調査研究と平行して、2回のレクチャー・コンサートや歴史的ピアノの内部調査に伴うワークショップといったイベントが行われた、という事実は、このことを端的に示していると言えるだろう。
 国立音楽大学楽器学資料館では、『所蔵ピアノ目録』の刊行のために、2012年から3ヵ年にわたって、所蔵する歴史的ピアノ52台の調査、計測、写真撮影を実施した。中溝氏の報告では、その成果として刊行される『所蔵ピアノ目録』の内容と、その作成の経緯が紹介された。楽器コレクションにとって、所蔵目録を刊行することは、所蔵楽器をアクセス可能なものにするための最も重要な手段のひとつであると言える。こうした所蔵目録の傾向として、とくに21世紀に入ってからは、個々の楽器データを公開する意義が強く意識されるようになってきているという。このような認識の変化や目録自体の記述様式の変遷は、多くの楽器コレクションが、ただ楽器の保存を目的とするのではなく、所蔵楽器に関する情報を広く公開する姿勢を明確にしていることとも関連している。国立音楽大学楽器学資料館の『所蔵ピアノ目録』もまた、こうした近年の動向を踏襲するものである。
 また、所蔵楽器の活用という観点で言えば、保存のための保存ではなく、いかにして保存と演奏利用を理想的な形で両立させるのかという問題を避けて通ることはできない。今回の報告では、そのための有効な手段として、鍵盤レプリカの制作が紹介された。ピアノの中で最も摩耗が激しい鍵盤とアクションを、可能な限りオリジナルと同じ材質、また当時に近い手法で複製し、実演の際には、オリジナルの本体にそのレプリカの鍵盤をはめこんで使用するという手法だ。太田垣氏からは、国立音楽大学楽器学資料館所蔵ピアノの鍵盤レプリカの作業工程について、画像付きの詳細な報告があった。
 価値の高い歴史的楽器やその楽器に関する情報、さらにそれらの研究を通じて得られた成果を、学術コミュニティやそれをとりまく社会全体へ、あるいは大学などの高等教育機関における教育活動へといかに還元するか、ということは、きわめて現実的かつ現在的な課題だ。そのためにどのような知恵を絞れるか、どのようなアイデアを出せるのかは、研究者あるいは研究機関にとって決して二次的な問題ではなく、自らの研究の文化的、社会的ミッションをどうとらえるか、また自分自身の研究が持ちうる可能性をどう考えるか、ということと直結した重要な問題でもある。その意味において、今回のシンポジウムは、狭義の楽器研究の枠を超えた、より大きな問いかけをともなうものであったと言えるだろう。

(編集注:サイトへの入力にあたり、原稿では傍点となっていたものを、イタリック+太字に変更しました)


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