東日本支部通信 第38号(2016年度 第3号)

2016.5.24. 公開 2016.7.7. 傍聴記掲載

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東日本支部 第38回定例研究会

  日時:2016年6月11日(土)午後2時〜5時
  場所:明治学院大学 白金キャンパス 3号館 3202教室
  司会:安田和信(桐朋学園大学)
  内容:修士論文発表2件、研究発表2件
  〈修士論文発表〉
   1.ヨアヒム・ラフ作曲 交響曲第1番ニ長調《祖国に》op. 96の研究
     倉脇雅子(お茶の水女子大学大学院)
   2.A.ブルックナーの交響曲第9番の全体構造
     ― 第4楽章の存在と、その知られざる機能 ―
     石原勇太郎(東京音楽大学大学院)
  〈研究発表〉
   1.音程カノンの伝統の再考
     ―ロマン派のピアノ変奏曲における隠れた数的配列に着目して―
     三島 理(東日本支部)
   2.細川俊夫の言葉と音楽 ―垂直的というキーワードを巡って―
     木村友美(日本大学大学院)


ヨアヒム・ラフ作曲 交響曲第1番ニ長調《祖国に》op. 96の研究
倉脇雅子(お茶の水女子大学大学院) 

 修士論文の目的は、19世紀中葉に活躍したドイツの作曲家であるヨアヒム・ラフ(Joachim Raff, 1822-1882)(以下、ラフ)の交響曲第1番ニ長調《祖国に》Symphonie Nr.1 An das Vaterland op.96(1859-61年作曲、1863年初演)(以下、《交響曲第1番》)の楽曲分析を通してラフの書法を明らかにし、その役割を考察することである。先行研究は、当時の進歩派と保守派の間にありながら独自の路線を模索したラフの歴史的価値を再考するとともに、従来の「折衷主義」(Deaville 2001:750)と述べられるラフの書法について後世の影響を鑑みつつ再評価を行っている(Steinbeck 1997)。そこで本研究はこの視座を引き継ぐものとし、作品を音楽的諸要素から成るテクスチュアと捉えて間テクスト性によってみるものとした。
 第1章では、ラフの生涯と作品を概観した後、本作品の特徴となる二点、@ラフが第1位を受賞したヴィーン楽友協会主催の交響曲コンクールについて、A第4楽章に引用されている、アルント(Ernst Moritz Arndt, 1769-1860)作詞、ライヒャルト(Gustav Reichardt, 1797-1884)作曲、《ドイツ人の祖国とは何か Was ist des Deutschen Vaterland? 》(1825)から、当時のドイツ語圏における音楽的、社会的状況の一端を明らかとした。
 第2章では、本作品を音楽構造、引用作品との関わり、標題性の三点から分析した。ラフの書法のなかには、@各形式の主題部(及び主要旋律部)をさらに区分することによって各部を並列的に配置する、A《ドイツ人の祖国とは何か》を作品全体において使い分けること(引用する、交響曲の主題(及び主要旋律)の構成要素となる、変奏する)によって統一性と表現の変化をもたらす、B当時の人々が伝統的に認識しうる音楽的諸要素(トピック)を用いることによって各場に標題性を与える、以上三点が見出された。
 第3章では、ラフの書法が作品にもたらす諸関係を間テクスト性から考察した。第4楽章において、《ドイツ人の祖国とは何か》の引用はソナタ形式の第2主題部に置かれている。この配置は、引用としてその意味内容を明示するとともに、主題労作による構造的な関連付けを行う役割において相互関係にあり、さらに作品全体の構造的統一と標題的な表現の多様性を実現する出発点ともなっている。例えば第1楽章から第3楽章では各主題(主要旋律)の動機となり、各楽章の標題性をもつ他の音楽諸要素と結び付けられる。そして、第5楽章では、各楽章の主題の回帰がコーダ部の最終の引用に収斂されており、この流れは音楽構造と標題性の両面における統一と捉えられる。以上から、ラフの書法は音楽の構造と標題性を包摂的に融合させながら多様な相互関係を築くものであることが明らかとなった。さらに、《ドイツ人の祖国とは何か》の引用、伝統的な音型、形式、そして様式を含めた当時のドイツの人々が共有しうる音楽諸要素が作品内容の伝達において媒介となりうることが考えられ、《交響曲第1番》におけるラフのストラテジーは作品、演奏、聴取の相互関係を含めたものであることを結論とした。


【傍聴記】(岡田安樹浩)

 倉脇雅子氏によるヨアヒム・ラフの交響曲第1番に関する研究は、発表要旨にある通り、近年のラフ研究の路線を継承し、楽曲を「間テクスト性によってみる」ものだという。しかし、本発表において具体的に示されたのは、この楽曲の第4楽章に引用されている《ドイツ人の祖国とは何か?》のメロディが、他の楽章の主要なモティーフと関連しているということであり、その他の事象については論文各章の内容紹介にとどまった。
 倉脇氏の主張によれば、「ミリタリー」や「格式ある様式」といった「伝統的に認識しうる音楽的諸要素」によって、ラフの音楽には「標題性」が与えられているというのだが、残念なことにその具体例は示されなかったため、発表としては説得力に欠けたように思われる。たとえば「ミリタリー」ひとつとっても、それを音楽において表現する手段は、楽器編成(管打楽器)、拍子(4分の4拍子)、リズム(付点リズムのアウフタクトなど)ほか様々にあるのだから、ラフが如何なる手法を用いてその「標題性」を示そうとしたのかを論証する必要があっただろう。
 多くの場合、限りある時間の中で大部の論文全体の結論を示すことは困難である。本発表の場合、発表時間の大半が作品の基本情報や論文概要の説明、発表要旨の再読といったことに費やされていたが、そうしたことは必要最小限にとどめ、肝心な楽曲分析の内容を丁寧に説明することに時間を割くほうがよかったのではないだろうか。


A.ブルックナーの交響曲第9番の全体構造 ― 第4楽章の存在と、その知られざる機能 ―
石原 勇太郎(東京音楽大学大学院)

 本論文は、アントン・ブルックナー Anton Bruckner (1824-1896)最後の交響曲である交響曲第9番を、未完成の第4楽章まで分析することで、これまで第3楽章までで判断されてきた交響曲第9番の全体構造を明らかにすることを目的としている。
 交響曲第9番は、あたかも「未完成であるが、完成を求めていない」交響曲として扱われてきた。しかし、交響曲第9番が4つの楽章を持つ交響曲として構想されていたことは、ブルックナーの発言などからも明らかである。これまでの第4楽章に関する資料研究の結果を踏まえ、本論文は交響曲第9番を4つの楽章を持つ交響曲として分析を行う。その分析の中で、それぞれの楽章がどのように機能し、関連し合い、どのような全体構造を作り上げているのかを明らかにしていく。
 第1章では、交響曲第9番に関する資料や、研究の状態について考察が行われる。第4楽章の自筆資料に関する研究は、1934年のオーレルによる『草稿とスケッチ』の出版に端を発している。以後、第4楽章に関する研究は補筆完成版の作成が中心的であった。1990年代には、フィリップスの一連の研究が、第4楽章の資料研究を推し進めたことが確認される。これらの資料研究により、第4楽章の大部分が明らかにされた。本論文では、第4楽章が音楽的な分析に耐えうるものと判断し、次章から実際に交響曲第9番の分析を行っていく。
 第2章では、第3楽章までの分析が行われる。第1楽章で提示されるいくつかの動機が作品全体に作用していること、「増4度(あるいは異名同音程の減5度)」という音程がもたらす不安定な響きが、解決されることなく存在し続けていることなどが、重要な要素として確認される。これらの要素を踏まえ、第4楽章の分析へ進む。
 第3章では、第4楽章の分析が行われる。第4楽章は先行する3つの楽章の要素を引き継ぎ、それらを解決へと向かわせる機能を持つことが明らかにされる。
 第4章において、交響曲第9番の全体構造を記述することが試みられる。交響曲第9番は、第3楽章まででは明らかに「未完成・未解決」の状態であり、第4楽章が存在することで初めて完全な交響曲になるということが説明される。第4楽章は、先行楽章で未解決であった不安定な要素を全て解決し、「愛する神に捧げる」のにふさわしい、不安定な要素のない響きの中で交響曲全体の幕を降ろすのである。
 ブルックナーの交響曲第9番は、4つの楽章を持つ交響曲として見ることで、初めて本来の音楽的な文脈を理解することができ、個々の楽章が持つ要素の関係性を説明することが可能となると結論付けられる。つまり、第1楽章で提示された要素が第4楽章において、初めて解決されるという大きな音楽的な流れが確かに存在する。第3楽章まででは、まさに未完成の交響曲であり、第4楽章が存在することによって、その構造は初めて理解されるのである。


【傍聴記】(岡田安樹浩)

 アントン・ブルックナーの第9交響曲は第4楽章が未完成のまま残されたが、スケッチの大半は現存しており、特に楽章の前半部分は総譜化もされている。だがこれまでのこの交響曲に関する分析的研究は、この楽章が未完成であるがゆえに、これを分析の対象に含めてこなかった。それに対して石原勇太郎氏は、同楽章の資料の現存状況は分析に堪えうるものだと判断し、修士論文において第9交響曲全曲の分析を行なった。分析に際して、数多くある補筆完成版は用いず、ブルックナー自身が書き残したものに限定している点も筋が通っている。
 石原氏の主張は、第1楽章から第3楽章まで未解決のまま放置された諸要素(増4度音程や調の曖昧さなど)に、第4楽章の特にコラール主題の提示をもって解決の道が与えられる、というものであり、本発表においては、適切に要約・編集された譜例と音源を用いて、これらのことが説得力をもって示された。それゆえに、第4楽章の資料状況の詳細に言及がなかったことが悔やまれる。未完のこの楽章が分析に堪えうる、という石原氏の判断が妥当なものだということを示すためには、この点の説明が必要であったように思われる。また、自身の発表内容と密接に関連する部分についてだけでも、可能であればオリジナル資料が示されると、質疑応答においてさらに深い議論をすることができただろう。
 とはいえ、楽曲全体を貫く隠されたテーマを浮かび上がらせ、ブルックナーの第9番が、第8番までとはコンセプトを異にしていることを示した本研究が、ブルックナー研究に新しい一頁を書き加えたことは間違いない。


音程カノンの伝統の再考—ロマン派のピアノ変奏曲における隠れた数的配列に着目して—
三島 理(東日本支部)

 本発表の目的は音楽と数の関係を語る上で軽視されがちであったロマン派の時代に光を当てることである。音楽と数の関係の議論の是非に拘らず、ロマン派の音楽の中に単純明快な数的法則を追究しようとする発想は乏しい傾向にある。ここからロマン派の音楽に関して音楽と数の関係は十分に調べ尽くされたのかという疑問が生じる。音楽と数の関係という文脈からロマン派の音楽を捉え直す必要があり、本発表はその鍵として音程カノンに着目する。音程カノンとは各声部の音程差を根拠にカノンを一度から順次配列させるものである。本発表はロマン派の音楽に音程カノンに類似する数的配列を発見するためのツールを開発し、音程カノンの伝統の再考を試みる。音程カノンを代表するヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685〜1750)の《ゴルトベルク変奏曲》では音程カノンと変奏曲が結合するため、ここではロマン派の音楽のうち変奏曲を注視する。
 発表者の博士論文は、ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833〜1897)のピアノ変奏曲において模倣を使用する変奏の模倣の音程差がその変奏の順位に投影される現象を指摘した。またフェーリクス・メンデルスゾーン=バルトルディ(Felix Mendelssohn-Bartholdy, 1809〜1847)研究者のラリー・トッド(R. Larry Todd)は、メンデルスゾーンの習作のピアノ変奏曲において音程差に基づくカノンの配置を数的見地から説明した。これらの研究は、ロマン派のピアノ変奏曲の中に音程カノンのように模倣を使用する変奏の模倣の音程差がその変奏の順位に投影されるものがあることを裏付ける。
 本発表では、発表者が博士論文で提唱した方法によりロマン派の独立したピアノ変奏曲の中に音程カノンに類似した数的配列を発見し音程カノンの伝統の再考を試みる。模倣の音程差を根拠に楽曲の配置を観察する発想は《ゴルトベルク変奏曲》に見られる規則をより広範に適用したものと言えるからである。
 考察対象にはメンデルスゾーン、ブラームスの他に、彼らの影響が顕著で、かつカノンを入念に研究したカール・ライネッケ(Carl Reinecke, 1824〜1910)のピアノ変奏曲を含む。
 分析の結果、先行研究と同様の数的配列を見出せるものがある。それらは音程カノンの数的構成を見出す研究手法の伝統の上に位置付けられよう。これはつまり数的構成を観察しようとする態度がロマン派の音楽にも継続して有効であることを示唆する。本発表はロマン派の音楽から音楽と数の関係を抽出するツールを開発し、音程カノンの研究手法をより詳細に考察しその伝統を再考した。
 さらに、音程差の順序数に基づく数的配列という共通点から音程カノンの思考は20世紀の十二音技法と結び付くことを指摘し、本発表を閉じる。


【傍聴記】(藤本一子)

 本研究は、音程カノンの数的配列に関する観点から、19世紀の3人の作曲家によるピアノ変奏曲の構築手法の一端を明らかにしようとするものである。発表では、まず先行研究に基づいて、カノンの音程差が楽曲配列に投影されることを検証する方法が提示され(本発表の主眼のひとつ)、これが15世紀以来のカノンの伝統と関連づけられる。さらにJ.S.バッハの《ゴルトベルク変奏曲》における配列原理を19世紀の変奏曲に適用することへの妥当性が確認されてより広い模倣手法へと歩が進められる。こうしてカノン創作の一部が伝統に連なることが実証される。その意味で本発表はヨーロッパの音楽思考の伝統のひとつを検証するものとしても意義がある。発表はよく入念に準備されていたが、それだけに聴き手として要望も生じてきた。例えば対象作品が成立時期から切り離されて扱われていたが、分析結果から、同時代の動向に即したアクチュアリティある解釈を期待するのは筆者だけではないだろう。フロアからの質問のようにJ.S.バッハを視野にいれることで19世紀の数的配列に別の様相が開けてこないだろうか。また本発表では作品の美的価値に関する議論は除外されていたが(異論を唱えるものではない)、特定の数的配列によって生まれる音楽的な律動について発表者の見解をうかがいたかった。なお19世紀の音楽研究に関して付言させていただけるなら、いまや作品自体の論理的な構築方法を探る方向が主流になっているように感じる。形式内部に微視的な拍節パターンの幾何学的な配列を見出し、これを数値に置き換えて議論する研究もみられる(H.Krebs 1999)。発表者によるさらなる検証の集積から、19世紀の音楽作品の分析に、なんらかの示唆が与えられることを期待したい。


細川俊夫の言葉と音楽―垂直的というキーワードを巡って―
木村友美(日本大学大学院)

 細川俊夫(1955-)は、西洋的記譜法を用いながらも、日本の伝統を根幹に据えた発想で極めて独自性の高い音楽を作り、日本を代表する作曲家として国際的に非常に高い評価を得ている。
 細川は初期から一貫して、さまざまな日本の伝統や文化を深く考察しながら、自身の音楽を根底でしっかりと支える音楽的思想を作り上げて来た。そして自らが、自分の音楽について、様々な特徴的なキーワードを用いて頻繁に文章を書き、講演やレクチャー等で語ってきた。しかしこれらのキーワードは多くの場合抽象的であり、その独特の使われ方ゆえに難解でもある。
 現代音楽に関わるたくさんの人々が細川俊夫の「言葉」に触れてきたわけではあるが、その全体像を捉え直し、整理するという努力はこれまでなされてこなかった。このような状況の中で、それぞれのキーワードと実際の彼の音楽との関係を検証していくことが、発表者が現在執筆中である博士論文の大きな目的である。
 この論文の中から本発表では、細川によって非常に頻繁に用いられながら、特にわかりにくいキーワードのひとつである「垂直的」という言葉に焦点を当て、分析、文献調査、継続的に行ってきた細川へのインタビューの内容などをもとに、様々な角度から考察する。
 まずはじめに、細川が用いるキーワードにはどのようなものがあるのかを挙げ、その中でもなぜ「垂直的」という言葉がとりわけ重要であるかについて述べる。次に、細川がこの「垂直的」という言葉を用いるに至った背景について、影響を受けた武満徹、門脇佳吉等の人物、禅や書といった東洋的思想、「書」「線」「螺旋」等の他のキーワードとの関連などをふまえて解説する。
 そして、この「垂直的」という言葉が実際にどのように音楽に反映され、細川の音楽の独自性に繋がっているかについて、楽曲分析の結果をもとに検証する。特に、音声加工編集ソフトAudacity を用いてCD 音源から得られた、フルートソロ、弦楽四重奏、オーケストラ曲等の音量の推移と音響スペクトルのデータ解析の結果を用いながら、「垂直的」という概念がどのように音楽に現れているかを視覚的に把握することを試みる。
さらに、他の作曲家たちの楽曲から得られた音量の推移や音響スペクトルとの比較も行うことで、細川の「垂直的」という概念に基づいた音楽の、特徴および独自性について言及する。


【傍聴記】(柴田康太郎)

 作曲時にも受容時にも、時にコンセプチュアルな構想が重要な役割を果たす現代音楽の研究では、言説と楽曲の関係をめぐる批判的検証は避けて通れない作業のひとつである。木村氏は、細川俊夫が自作を語る際に用いる数々の「キーワード」の意味とその楽曲上の表れ方を研究しているが、本発表は「垂直的」というキーワードの考察であった。
 まず@複数の細川の言説の整合的な読解を通して、この語が書道家の門脇佳吉からの影響を背景にした、「螺旋」的な時間観の構想と表裏の関係にあることが指摘された。次いでこの構想の楽曲上の多様な表れ方に関してA《線I》の冒頭部等を例に「垂直的」な打音が或る中心音に漸近するように「螺旋的」に配置されていること、「円環的」な時間設計が音価やテンポ設定にも反映されていることが示され、またB《Landscape I》を例に「垂直的」な打音と「音を生成させる母体」たる「沈黙」が対比的に配置されていることも指摘された。
 木村氏の発表は、細川作品を多角的に捉えなおす考察としての重要な一歩である。だが作曲家の言説には一層の批判的考察、楽曲分析にはさらに彼の言説を踏み越えるような分析が必要だろう。たとえば《線I》冒頭の構想の反映が楽曲のその後の部分でどう展開するのか/しないのかを捉えることは、「キーワード」を視点とする分析の意義を問い直すことにもなろう。また木村氏が波形表示によって示した細川作品とラッヘンマンや能楽との楽曲上の類似性、フロアから指摘された細川と武満徹の言説上の類似性は、改めてそれぞれがもつ言説上の差異、楽曲上の差異との関係を再考し、細川やその作品をより広い文脈で捉えなおす視点とも思われた。細川の言説と楽曲の関係をより多角的に分析した、研究のさらなる深化・展開を期待したい。