東日本支部通信 第33号(2015年度 第5号)

2015.10.4. 公開 2015.11.20. 傍聴記掲載(2015.12.28. 傍聴記一部修正)

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東日本支部 第33回定例研究会

 日時:2015年10月24日(土)午後2時〜5時
 場所:東京藝術大学音楽学部5号館109室
 司会:安田和信(桐朋学園大学)
 内容:シンポジウム「スクリャービン再考 ―没後100年によせて―」
 〈パネリスト、および発表題目〉:
  1.野原泰子(兼コーディネーター、武蔵野音楽大学):
   「スクリャービンの創作を文化的コンテクストのなかで再考する
    ―ロシア音楽の系譜と独自性、そして象徴主義との繋がり―」
  2.山本明尚(東京藝術大学):
   「スクリャービンの帰国と若き前衛作曲家の作曲語法
    ―ニコラーイ・ロースラヴェツを例に―」
  3.斉藤 毅(ゲスト、大妻女子大学):
   「ヴャチェスラフ・イワーノフの未刊の著作『スクリャービン』(1919)
   について」
  4.岡田敦子(東京音楽大学):
   「演奏する立場からひもとくスクリャービン
    ―特徴的なピアノ書法と表現法―」
  5.一柳富美子(東京藝術大学):「スクリャービンと声楽」
    *実演協力:金成佳枝(ソプラノ、東京藝術大学)
          居福健太郎(ピアノ、東京藝術大学)


【シンポジウム「スクリャービン再考 ―没後100年によせて―」】

【趣旨説明】(野原泰子)

 今年はアレクサンドル・スクリャービン(1872〜1915)の没後100年にあたる。スクリャービンは帝政末期のロシアを生き、作曲家としてはロマン派のスタイルから出発しながらも、急激な作風の変遷を経て、調性や機能和声によらない独自の音響世界を生み出した。またピアニストとしても、自作自演を中心に活動を続け、創作の大半を占めるピアノ曲は、今日でもピアニストたちの重要なレパートリーとなっている。
 このシンポジウムでは、スクリャービンの音楽活動やそれを取り巻く状況に、様々な視点から光を当て、多角的なスクリャービン像を呈示する。各パネリストの発表題目と内容は、以下の通りである(発表順)。


野原泰子:「スクリャービンの創作を文化的コンテクストのなかで再考する―ロシア音楽の系譜と独自性、そして象徴主義との繋がり―」

 スクリャービンの後期の創作を対象に、その音楽語法と芸術理念を、ロシアの文化的なコンテクストのなかで考察し、ロシア音楽において彼が継承したものと独自性、また同時代の芸術思潮との繋がりを明らかにする。
 音楽語法では、スクリャービンが重用した8音音階に着目する。システマティックな構造の音階(全音音階と8音音階)のルーツが、ロシア音楽にあることを確認したうえで、リムスキー=コルサコフのオペラ《サトコ》と比較し、彼らの8音音階の用法の共通点や、スクリャービンの独自性を明らかにする。
 芸術理念では、ロシア象徴主義の詩人たちとの関わりに着目する。彼らと交友を結んだ事実を確認したうえで、彼らから創作上の示唆を受けていたことや、両者の芸術観の近親性を指摘する。


山本明尚:「スクリャービンの帰国と若き前衛作曲家の作曲語法―ニコラーイ・ロースラヴェツを例に―」

 1910年〜20年代に活動したロシア人作曲家たちの伝記的記述にはしばしば、「スクリャービンの影響を受けた」という記述が見られる。しかし、それらは楽曲内の要素の類似を根拠にしており、例えば「当時のスクリャービンと彼特有の語法が彼らにとってどのような存在だったのか」という問題は、その記述をある面から裏付けると考えられるにも関わらず、検討されることが少ない。本発表は、ロシア革命前後にまたがって、ロシア・ソ連で活動的に革新的な音楽創作を行った作曲家ロースラヴェツ(1880/81-1944)を特に取り上げ、1910年1月にロシアに帰国し、《プロメテ》以降の「後期」作品を次々と発表していったスクリャービンとその語法が、当時どのように彼の目に触れえたのか検討する。その上で両者の楽曲内に見られる語法を比較し、「スクリャービン」という人物がロースラヴェツに「いつ」「どのように」「どのような点に」「影響」を与えたと言いうるのかを考察する。


斉藤 毅:「ヴャチェスラフ・イワーノフの未刊の著作『スクリャービン』(1919)について」

 ロシア象徴主義の代表的詩人にして理論家、晩年のスクリャービンの近しい友人であったヴャチェスラフ・イワーノフは、1915年の作曲家の死後に行なった三つの講演をまとめた著作『スクリャービン』を構想し、1919年にはその校正刷りまで出されたが、結局、刊行されずに終わった。もし予定通りに刊行されていたならば、それはシュリョーツェルやサバネーエフの著作と並び、スクリャービンに関する基本文献の一つになったと思われる。本発表では、この著作の内容、および成立過程の検討を通して、1910年代ロシアの文化状況全般の中でのスクリャービンの芸術思想(とりわけ全体芸術作品としての「ミステリア」をめぐるそれ)の位置づけ、彼の死後から革命期におけるスクリャービン受容のあり方、そして、それ以降のソ連期におけるスクリャービンの芸術遺産の運命について考えてみたい。


岡田敦子:「演奏する立場からひもとくスクリャービン―特徴的なピアノ書法と表現法―」

 ピアノという楽器から官能的で芳醇な音響を引き出す独特な書法は、神秘主義的な音楽理念と並んで、スクリャービンの音楽を特徴づけるものである。この特徴的な音響は、晩年には調性を超えるに至る独特な和声語法と関連しあっており、和声語法の面から説明されることが多いが、今回は論点を変え、ピアノ奏法と表現法の視点からひもといていきたい。発表においては実演も交えながら、タッチ、ルバート、ペダル、声部間のバランス、音域配置、旋律形などを検討することを通して、ピアノという楽器からどのようにしてスクリャービン独特の音響が引き出されるかを示していくとともに、そこからスクリャービンの和声語法を考察するうえでの有効な視点も提示しうると考えている。


一柳富美子:「スクリャービンと声楽」

 周知のように、スクリャービンは生涯でたった一曲しか歌曲を書かなかった。これは古今の作曲家の中でも極めて稀なケースである。何故、彼が声楽分野に作品を残さなかったのか? 発表者は定期的にロシア国内の研究者たちとの勉強会に参加しているが、この問に関する先行研究は、少なくともロシアには皆無であり、ロシア人たちは誰も敢えて口を開こうとしない。スクリャービンの晩年の音楽的思想が声楽と相容れなかったとしても、経歴の最初期から声楽に全く手を着けなかった説明にはならない。
 実は、この唯一の歌曲を統音論(音楽とロシア語の有機的関係に付いての拙論)の立場から分析すると、スクリャービンが声楽を得意としていなかったことがはっきりと分かる。その他のロシア語を伴う僅かな作品〜交響曲第1番、プロメテ〜の声楽処理を分析しても、結果は同じである。
 本発表では、スクリャービンの歌曲と全く同時期に作曲されたラフマーニノフ〈歌わないでおくれ、美しい人よ〉を例に挙げて両者を多角的に比較しつつ、スクリャービンの声楽作品の特徴をまとめる。更に、この声楽を足がかりに、スクリャービンの評伝に関して新たな解釈を提案してみたい。スクリャービンという作曲家の全体像を捉える上で、寡作だった声楽ジャンルに敢えて踏み込むことは、決して無駄ではない筈である。


【傍聴記】(中田 朱美)

 スクリャービンに関する研究では音楽語法や思想に関する論点が大半を占めてきたなか、本シンポジウムでは、周縁的ではあるものの、これまで光を当てられてこなかった側面を照らす斬新な発表が並んだ。以下、順番に見ていきたい。
 まずコーディネーターの野原泰子氏の発表は、後期作品で頻繁に用いられた8音音階の背景に、グリンカ《ルスランとリュドミーラ》にはじまるロシア人作曲家の作品の系譜を捉え、スクリャービンの8音音階に象徴主義思想の表象としての意味合いを重ね見るものであった。氏自身、すでに後期作品における入念な語法研究を行っているため、新規的な語法の背景に伝統を捉えるという今回の脈絡付けがとりわけ新鮮に映った。ロシア音楽史には民謡的な響き、聖歌風の響きなど、特定の響きの継承性が様々な次元で観察されるため、こうした考察は今後、ロシア音楽史の読み直しにつながりうる点で貴重である。
 続く山本明尚氏の発表は、ロシア・アヴァンギャルドの作品に関する説明でよく目にする「スクリャービン的」などという形容がどの程度、的を得たものなのかという疑問から出発し、スクリャービンとこれらの作曲家たちとの関係性を再考すべく、まずはロースラヴェツに焦点を当て、1910年代に刊行された音楽雑誌『音楽』と各々の音楽語法から両者の影響関係を検証するというものであった。こうした関係を捉えるには語法の同異のほか、周辺的な状況として、当人たちの交流状況や言説(書簡、日記、論考)、受容状況(演奏状況、定期刊行物、論考、関係者・機関)などが検証項目として考えられる。したがって今回は一面を取り上げ、結び付けたということになる。その結果、『音楽』誌上の言説が両者の接点として若干強調されすぎている印象を受けた。また「プロメテ和音」と「総合和音」を比較考察している先行研究(たとえばСеверина, Ирина Марковна, "В тени Скрябина(スクリャービンの影で)," Музыкальная академия, 2005, (2), 49-52.)も確認してはどうかと思う。いずれにせよ、今後が嘱望される若手研究者による大変興味深い発表であった。
 次の招待発表者である斎藤毅氏はロシア象徴主義やアクメイズムの専門家で、音楽への造詣が深いことで知られる。今回は象徴主義詩人ヴャチェスラフ・イヴァーノフの未刊の著作『スクリャービン』(1919)を通して、1910年代に象徴主義第2世代からスクリャービンが象徴主義的芸術思想の実現者としてどのように標榜されたかについて発表された。文学思想界から称揚された存在として、ロシア音楽史においてスクリャービンの右に出る者はいない。こうした文学思想界におけるスクリャービン論に関する研究からは、音楽史記述において捨象されがちな1910年代の時代性が浮かび上がってくる。一方、音楽学の立場から気になるのは、革命後の1910年代末の音楽界における受容状況である。たしかに革命一周年記念演奏会で《プロメテウス》が象徴的に演奏された事実などはあるものの、革命直後の戦時共産主義期の潮流としては、教育人民委員音楽部門による統制の結果、プロレタリアートのための音楽への志向性が強かったのではないだろうか。思想界における受容熱の音楽界全般への波及程度、両者の連動性について、今後ぜひ知りたいところである。
 続いて、ピアニストでスクリャービン研究者、岡田敦子氏による発表は、ピアノ奏法的な視点からスクリャービン的な響きとは何か、実演を通して例証するというものであった。ショパンとヴァーグナーから具体的に何を引き継ぎ、何を引き継がなかったのか、結果的にどういう奏法がスクリャービン的と言えるのか、多くの事例が示された。奏法のコンテクストという視座を持ち、スクリャービンのピアノ作品校訂版の全集を刊行し終えた岡田氏ならではの身体知といえるだろう。たとえばスクリャービン作品における音響上の重要な声部は、外声ではなく内声であるとし、実演された。その声部間の弾き分けからは、特徴的な響きというよりも感触を検証されているような感覚を覚えた。実演なしにはこうした体感は望めなかったであろう。
 最後の一柳富美子氏の発表は、管弦楽曲とピアノ曲で知られるスクリャービンに関して盲点となっていた声楽ジャンルを考察するというものであった。氏によると、交響曲第1番を除き、歌詞のついた作品で楽譜が現存する声楽作品は〈ロマンス〉(1891年作?)の1曲のみで、それすらもサバネーエフによって補完された可能性があるなど、詳細は不明という。本発表では時間の関係上、この珍しい〈ロマンス〉を対象とした。氏の考案したロシア語と旋律との有機的関係を省察する分析法「統音論」による分析や、同世代ラフマニノフの歌曲との演奏比較を通して見えてきたのは、本作の声楽曲としての拙劣具合であり、言葉を音楽とともに操ることが不得手だったことを窺わせる作曲家の姿であった。〈ロマンス〉の演奏は本邦初演の可能性があるとのこと、この意味でも貴重な機会であった。現状ではサバネーエフの関与具合が不明なため、これに、残す完成作品である交響曲第1番終楽章の声楽パートの分析が重ねられると、今回の声楽ジャンル像がどう映るのか、気になるところである。


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