東日本支部通信 第22号(2014年度 第1号)

2014.4.25. 公開 2014.6.3.傍聴記掲載

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東日本支部 第22回定例研究会

日時:2014年5月10日(土) 午後2時〜5時
 場所:東京藝術大学 音楽学部 5号館 401室
 司会:野本 由紀夫 (玉川大学)

 〈修士論文発表〉
  1.P.ブーレーズ〈墓〉における作曲と改稿
    ―草稿・自筆譜・出版譜に基づく創作プロセスの解明―
    須藤 まりな(東京藝術大学大学院)

  2.佐渡の能 ―地方に残る能の現状と意義―
    山本 美季子(東京学芸大学大学院)

  3.2000年以降の現代筝曲 ―演奏活動とその特徴を中心に―
    マクイーン時田深山(東京藝術大学大学院)

  4.E.W.コルンゴルト《死の都》自筆譜研究
    中村 伸子(東京藝術大学大学院)

 〈研究発表〉
  神奈川県の民俗芸能「鷺の舞」の楽曲分析
  ―構造人類学による芸能史研究試論―
  川 瑞穂(国立音楽大学大学院)


〈修士論文発表〉


1.P.ブーレーズ〈墓〉における作曲と改稿
    ―草稿・自筆譜・出版譜に基づく創作プロセスの解明―

  須藤 まりな(東京藝術大学大学院)

【発表要旨】
 本研究の目的は、ピエール・ブーレーズ Pierre Boulez(1925- )の音楽創作における「改訂/改稿」の実態を探る一事例として、ソプラノと管弦楽のための《プリ・スロン・プリ》の終曲〈墓 Tombeau〉の多層的な創作プロセス(1959/1960/1962)を解明することである。研究の基礎となる分析作業は、R. Piencikowski監修のもと2010年に刊行された〈墓〉のファクシミリを用いて行った。同ファクシミリに収められたパウル・ザッハー財団所蔵のスケッチおよび複数の自筆譜、出版譜、入手可能な4種類の録音資料を検討し、同一作品の改稿のプロセスを辿った。発表では、改稿作業の中心となる第2稿(1960年)と第3稿(1962年)の相違点に焦点を当てる。
 〈墓〉の第2稿を特徴づける第一の要素は、作品内部の基本構造となる6つのシークエンスに関する構想である。連続する6つのシークエンスを通して、6つの楽器群が循環的に異なる役割を担うことで、漸次的に音の密度が増し、複雑化する全体の形式が設計された。その基盤をなすものとして、ブロック・ソノールの段階的な使用、および実際には計画止まりとなった楽器群の空間配置が挙げられる。発表では、創作スケッチから明らかになった音響空間計画の全貌について詳しく述べる。
 第2稿において着目すべき第二の要素は、可動性である。1960年に書かれた5色のインクによる第2稿の清書譜では、楽器奏者に対して、リズムや演奏順序の選択肢が与えられている。また、強弱や各シークエンス冒頭における楽器群の入りのタイミングに関しても複数の可能性が提示され、その決定権は、指揮者や各楽器群のグループリーダーに委ねられる。
 第3稿の改稿に際し、こうした不確定要素の大部分は固定化された。ブーレーズの可動性とは、実のところ極めて複雑な作曲の管理下にあり、ほとんど実現困難な試みであった。その意味で、可動性からの軌道修正は、当然の帰結であったと指摘できる。また第3稿の改稿では、第5・第6シークエンスが大幅に書き直され、各楽器群が独立した、より効果的な書法へと改められた。第2稿から引き継がれたオリジナル楽句の細分化と、それらの間におかれた空白および挿入楽句によるコラージュ作業によって、当初のプランの骨格をなす6つのシークエンスは解体され、新たなアンサンブルの関係性が再構築されるとともに作品は長大化した。
 こうした創作上の所作は、ブーレーズ自身が指揮者であったという事実と密接な関わりがある。〈墓〉の変遷を辿ることで明らかになったのは、緻密な構想から、実践的な効果を重視する姿勢への転換である。自作品を指揮するという演奏実践が作曲の過程にも作用を及ぼし、結果的にそれがブーレーズの柔軟かつ現実的な創作プロセスに結びついていると考えられる。


【傍聴記】(山内里佳)

 須藤まりな氏の発表は、ピエール・ブーレーズ〈墓〉の創作過程を、草稿、自筆譜、出版譜の比較検討により解明する試みであり、「ブーレーズは指揮者としての経験をもとに、創作上の着想よりも作品の現実的効果を優先させた」と結論付けている。時田深山氏から、演奏の際は第三稿のみが使用されるのかとの質問があったが、もし須藤氏が言うように、現在は第三稿のみが演奏されるのであれば、分析すべきは、音響の空間化と可動性という、第二稿で大きく展開されながらも後に放棄された構想ではなく、第三稿にみられる現実的効果のはずである。それでも、氏が第二稿に拘ったとすれば、そこにブーレーズの作曲思考の鍵が潜んでいたからではないだろうか。澁谷政子氏からの、ブーレーズには伝統的な改稿とは異なる新しい考え方はあるのかとの質問は、発表者に対して、改稿という作業の美学的意味付けを求める本質的な問題提起であった。
 もっとも、以上の点を除けば、須藤氏による分析結果の説明は極めて明瞭であった。また、作品の絶えざる更新はブーレーズの根本的な創作姿勢である以上、改稿の詳細の解明がこの作曲家の研究にとって不可欠であるという氏の問題意識は、正鵠を射ている。今後は、指揮活動と結びつけるのではなく、作曲思考そのものを問う方向で自筆譜研究を継続し、氏の手によって《プリ・スロン・プリ》全体の創作過程が解明されることを期待したい。


2.佐渡の能 ―地方に残る能の現状と意義―

  山本 美季子(東京学芸大学大学院)

【発表要旨】

 本研究対象は、現在までに新潟県佐渡島(以下、「佐渡」)で受け継がれる能である。佐渡は世阿弥配流の地としての歴史をもつが、現在も島内には 35 棟の能舞台が点在し、また年間 30 回近くの演能が行われている。佐渡の能は、島という環境下において民衆の生活と密接に結びつき、独自の芸能文化を形成して今日へと至っている。
 修士論文では、先行研究の資料・文献にもとづいて佐渡の能楽史と能舞台の現状をとらえるとともに、現地でのヒアリングや観察調査の結果から、佐渡の人々が能をいかに認識し、関わっているかという人類学的調査を行った。またその結果を裏付ける一追究として、 1980 年代の佐渡の演能状況と発表者の調査による現在の演能状況との比較を通して、近年 約 30 年間における演能状況の変化と動向を探った。
そして最終章では、研究全体を通じて浮上した「佐渡の能と神事性」の問題を取り上げ、 具体的には能の中でも特に神事的要素をのこす曲<翁>に着目することで、その考察を行った。発表者の調査では、現在佐渡において<翁>の演能は一切行われていない現状が明らか となった。その現状を受け、文献上の記述および若井三郎『佐渡の能組』より確認し得る 1205 回分の番組から<翁>の演能記録を調査した。<翁>の記録を通じてみえてきたものは、 江戸時代初期に佐渡で能が神事として定着した後、人々の娯楽としての色合いを濃くして、民衆の趣味・趣向が演能へと反映されていく過程である。現在行われる佐渡の演能も、このような歴史の流れを受けて大衆性に支えられている。
 本発表では資料および発表者の実地調査の結果にもとづいて、佐渡の能の現状について報告を行うとともに、1980 年代と現在との比較調査の結果を取り上げる。1980 年代の基調 データは、1980 年(調査年は 1979 年)執筆の山田アユミによる論文「佐渡の能楽―能楽 研究の一課題として―」である。同論文には当時の演能頻度、場、観客等についての観察結果が詳細に記され、当時を知る上での重要資料と位置付けた。比較調査の結果から、屋外にて演能を行う習慣や「自分たちの地域の演能は自分たちの手でつくる」という地域単位の演能運営のように変わらず今も受け継がれる部分と、客席の座席区分や組織体制等のように時代に応じて柔軟に変化してきた部分との両面をとらえることができた。また近年 約 30 年間で衰微しまった風習もある一方で、盛んとなった部分もある。1980 年当時、演 能の機会はかつて佐渡で最盛期とされた時期(明治時代初期から昭和時代初期)よりかなり落ち込んでいた。しかしその後、伝統文化への価値見直しの意識や文化財指定による能舞台の修繕等の影響から、年間演能回数および用いられる能舞台数は増加傾向をたどり今日へと至っている。
 佐渡の能の追究は、能楽研究上の一側面を見出す手がかりとなるとともに、伝統芸能の今後のあり方が注目される現代において、重要な事例を提示するものと言えよう。


【傍聴記】(宮内基弥)

 佐渡は能の盛んな土地としてよく知られている。この発表は、発表者の修士論文『佐渡の能 ―地方に残る能の現状と意義―』の中から、第2章「佐渡の能の現状」と第3章「1979年の調査と現在の比較」を中心に行われた。佐渡の能の現状については、佐渡に残る能舞台や演能の現状、および、佐渡の人々に実施したアンケート調査が紹介された。これらの調査から発表者は、佐渡の人々にとって能は、佐渡の歴史であり、文化であり、人と人とのつながりを示す表徴として機能している、とまとめた。また、1979年の調査と現在の比較では、能舞台、能舞台に限らない演能の場、演能回数、観客席や観客および鑑賞の仕方の変化、観光客の増加による変化、などの項目についての調査結果が報告された。この研究により、我々の手にすることのできる民族誌が一つ増えたことは喜ばしいことである。
 質疑応答の内容は以下のとおり。他地域との比較、また黒川能との比較についての質問に対し、これは今後の課題とのこと。アンケート対象の抽出法、場所、人数についての質問には、ランダムな聴取で個人的な聞き込みと公共機関へのアンケートの依頼によったこと、場所は可能な限り佐渡全土、人数は100人程度とのこと。能に接する機会はどのようなものかという質問では、まわりに演じている人がいるというのがきっかけの殆どであり、佐渡は伝統芸能の教育が盛んで、世代別け隔てなく能を実践、鑑賞しており、また、能を教えている中学校もあるとのこと。


3.2000年以降の現代筝曲 ―演奏活動とその特徴を中心に―

  マクイーン時田深山(東京藝術大学大学院)

【発表要旨】
 日本の箏曲は時代により様々な形で変化を遂げ、現在に至る。本修士論文『2000年以降の現代箏曲 —作曲・演奏・楽器の3つの視点から— 』は、インタビューなどのフィールドワークによって、現代箏曲がどのような現況にあるのかを明らかにしようとしたものである。中でも演奏活動のあり方は特に多様化しており、本発表はそれに焦点を当てるため、発表のタイトルは、副部分を変更し、「演奏活動とその特徴を中心に」とする。
 活動の種類を分類すると、まず、いわゆるコンサート形式での演奏活動があり、論文では新作の委嘱をメインに取り上げた。この形で演奏活動を行っているのは、まず、70〜80年代に活躍した大御所演奏家であり、つぎにその弟子に当たる次の世代の若手演奏家であり、若い世代には独自の活動の傾向がある。
 60〜70年代の「現代邦楽ブーム」では、新作の委嘱が意欲的に行われた。しかし、今では新作の委嘱はそれほど多くなく、既存の作品でプログラムを構成することが多くなった。その理由として、創作活動が違う形(コンサート形式以外の演奏活動)で行われていること、それに再演の機会が少ない現代邦楽ブーム当時に書かれた作品を演奏する傾向が考えられる。これらはそれぞれ、現在のいわゆるコンサート形式の演奏活動の特徴である。
 この他に、箏の演奏活動には様々なジャンルがあり、そのひとつに、ジャズや民族音楽とのコラボレーションである。そこでは箏奏者に即興演奏が要求され、それまでになかった箏の音楽が作られている。また、特にジャズにおいては、演奏者によるオリジナル曲の創作が求められることも多く、そこでも新しいスタイルの音楽が生まれている。
 また、カバー曲やポップス風のオリジナルを演奏する活動があり、そこでは、一般の人々にもっと箏に親しんでほしいという意図が前面に出ている。現代邦楽ブーム当時の、現代音楽とも言える、一般の聴衆には難しくも聞こえる音楽とは対照的に、箏のなじみにくいというレッテルをはがそうと試みる活動である。箏の伝統楽器としての堅いイメージを変えようという活動は、現代邦楽ブーム以前から行われているが、現在のこのような活動では特にその意図が目立つように思える。
 また、エレクトロニクスやビジュアル系バンドへ取り入れられた箏もあり、そこで箏はエキゾチックなものとしての役割を求められている。箏はそのバンドやユニットのイメージを売り出すためにも使われ、ビジュアルな要素として重要であり、音楽においても、装飾的な役割を果たすことが多い。
 さらにまた、海外在住の箏演奏家についても調査した結果、日本から離れたことによって、活動の意図や傾向が変わることも分かった。
 本論文の調査により、箏が様々な場で演奏されるようになっていることが明らかになった。これを基盤として、これからもその活動の場がさらに広がって行くことが容易に予想しうる。今後「箏曲」ばかりでなく「邦楽」と見なされる音楽の範囲が広がっていく、その可能性について、ここから考察をすすめられるだろう。


【傍聴記】(宮内基弥)

 この発表では、発表者の修士論文『2000年以降の現代箏曲 ―作曲・演奏・楽器の3つの視点から―』の中から、その第2章を中心にして、発表要旨に述べられている様々な形態の演奏活動を、実際の音源とともに紹介することで、現代箏曲の多様なあり方の一端が、我々に提示された。
 沢井一恵や野坂操壽は、数十年前では邦楽界の外で活動をしていたが、現在では邦楽界の巨匠とされており、このことから発表者は、現在の多様な箏の演奏活動も、今後、自然な箏のあり方となっていき、箏の音楽という定義の範囲が広がっていくだろう、と予想している。箏曲というものに固定観念を持っているむきには、これは興味深い指摘ではなかったろうか。箏は和楽器の中でも特に貪欲に、外来音楽の多様な要素を取り込み発展し続けているが、その渦中にいる我々は、殆どの場合過去の音楽の研究に取り組んでおり、自身が演奏家でもある発表者の今回の発表は、音楽というものが現在進行形であることを、我々にもう一度思い出させてくれたように感じる。
 いくつかの質疑応答のうち一つだけ報告しておけば、題目にある2000年という区切りについての妥当性についての質問があり、これに対しては発表者も、自身の感覚では2000年以降これらの多種多様な演奏活動が定着していったように感じるが、実際はざっくりとした区切りであり、はっきりとした根拠はない、とのことであった。


4.E.W.コルンゴルト《死の都》自筆譜研究

  中村 伸子(東京藝術大学大学院)

【発表要旨】
 E. W. コルンゴルト(Erich Wolfgang Korngold, 1897〜1957)は、20世紀前半にウィーンとハリウッドで活動した作曲家である。コルンゴルトをめぐる先行研究のほとんどは、彼の父や妻といった関係者の言説に強く依拠しており、彼自身の手紙や自筆譜を対象とした研究はごくわずかである。発表者はかねてから、関係者の言説に依存して形作られてきた今日の理解には不十分な点が多いのではないか、と疑問を抱いてきた。そこで修士論文では、コルンゴルトの一次資料研究の端緒として、これまで扱われることのなかったオペラ《死の都 Die tote Stadt》Op. 12(1920)の自筆譜を詳細に比較・検討することで、その創作過程を考察した。
 本論文では、まず、アメリカ議会図書館音楽部門に収められているコルンゴルト・コレクションの内容と状態の把握を行った。このコレクションはコルンゴルトの自筆譜の大半を収集しているものの、研究を行うためのアーカイヴとしては未整理の段階である(調査実施:2013年1月7〜12日)。
 次に、《死の都》の創作過程に関して、先行研究や評伝に見られる従来の記述を確認した上で、自筆譜を用いた創作過程の再構成を行った。調査対象とした自筆譜は、コルンゴルト・コレクション所蔵の《死の都》の自筆譜、すなわち自筆ピアノ・ヴォーカル・スコア(パーティセル)、自筆フル・スコア、断片的なスケッチである。このうち、作曲のごく初期段階の自筆譜であるパーティセルについては特に精査し、紙の種類や綴じ方、書き込みなどを手掛かりに、オペラの各箇所がどのような順序で書かれたかを推定した。以上により、本論文では新たに以下の3点が明らかになった。第1に、創作過程に関するこれまでの記述では台本完成の時期は曖昧にされてきたが、台本がほぼ現在の構成となったのは第一次世界大戦終戦後から1919年夏の間であり、作曲開始(1916年あるいは1917年)よりも後のことであった。第2に、オペラは当初3幕構成ではなく2幕構成を想定しており、現在の第1幕と第2幕の境目に当たる箇所はひと続きに上演するように作曲されていた。第3に、当初オペラの題名は、原作であるジョルジュ・ローデンバックの小説の独語訳と同名の《死のブリュージュ Das tote Brügge》であった。
 なお、《死の都》の台本はパウル・ショットという筆名でコルンゴルト父子によって作られた。物語の悲劇的な出来事を主人公の夢として描く結末は、《死の都》の台本において原作と異なる最大の特徴である。本論文で台本完成の時期がおおよそ特定されたことにより、この結末は第一次世界大戦でのオーストリア敗戦と帝政崩壊を反映し、観客のために原作の救いのない結末をやわらげようとしたのではないか、と考察する可能性が生まれた。


【傍聴記】(山内里佳)

 中村伸子氏の発表は、コルンドルトのオペラ《死の都》の成立過程を、自筆譜調査によって明らかにしたものである。アメリカ議会図書館所蔵のコルンゴルト・コレクションは、大雑把にしか整理されていないようだが、その膨大で錯綜した資料のうち、氏は、自筆ヴォーカル・ピアノ・スコアに注目して、各箇所の作曲順序を推定した。その成果が、コルンゴルトの父や妻による回想といった二次資料にのみ基づく先行研究での年代推定との異同も含め、極めて明快に図表にまとめられていた。とくに、台本の完成時期を特定することで、このオペラが原作とは異なる結末をもつ意義を見出した点は、注目に値する。
 江端伸昭氏から、自筆譜に使用された五線紙の分類基準についての質問と、紙の種類による分類と創作課程の段階を安易に結びつける危険性についての指摘があったが、中村氏は五線紙の他に頁数の書き込みでも年代を検証しており、江畑氏からは、中村氏の研究への賛辞とともに、この作品だけでなく、コレクション全体が中村氏によって研究されることを切望するとのエールが送られた。同様の賛辞と激励は前田昭雄氏からも与えられたが、前田氏は、芸術上の要請に加えて、政治や時代の問題とも絡めて論じるようにとの助言も同時に行った。そのためには、今回の研究対象からは割愛された書簡の検討が必要となるだろう。近年、日本での演奏機会が増えているコルンゴルトであるだけに、中村氏による今後の研究が楽しみである。


〈研究発表〉
 神奈川県の民俗芸能「鷺の舞」の楽曲分析
  ―構造人類学による芸能史研究試論―

 川 瑞穂(国立音楽大学大学院)

【発表要旨】
 発表者は、日本の民俗芸能とその音楽に関する構造人類学的研究というテーマの一環として、鷺の作り物を身につけて舞う風流系の民俗芸能「鷺舞」の調査・研究を行っている。島根県「津和野弥栄神社」の「鷺舞」、山口県「山口祇園祭」の「鷺の舞」、神奈川県「国府祭」と「五所八幡宮例大祭」の「鷺の舞」、福島県「御宝殿の稚児田楽・風流」の「鷺舞」の5つ(近年再興したものを除く)が現存しており、島根県と山口県の事例は京都八坂神社の祇園祭に淵源するものであることが分かっているが、これらの鷺舞と、関東以北の鷺舞との歴史的関係は明らかではない。
 発表者はこれらの芸能を「鷺舞」という一連のヴァリアントと捉えることで、これらの芸能に共有される「構造」を見出したいと考えている。2012年の藝能史研究會11月例会において発表者は、クロード・レヴィ=ストロースの「料理の三角形」理論を応用し、島根県と山口県の事例の分析を行った(拙稿「伝統芸能の構造分析試論―「料理の三角形」理論の実践的応用―」『藝能史研究』第200号、pp.74‐75、2013年、参照)。今回は関東以北の3つの鷺舞、中でも神奈川県の2つの「鷺の舞」の構造論的楽曲分析を行う。
 神奈川県中郡大磯町国府本郷の祭礼「国府祭」の「鷺の舞」には、祭典の囃子《流し》と舞の囃子《舞路》の2曲が存在する。囃子は篠笛と大太鼓という編成である。この両曲を音型に分解すると、両曲がほとんどの音型を共有していること、そして《舞路》の音型編成は《流し》の音型編成の前半後半をそれぞれ逆転させたものであることが分かる。両曲の間には、レヴィ=ストロースのいうところの「変換transformation」の関係が認められる。
 その証明となるのが、国府祭の「鷺の舞」のヴァリアントである、五所八幡宮の「鷺の舞」である。神奈川県足柄上郡中井町遠藤の五所八幡宮には、大磯の国府祭から直接的に伝承された「鷺の舞」がある。この「鷺の舞」の囃子は、《舞路》は国府祭と同じだが(大太鼓は2ヶ所異なる)、《流し》には差異がある。五所八幡宮の《流し》は、国府祭の《流し》の音型編成を、明確に「縮約」したものとなっている。これは、五所八幡宮の「鷺の舞」においても、両曲間の関係は合同、すなわち構造が共有されていることを示している。内容は変化すれども、2つの「鷺の舞」の構造的な関係性は保持されているのである。
 このヴァリアントは、発表者が国府祭の囃子に行った音型分析の妥当性を証明するのみならず、「鷺舞」が、レヴィ=ストロースのいうところの「変換群」を形成している可能性をも示唆している。さらに本発表の分析結果から、鷺舞の歴史的展開という、構造分析と歴史学を統合した芸能史研究の可能性を提示することができる。今後は、鷺舞を一連のヴァリアントによって形成される「神話群Myth-category」と捉えることで共通の「構造」を見出し、日本における「鷺舞」の間に存在する変換の関係を明らかにしたい。


【傍聴記】(宮内基弥)

 この発表では、国府祭と五所八幡宮の「鷺の舞」における、神輿の伴奏である《流し》と踊りの伴奏である《舞路》、について構造人類学的な観点からの考察が提示された。
 発表者は、国府祭におけるこれら二つの楽曲に対し、五所八幡宮のそれらとの比較とともに、共時的な観点から楽曲構造を分析した後、この研究の眼目ともいえる、これら二つの楽曲の経緯についての通時的な考証を提出した。鷺以外の被り物である龍と獅子がどちらも風流踊りに由来する三匹獅子舞と同じものであること、《舞路》の冒頭音型は、《舞路》と《流し》の他の旋律とは音組織が異なること、また、類似の音型が風流系の芸能にしばしば見られること、これらのことより発表者は、《流し》から《舞路》への変換は16世紀の風流踊りという大きな外的要因によって引き起こされたと結論づけた。
 質疑応答の内容は、楽曲分析における疑問点や、他の地域にみられる「鷺の舞」との関連性、構造人類学を援用することについてなどであった。いくつかの問題点もあるように思われたが、大局的には、結論へと収束する一連の考察、推論は私に小気味よい学問的快感を与えた。発表者の現在の主要な研究対象は秩父の「神明社神楽」であり、今回の研究は実験として行われたということであるが、この実験により、民俗芸能の通時的な研究に対する構造人類学の応用可能性が見出されたようである。この野心的な研究者の更なる研鑽と今後の活動を楽しみに待ちたい。


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