東日本支部通信 第16号(2013年度 第2号)

2013.5.21. 公開 2013.7.1. 最終更新

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東日本支部 第16回定例研究会

日 時: 2013年6月8日(土) 午後2時〜5時
場 所: 東京藝術大学 音楽学部 5号館 401室
司 会 久保田 慶一 (国立音楽大学)

<修士論文発表>
1. 能楽の戦前と戦後
    ―「第三の危機」再考―
  橋本 かおる (東京藝術大学大学院)

2. 集団演奏における空間意識および時間意識の問題
   ― 和辻哲郎の「間柄」の概念をもとに ―
    山口 隆太郎 (東京音楽大学大学院)

3. 近代的隊列運動の導入における西洋軍楽の役割
― 中世・近世武芸流派における基本的歩行と行進の歩行の対比から ―
   下田 雄次 (弘前学院大学大学院)

4. J.S.バッハ《四声コラール曲集》論
    ― その作曲技法の18世紀における継承 ―
   松原 薫 (東京大学大学院)

5. 真のカトリック音楽、あるいは「未来のドラマ」としてのミサ・ソレムニス
   ― F.P.ラウレンツィンの教会音楽論を中心に ―
   清水 康宏 (東京大学大学院)


1. 能楽の戦前と戦後 ―「第三の危機」再考 ―
橋本 かおる (東京芸術大学大学院)
【発表要旨】 
能楽の歴史には、戦国時代、明治維新、第二次世界大戦敗戦期という三つの危機がある。能楽史上最大の危機と呼ばれる明治維新が、近代能楽史の転換点として注目を集めてきた一方、第二次世界大戦の敗戦期である「第三の危機」は、戦前・戦後という意味づけが先行し、その内実の検証は十分になされていない。本研究の目的は、能楽史上「第三の危機」と呼ばれる敗戦期が、能楽にいかなる変化をもたらしたのかを明らかにし、その意味を再考することである。「場」「人」「制度」という三つの観点から、戦前から戦後の能楽界の動向を一貫した流れとして捉え、「第三の危機」の実体の解明を試みた。
第一章では、能楽をめぐる「場」の変化として、空襲による能楽堂の焼失を取り上げた。能楽堂焼失時期とその被災状況を整理し、戦後能楽界で流儀を越えた交流が生まれた背景を明らかにした。また、戦後の能楽堂再建事業を、被災状況が類似する関東大震災後の動向と比較した。その結果、「第三の危機」の特殊性として、財閥解体と華族制度の廃止による支援者層の喪失や、社会的思想及び価値観の変化を伴ったこと、復興の担い手が能楽師自身であったことを指摘した。
第二章では、能楽師という「人」の意識的変化に焦点を当てた。戦前から始まる学生鑑賞能と新作能の活動や、戦後の青年能楽師たちの活動を取り上げ、喜多実と観世寿夫を中心に能楽師の意識的変化を考察した。青年能楽師たちにとっての「危機」は、能楽社会の封建的構造に対する懐疑や、新しい価値観を獲得した社会における能楽存続の不安という精神的動揺であり、それは同時に「能楽とは何か」という問いに向き合う契機となった。「第三の危機」の本質は、青年能楽師たちが台頭してくるとともに顕在化し、この「危機」が与えた世代間の衝撃の差異を浮き彫りにした。
第三章では、戦後能楽復興の主導的役割を担った能楽協会を始め、芸術祭や文化財保護委員会等の能楽を支えるシステムを、「制度」という包括的な枠組みで捉え、それが戦後の能楽をいかに方向づけたのかを明らかにした。また、そうした「制度」を必要とした背景である、パトロンの喪失や三役の後継者不足といった実質的「危機」について論じた。
第四章では、本論文の結論として各観点から捉えた能楽の変化を総括し、「第三の危機」の再考を試みた。「危機」の時代のアウトラインは、能楽堂の焼失から再建という「場」の変化によって捉えることができ、その内実は世代や立場によって異なる多層的な構造を持つ。三役の地位向上、制度としての「伝統」化、能楽ルネッサンスの会に象徴される新しい潮流の誕生が、「第三の危機」を経た能楽界の変化であり、この「危機」からいかに脱出するかが今日の能楽のあり方を左右する重要な選択となった。「第三の危機」は、復興のエネルギーが犇めく現代能楽の胎動の時代であり、この時代の経験は今日の能楽界の財産となっている。


【傍聴記】(高松晃子)

 修士論文を20分の口頭発表に仕立てるには思い切った発想の転換が必要だ、とどこかに書いたことがあるが、この発表は論文全体の「縮小版」を提示することに成功した希少な例である。事実を丹念に調べ上げることで、これだけの大きな物語を紡ぎ出した発表者の力量には感服した。ただ、その大きな物語がコンパクトに、しかも整然と提示されているために、それが語りきれない細かな事柄を知りたくなるのも確かである。
  フロアからの質問も、そうした「縮小版」の限界を捉えたものだった。たとえば、能楽堂消失時の東京で流派を超えた交流があったのなら、東京と地方の演者の間に同様の交流があったのかどうか。発表者によれば、関東大震災時は復興に時間がかかることを見越して関東の演者が地方に流出したことがあったが、敗戦後は、復興の母体となった能楽協会を頼って、関東に演者が戻ってきたり身を寄せたりしたことがあったそうである。また別の質問は、能楽師の職業意識に関するものであった。戦後の能楽師が自らのイメージをどのようにアピールしたかったのか、その意識の変化が新しい試みに結びついたのだろうという指摘である。それに対して発表者は、戦前から戦後にかけて、芸の鍛錬の重視から「人に見せる」意識へ変化したと述べた。事実の提示によって描かれた大きな物語が、関わる人々のふるまいや発言の考察をとおして、さらに立体的なものになることを期待する。


2. 2. 集団演奏における空間意識および時間意識の問題
 ― 和辻哲郎の「間柄」の概念をもとに ―
山口 隆太郎 (東京音楽大学大学院)
【発表要旨】
この修士論文は、集団演奏における空間意識および時間意識がどのように奏者間に働いているのかを、和辻哲郎の「間柄」の概念をもとに明らかにすることを目的としている。
 演奏には多様な形態があり、ピアノ独奏のように一人で演奏することもあれば、オーケストラや合唱のように多くの演奏者によって奏でられることもある。こうした多様性にもかかわらず、これまで演奏に関する多くの考察は演奏行為の問題を個人の問題として捉えてきた。演奏論の代表的著作であるジゼール・ブルレの『創造的解釈』においても、演奏が個人的行為であると明言されている。こうした考察に従えば、二人以上でなされる演奏、すなわち集団演奏は、単に個人の演奏が同時に行われていることになるだろうが、それで十分に説明されているとは言えない。なぜなら、集団演奏では他の奏者の存在を措定し、他の奏者との関わりのなかで演奏が成立するからだ。そこで、本論文では、集団演奏の問題を個人に集約せず、個人と集団の連関から論ずることとした。
 そこで奏者の意識に焦点を当て、演奏しているまさにその場における意識を考察の対象とし、その意識が奏者間においてどのように機能しているのかを考察した。
 本発表では、修士論文を再構成し、次の順序に従って説明する。
 まず、奏者の意識を空間意識と時間意識とに分けて考察する。空間意識においては、意識される対象についてサルトルの分類(知覚・想像・概念)に従って考察する。時間意識においては、フッサールの『内的時間意識の現象学』の議論をもとに考察する。そして、それぞれの意識において、他の奏者がどのように意識されるのかを明らかにしよう。
 その上で、なぜこうした意識が生じ、またそれが奏者間でどのような機能を担っているのかを、和辻哲郎の「間柄」の概念をもとに考察する。和辻哲郎は、『人間の学としての倫理学』および『倫理学 上巻』において、自己と他者の関係、その関係によって生じる共同態と個人の関係、この二つの関係(これが「間柄」である)を考察した。この和辻の「間柄」の概念から先に考察した意識を捉えなおすことによって、奏者間の連関と集団と個人の連関の双方から集団演奏について考察することができる。そして、集団演奏が単に個人の演奏の重なりではなく、関係性の中で成り立つものであることが明らかになるだろう。
 こうした考察から、次の二点が明らかとなった。一つ目は、奏者間において、現存する空間として意識するいま演奏している空間に、他者が奏者として存在することが集団演奏の成立条件となっており、それが「間柄」によって可能になっていることである。そして二つ目は、集団演奏によって「間柄」が常に変化し、奏者の意識も「間柄」の変化とともに新たにされていくことである。


【傍聴記】(高松晃子)

 「その前提は正しいのか」「なぜ和辻なのか」という疑問は残るが、充実した20分であった。
 まず、従来の演奏論が個人を前提として考察されていた、という発表者の問題提起が意外であった。私の所属する大学では、表現系の大学院生がアンサンブルにおける相互行為についての論文を毎年のように生産しているので、感覚が麻痺していたのだろうか。ただ、発表者が根拠として提示したのは1951年のブルレの発言だけだったので、それではあまりにも説得力に欠けるのではないかという懸念が残った。どの領域の先行研究にどのくらい当たってこの前提が出てきたのか、もう少し説明があってもよかっただろう。
 前提を消化しきれずにいるうちに、今度は次の疑問「なぜ和辻なのか」が生じた。司会の久保田慶一氏からも同様の指摘があったが、ほかの準拠枠組と比較して和辻の「間柄」概念はどこがどのように優れているのか。フッサールとの対比は述べられたが、ここもやや急ぎ過ぎた印象。
 発表の中心である、「間柄」概念を用いて集団演奏を説明した部分はわかりやすかった。今後、集団演奏のさまざまな様態を説明する際に便利な枠組となりそうである。平野昭氏が出した「例題」―大規模なオーケストラ作品における指揮者と演奏者の関係―に対して発表者が出した解は必ずしも明解とは言えなかったが、こうして具体的な事例を検討しながら、洗練された理論にしてほしい。


3. 近代的隊列運動の導入における西洋軍楽の役割
― 中世・近世武芸流派における基本的歩行と行進の歩行の対比から ―
下田 雄次(弘前学院大学大学院)
【発表要旨】
 本研究では、幕末・明治期に導入された西洋軍楽が日本における当時の軍事訓練(調練)において果たしたであろう役割や、その機能の一端を浮かび上がらせる。今回は、行進訓練(足並み訓練・歩行訓練)に焦点を絞った。方法としては、日本の中世・近世武芸流派における基本的な歩行と近代的な隊列運動における歩行(行進歩行)の対比を行った。当時の武芸者達にとっての行進訓練はどのようなものであったか、についての考察を通して近代的隊列運動の導入における西洋軍楽の役割の解明を試みた。
 これまで、近代的軍事訓練の導入における西洋軍楽の役割については、多くの指摘や論考がなされてきた。調練による日本人の歩行の変容についての指摘もすでにある。しかしながら、それ以前の日本人の歩行についてはそれほど研究が進んでいない。近代的な行進技術を習得する以前の日本人の歩行の特質の解明は、日本人の歩行の変容や、さらにはその変容における西洋軍楽の役割を考える上でも重要であるといえよう。
 対比から見えてくることは、当時の武芸者にとっての行進訓練は単に「新たな歩行方法の習得」ではなく、歩行方法の大きな転換を要求されるような体験であった、ということである。
 武芸における歩行では「足ヲモッテセズ」(駒川改心流剣術)「足はただ支えるばかりなり・薄い氷の上を歩くように」(夢想願流)「差し出した剣に導かれながら水平に進む」(卜傳流剣術)というように、重力や慣性力を活用し身体を前方に倒しながら前進する方法や、骨盤・胴体部の積極的な運動によって脚を操作するような方法、すなわち「脚を受動的に使う歩行方法」が見られる。このような歩行の様態は、足裏で地面を蹴らずに身体を水平に進める、というものになる。当時の日本の武芸では、脚を能動的に部分的に操作することを戒めていた様子がうかがえる。
 対して、近代的な行進では「足並み訓練」に代表されるように、脚部を積極的に能動的に操作し、地面を拍節的に強く踏みならすような身体運動が求められた。
 武芸における歩行のリズムは非拍節的で流動的なもの、拍節感の弱いものであり歩行時の足音も小さい。それに対し、行進における歩行リズムは拍節的であり歩行時の足音は大きい。足踏み運動そのものが「拍節的に足音を発生させる行為」であるともいえよう。足を能動的に拍節的に踏みならす行為自体が武芸における基本的身体操法の否定に繋がるものであり、同時に行進技術習得のための基本訓練であった。
以上から、ドラムマーチのリズムは武芸者にとっての基本的な歩き方を否定し、新たな身体技法を手に入れるための矯正的な役割を果たした、という結論に至った。


【傍聴記】(高松晃子)

 修士論文全体を縮小してアウトラインを提示した橋本発表とは対照的に、この発表は、論文の一部を取り出して20分間で最大限に理解してもらおうとするものだった。ひとつ前の山口発表のテーマは「集団演奏」であったが、本発表のそれは言ってみれば「集団行動」である。発表者は、明治の近代的軍隊(典型的な集団行動の場である)におけるドラムマーチに着目し、そのリズムが武芸者たちの伝統的歩行を否定したと結論づけた。
 動画の提示や具体的な説明に時間を使った分、たいへんわかりやすかったが、発表テーマを絞った以上はもう少しいろいろな視点が出てきてもよかったかと思う。たとえば、非日常である武芸の歩行と、新たな非日常となった近代的軍隊の歩行の間に、日常の歩行があるとすれば、それら三者の関係はどのようなものだったのか。また、近代的軍隊に帰属した武芸者以外の人はどのような歩行をしていたのか。着衣や武器(後者については質疑応答時に触れられた)など、装いの変化は歩行にどう影響したのか。さらに、伝統的歩行はドラムマーチのリズムにより「否定」されたのかどうか。というのは、山口発表の枠組を使って考えてみるに、フリーリズムで動いていた人たちが集団になれば、山口発表の言うところの「予持」を共有しづらい。ドラムマーチは、過去を否定する道具というよりは、そこに居合わせる人々が同質の「予持」を持つための手助けであるように見えたのである。さまざまな観点から取り組める興味深いテーマであり、今後の研究が期待される。


4.  J. S. バッハ《四声コラール曲集》論
― その作曲技法の18世紀における継承 ―
松原 薫(東京大学大学院)
【発表要旨】
 J. S. バッハ(1685-1750)の死後、18世紀後半に出版された彼の唯一の作品《四声コラール曲集》(BWV253-438)は、バッハの既存の楽曲から四声体コラールを抜粋、収集したものである。バッハ受容史におけるこの曲集出版の意義はこれまでにもしばしば指摘されてきたが、先行研究の多くは曲集の資料批判が中心であった。そこで発表者の修士論文では《四声コラール曲集》に関連する資料の実証的考察を踏まえた上で、音楽理論、思想の両面から議論を試みた。その結果、特に彼の作品受容がまだ本格化していなかった18世紀に関しては、「作曲技法の継承」という観点がバッハの受容史を考える上で重要であること、この曲集はその18世紀のバッハの作曲技法継承に大きな影響を及ぼしたことを明らかにした。本発表では《四声コラール曲集》の出版背景を論じた第1章、この曲集と当時の作曲技法の枠組み(対位法、通奏低音、根音バス)との関係を論じた第2章第2節を中心に取り上げる。
 《四声コラール曲集》はバッハの次男C. P. E. バッハ、弟子キルンベルガーの計画に基づき、1760年代にビルンシュティール、1780年代にブライトコプフによって出版された。印刷譜の出版以前に存在した四声コラールの筆写譜のうちで現存するおそらく最古のものは、弟子ディーテルによる版である。ディーテル版ではコラールは四段譜表(4つの声部を一段ずつ)で記譜されていた。しかし1760年代、80年代の印刷譜になると、コラールは二段譜表(上段、下段に二声ずつ)でレイアウトされた。C. P. E. バッハによる曲集序文によれば、これは鍵盤楽器による演奏の便宜を考慮した結果である。さらに、コラールによる作曲技法学習が厳格な対位法の学習と対置されていること、C. P. E. バッハがフォルケルに宛てた書簡の中で、「父バッハは作曲指導の初歩段階ではまず、四声体コラールを教材として通奏低音を教えた」という趣旨の内容を述べていることからは、この曲集に「作曲学習者のための通奏低音教材」という役割が賦与されていたことを指摘できる。
 一方で、18世紀後半を通じてバッハの特徴を対位法に見いだす傾向は引き継がれていた。ただしすでにバッハの生前から、対位法は時代の趣味にそぐわない古風な作曲技法であるとして、必ずしも肯定的に捉えられていたわけではなかった。《四声コラール曲集》の出版は、対位法に代わる実践的な技法として通奏低音を積極的に取り上げる意図のあらわれとして見ることが可能である。また当時はキルンベルガー、マールプルクら対位法を重視する保守的な音楽家であっても、ラモーの根音バス理論の吸収、展開を試みていた。対位法から通奏低音、和声理論に至る音楽の枠組みがせめぎ合う時代に世に問われた《四声コラール曲集》は、「対位法の巨匠」たるバッハの作でありながら通奏低音の教本として出版され、同時に和声学的な理解にも開かれた、類まれな曲集であったと解釈できよう。


【傍聴記】(江端伸昭)

 例会委員会から来た発表要旨(上記)を見て困惑したが、例会当日に黙っていて傍聴記に酷評を書くのは好みでないので、フロアから批判すると決めて出かけて行った。聞きづらい発表だった。関連するが別々であるべき話題が混線し、かつ細部が省略されているため、議論の筋が通らず、すべて安易な結論に聞こえる。松原さんの発表は、概略次のような線で整理し直して、議論を深めることが強く望まれる。
 バッハが弟子の教育において、当時すでに出現していた古様式厳格対位法の教科書を用いず、コラールの4声体和声づけから始めて、通奏低音和声とそれに基づいた当世風の対位法を教えたこと。バッハの4声コラール集がバッハの没後に出版されたこと。この2つは別の事柄であるが、コラール集のC. P. E. バッハによる序文やフォルケルの証言などを検証して、両者の関連事項を考察すること。その上で、4声コラール集の資料研究をもっと正確に参照して、バッハ生前の4声コラール集の実態を推論すること。次にまったく別の話題として、18世紀音楽理論での対位法の位置づけと、バッハの没後にベルリンの理論家たちが輸入した根音バス理論を論じ、その上で、バッハの4声コラール集の最初の出版がまさにその時期だったことに注意して、この理論的文脈での議論を展開すること。
 発表者が怖じ気づいたりせず、積極的な態度を崩さなかったことは立派であり、好感の持てるものであった。今後の発展に期待したい。


5. 真のカトリック音楽、あるいは「未来のドラマ」としてのミサ・ソレムニス
  ― F・P・ラウレンツィンの教会音楽論を中心に ―
清水 康宏 (東京大学大学院)
【発表要旨】
本発表は、19世紀半ばの音楽理論家フェルディナント・ペーター・ラウレンツィンによるベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》についての論考を取り上げ、彼が影響を受けた同時代の音楽論・宗教論も参照しつつ、《ミサ・ソレムニス》批評の転換期を形成した彼の論考の意義を考察し、評価する試みである。
ラウレンツィンによる教会音楽史の記述はヘーゲルの宗教哲学が理論的根拠となっているが、そこではバッハのミサ曲が「信仰」、ベートーヴェンのものが「感情」、そしてリストの楽曲は「表象」という音楽形式を特徴として持っているとされ、まさにヘーゲル的な三段階の発展として描かれている。しかしヘーゲルにとって単に「感情」の形式が弁証法的に止揚されるものであったのとは異なり、ラウレンツィンにとってベートーヴェンの「感情」は、教会音楽史のなかで重要な役割をもったものとして考えられている。
彼の《ミサ・ソレムニス》論をさらに詳しく見ていくと、基本的にはA・B・マルクスのベートーヴェン論を踏襲していることがわかる。しかしラウレンツィンは、この作曲家が教会への信頼ではなく、ただ主観的に、交響曲のような「ファンタジー」によってこのミサ曲を作曲したとするマルクスの考えには同意せず、さらにこのミサ曲のなかに「象徴的・劇的」な表現があることを読み取っている。
「象徴的・劇的」な表現とは、ミサ・テキストに含まれるカトリックの教義を音楽によって具象化する試みを意味しているが、それはヴァーグナーの『オペラとドラマ』における「ドラマ」理論とも深い関連を持っている。ヴァーグナーにとって真の「ドラマ」とは、音楽家が音楽それ自体を産み出そうとすることによって、詩もまたそこから要請されるという総合芸術のことであった。それは、人間の「感情」を表現する根源的な声であるオーケストラ(「音言語」)に、悟性の具である「ことば言語」を接合させることによって成り立つものである。
ラウレンツィンもまた、ベートーヴェンが「感情」を表出する「音言語」から出発し、そこからミサ・テキストという「ことば言語」を獲得したと考えている。《ミサ・ソレムニス》において、「音言語」は、神が人として生まれ来る瞬間、教会典礼のクライマックスである聖変化の瞬間に、それを「告げ知らせる」世界霊として登場する。そしてこれらのメロディーに、人間としての合唱が応答することで、キリスト教の真の「ドラマ」が現前化するとラウレンツィンは考えたのである。
ベートーヴェンは、このようなカトリックの「ドラマ」の実現へと向かう大きな一歩を踏み出した作曲家であった。マルクスが《ミサ・ソレムニス》を「非カトリック」的なものと考えたのに対し、ラウレンツィンは、マルクスやヴァーグナーの理論に依拠しつつも、むしろこのミサ曲を「カトリシズム」の歴史的展開における重要な要素として位置づけようとしていたのである。


【傍聴記】(江端伸昭)

 清水さんの発表は、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲を論じた19世紀中頃の音楽論の詳しい紹介である。すぐれた論考が19世紀の音楽新聞には無数に眠っていることを改めて教えられた。配布資料の最後に記されているように、ラウレンツィンの論考は「カトリック側からの言説ではなく」、「プロテスタント理論家の思想を吸収し形成された、宗派対立を乗り越える」独特の教会音楽論だった、というのが発表の結論である。
 よく整理された聞きやすい発表であったが、書誌情報についての不備は惜しまれる。論文全体の分量は何ページ程度かという質問に対して、4回の連載で1回10ページ程度という曖昧な説明があったが、これは当日の配布資料に、1861年の音楽新報(NZfM)何巻何号(何月何日付)の何ページから何ページまで、とすべて明記しておくことを希望したい。
 発表はラウレンツィン論文の内容紹介に徹していたが、ベートーヴェンの専門家により音楽の実態に即して詳しくフォローされ、ベネディクトゥスへの導入や冒頭部分の音画的扱い、グローリアと第9交響曲終楽章の響きの根本的類似性など、具体例が紹介されて、ラウレンツィンの考え方をさらに発展させる可能性が開かれたのは幸いであった。また、対象論文に対する当時の反響やこの時期のNZfMの編集者を問う質問があり、質問者の補足によって当時のNZfMの編集動向との関連性の考察への視点が提示された。発展性のある良い発表であった。


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