日本音楽学会

東日本支部通信  6号電子版

20111210日 第6回定例研究会 発表要旨 および傍聴記)

日 時: 20111210() 午後2時〜430
場 所: 東京音楽大学 A館 地下会議室(A地下100)
(
副都心線「雑司ヶ谷」駅1番出口より3分、または「池袋」駅より徒歩15)
司 会:  荒川 恒子 (山梨大学名誉教授)

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研究発表>
1.
アイリッシュ・ハープ研究の実践的応用
―オサリヴァン編『カロラン全集』(1958)の再編について―
寺本 圭佑 (明治学院大学)
 
2. F.
プーランクの転換期としての1930年代
―アポリネールの詩による歌曲を中心に―
長井 進之介

3.
兼常清佐の留学時代
―1922〜24年の欧州体験から何を思考したか―
蒲生 美津子 (沖縄県立芸術大学名誉教授)

 

<発表要旨> 

1. アイリッシュ・ハープ研究の実践的応用

―オサリヴァン編『カロラン全集』(1958)の再編について―

寺本 圭佑 (明治学院大学) 

盲目のアイルランド人ハープ奏者兼作曲家カロラン Turlough OCarolan (1670-1738) は自筆譜を残さな かった。彼の作品は他のハープ奏者や器楽演奏者、歌手に口頭伝承され、彼らを通して間接的に楽譜に記録されたものしか現存しない。たとえば、カロランの生 前にダブリンで出版された曲集は「ヴァイオリン、ジャーマン=フルート、オーボエ」のために編曲されたものだった。その後18世紀以降に出版されたカロランの作品を含む曲集は、アイリッシュ・ハープ以外の楽器のために編曲されたものばかりだった。したがって、これらの出版譜に見られるカロランの作品は、どの程度原型を留めているのか不確かな状態である。

一方、18世紀末に鍵盤楽器奏者バンティング Edward Bunting (1773-1843) が アイルランドのハープ奏者たちの演奏を採譜していた。その手稿譜は現在ベルファスト、クイーンズ大学図書館に所蔵されている。この資料から、後世のハープ 奏者がカロランの作品を実際にどのように演奏していたのか確認することができる。しかし、出版譜にしか残されていない曲もあり、カロランの作品は玉石混交 の状態で伝えられてきた。

1958年、アイルランドの音楽学者オサリヴァン Donal OSullivan (1893-1973) がこれらの楽譜を整理し、213曲の全集として出版した。だが彼はカロランが演奏していた楽器や奏法については深く考慮していなかった。なぜなら、古いタイプの金属弦アイリッシュ・ハープは19世紀末に演奏されなくなり、1950年代には完全に忘れられた楽器となっていたからである。

その後1970年 代後半から、金属弦アイリッシュ・ハープの歴史や奏法についての研究が発展し、楽器の復元も行われはじめた。その結果、オサリヴァンが編集した楽譜には、 いくつかの問題点があることが明らかになった。たとえば、オサリヴァンのエディションはすべて単旋律で書かれており、アイリッシュ・ハープでは演奏困難な 臨時記号や不自然な調号が散見される。したがって、実際にアイリッシュ・ハープで演奏する場合、新たに伴奏を書いて、臨時記号や調号を修正しなくてはなら ない。つまり、オサリヴァンの楽譜は実用的とはいえなかったのである。

この問題に着目すると、金属弦ハープ用に編曲した新たなカロラン全集を再編することが、カロラン研究の新たな課題として挙げられる。だが研究が発展したとはいえ、自筆譜の存在しないカロランの音楽を忠実に「復元」することは現実的に不可能であろう。むしろ再編の目的は、21世紀の金属弦ハープ奏者が、カロランの作品をどのように受容し演奏しているのか、その一例を「記録」として残すことである。本報告では、オサリヴァンの全集を底本として、より実践的なエディションを再編する試みについて、実例を交えながら議論を展開していきたい。

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傍聴記(執筆:高松 晃子)

 

 民衆の音楽は楽譜に書き留められないことが多い。概してその必要性が感じられないからである。それでもあえて作成された楽譜を評価するには、その目的を考慮しなければならない。1.それを読めばほぼ演奏できるほどの情報を含むものか、2.口頭性を前提として音楽のおおよその姿を示すだけの教授用の楽譜か、3.音楽様式と演奏習慣を熟知した演奏家がレパートリーを記憶しておくためのものか、4.ある演奏の記録を保存するためのものなのか。オサリヴァンによるカロラン全集は、おそらく3番目の例に相当するだろう。だからこそ、ハープだけでなく、フィドルやイリアン・パイプの演奏家も参照してきたのである。ハープ演奏という視点から見た場合は物足りなかったり不便だったりするのはまあ当然で、それを4の状態にして記録に残そうというのが発表者の試みである。言い換えれば、オサリヴァンの規範譜に対して記述譜を作成しようというわけである。フロアから出た質問のうち、金属弦ハープが衰退した理由については、バロック時代に他の楽器との関係で相対的にハープの価値が下がったとのこと、また、オサリヴァンの全集が他の楽器奏者にも利用されているかどうかについては、フィドルやイリアン・パイプ奏者が自分の楽器に合うように変えながら利用している、という回答があった。全体的に、配布資料、スライドに演奏を交えて手際よく進められた発表はたいへんわかりやすく、フロアの理解と共感を得て充実したものとなった。

 

 

2. F.プーランクの転換期としての1930年代

―アポリネールの詩による歌曲を中心に―

長井 進之介

F.プーランクの作品は、相反する要素の共存した折衷的な多様性にたえず溢れており、様式に明確な転換点を見出すことは難しいとされてきた。C.ロスタンは、相反する側面の共存を「半修道士、半放蕩児」と評している。本発表では、この二面性を検討することにより、転換点を捉える観点を提示したい。

転換期を検討するにあたり、プーランクの作品の中で最も作品数が多い歌曲、その中でも約半分を占めている、G.アポリネールの詩による作品とP.エ リュアールの詩による作品に注目した。プーランクがアポリネールの詩を最初の歌曲のテクストとして選択し、以後ほぼ生涯に亘って作曲し続けていた為であ る。また、質量ともにアポリネールの詩と同じく重要なエリュアールの詩による歌曲、更に宗教曲の書法からの関連も考慮した。

今回はアポリネールの詩による最初の連作歌曲集である《動物詩集》、最後の連作歌曲集である《カリグラム》、そしてエリュアールの詩による《こんな日、こん な夜》を主に扱う。プーランクは《動物詩集》で、短い詩句の中に潜む音楽性を顕在化させるといった手腕を示した後、コクトーの提唱する「麻の音楽」等への 共感から生まれた創作スタイルへと移った。若きプーランクは、愉快で機知に富み、諧謔を兼ね備えた「放蕩児」として、自らの心にある「メランコリー」に微 笑みという仮面を被せ、常に人を楽しませる音楽を創作したのである。やがて1935年の自身の内面への対峙、1936年 の宗教的体験を経て、“愛”や“自由”といったものの表現法を手にしてさらに成熟する。愛や人間性、シリアスなものに目を向けたプーランクは、《こんな 日、こんな夜》に見出せるような、リリシズムやノスタルジーが色濃く漂った、抒情性に満ち純化した音楽を創り上げた。自らの内面に向き合い、宗教的体験を 迎えた後のアポリネール=プーランクの歌曲である《カリグラム》では、皮肉や滑稽さは影をひそめ、素直ともいえる優しい抒情性が現れている。エリュアール の詩による歌曲の書法との相関性もあることから、彼の作曲家としてのキャリアと共にずっとあったアポリネールの詩による歌曲は、まるでプーランク自身を示 すかのように変化を迎え、ロスタンが評したように「半修道士、半放蕩児」の音楽となり、プーランクを20世紀を代表するメロディストへと成長させたことがわかる。

構成、旋律、和声、リズム、いずれの様式においても伝統的な語法の枠を超えることのなかったプーランクの転換期とは、先人の語法を自らの語法へと昇華させ、 配置のバランスと彩色のデリケートさによって独自の音楽を作り上げていく、その配置の仕方の移り変わりにあったといえよう。ロスタンの「半修道士、半放蕩 児」の言葉の裏付けとなるような、ユーモアと抒情性、シリアスさの共存がみられるようになっていく和声と旋律の「純化」傾向は、テクスト選択と相まって、 彼の様式の転換を示していると考えられる。

 

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傍聴記(執筆:森佳子)

 長井氏の発表は、プーランクの歌曲における様式の転換期について、三つの歌曲集の分析によって明確にしようというものである。端的に感想を言えば、「半修道士、半放蕩児」という、ロスタンが評した文学的な表現が歌曲のどの部分に対応しているのか、分析方法を含めて考えさせられる興味深い内容であった。

 氏によれば、作品分析にプーランク自身の内面性への考察を加えると、1935年を境に諧謔は影をひそめ、宗教的かつ深淵な面が強調されるようになったことがわかるという。むろん、その論旨には賛同出来るが、展開の方法において少し不十分な面もあるようだ。すなわち、年代の異なる三つの作品を中心に言及されているため、「転換期」をはっきり示すには少し説得力に欠けるかもしれない。また、アポリネール、エリュアールそれぞれの詩の特徴と音楽の対応関係において、より緻密な考察が必要ではないだろうか。いくつかのモティーフと対象についての説明はあったが、他の作品も含めて、常にそれらに何らかの意味付けをされているかどうかについても、考察を深めていくべきだろう。

 今回の発表は修士論文の一部ということだが、長井氏自身による実演も行われ、その点は大いに評価したい。しかし会場からも指摘があったように、引用文献などの出典は全てハンドアウトに列挙してほしい。また、ハンドアウトの情報をもっと合理的に配置することで、より理解が増したのではないだろうか。今後において期待したい。

 

 

3. 兼常清佐の留学時代

  ―1922〜24年の欧州体験から何を思考したか―

      蒲生 美津子 (沖縄県立芸術大学名誉教授)

兼常清佐(18851957)は、1922年2月1日ベルリンに向け出航し、1924年4月1日に帰国した。ベルリンを本拠として、ワイマール、ライプチヒ、ザルツブルク、ウィーンなど20数都市を訪れ、古典音楽や現代音楽の鑑賞、地域芸能の見学、音楽図書の閲覧と購入を行った。滞在2年間に接した音楽会は管弦楽180、ピアノ独奏121など合計367、歌劇は31を数え、フルトベングラー、ギーゼキング、ダンベール、ザウエルなどの演奏批評等が『音楽巡礼』『兼常清佐遺作集』に記されている。

 本発表ではあらたに、妻篤子宛の書簡600余 通、および彼が接触した人々の著書から、留学実現への経緯、留学者の経済事情、音楽留学者との接触、書物の収集、各地への旅行、ベルリン大学での研究生活 などの様相を読み解く。留学は、暉峻義等の口添えにより倉敷の大原孫三郎から出資を得て、音楽書収集の名目で実現した。留学期間は1年間、2000円の約束であった。ワイマール時代におけるインフレによるマルクの下落に、ドイツ市民や留学者はどのように対処したか、近衛秀麿、久野ひさ等との接触から兼常の動向を探る。

  兼常は留学中さまざまのことを思考した。オーバーアマガウ村の受難劇、ザルツブルク音楽祭、シュレージェン、ハイデルベルク、リューベックの方言とその地 が生んだ詩人たちの詩集など地域文化の生きざまに接することにより、民謡論民俗論を展開する。また作曲作品研究については、幾多の作品を生んだその経緯の 検証こそが重要であるという信念から、作家の自筆譜、覚書、書簡、会話帖を第一の資料と考え、その入手に苦慮した。欧州にベートーヴェン、ショパンは存在 するか、どういう意味で存在するかの作家論に及ぶ。さらには、ベルリンとはどういう都市か。ウィーンとはどういう都市か。日本で西洋音楽の研究は可能か。 自分は帰国後いかに生きるべきか、と煩悶する。当時欧米文化受容のただなかにあった日本からのドイツ留学は、以後の音楽研究活動の大きな糧となった。

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傍聴記(執筆:三枝まり)

 

蒲生氏の発表は、上野学園に所蔵されている兼常の遺品の中から、新たに発見された妻篤子に宛てた留学中の書簡を主な資料として、欧州滞在中の兼常の音楽体験が手際よく発表された。同氏は書簡資料を通して、欧州滞在時の兼常の思惟に関し以下の6点を指摘した。1)兼常は生活を切り詰めてでも、ドイツをしっかり見ようとする覚悟を強くしたこと、2)貴重な資料類を輸出禁止にするドイツに接し、資料について一層厳格な見方を持つようになったこと、3)村芝居を見て地域芸能の存在様態に関心を寄せたこと、4)現代音楽への聴衆の保守的な反応からベルリンに対する認識を改めたこと、5)心理学実験の最新の方法論に接して、日本人だからこそできる研究テーマを形成したこと、6)ドイツの音楽社会に接することによって学問の存在の仕方について自己の考えを確立していったこと。

発表は、兼常のフットワークの軽さ、留学中にできるだけ多くのことを学びとり、書物類を収集しようとする積極的な姿勢をとても生き生きと伝え、彼の旺盛な好奇心と向学心には圧倒された。質疑では、発表者から、兼常のとった態度について特に留学経験者の体験談を交えてうかがいたいと提案がながされ、フロアおよび司会者から体験談が話され、わずか2年間の留学での兼常の濃密な活動内容に一同、驚嘆した。これまで紹介されることの少なかった留学時の兼常の活動に関する、非常に好奇心そそられる報告であった。