シンポジウム

「標題音楽の真実と絶対音楽のウソ〜フランツ・リスト生誕200年記念シンポジウム」
司会・企画:
野本 由紀夫 (玉川大学)
      「受容理論としての標題音楽(今日的問題としての形式聴)」
パネリスト:
福田 弥 (武蔵野音楽大学)
  「交響詩からオラトリオへ:器楽から声楽へ」
上山 典子 (沖縄県立芸術大学)
  「『新ドイツ派』と音楽論争」
広瀬 大介(国立音楽大学)
「リヒャルト・シュトラウスの交響詩に見る「標題性」 :《死と変容》を中心に」

 

 

 

発表要旨

交響詩からオラトリオへ ―器楽から声楽へ―

                       福田 弥 (武蔵野音楽大学)

 

 ヴァイマルの宮廷楽長であったリスト(1811-86)は、1850年代に交響詩という新しいジャンルに取り組み、標題の必要性を強く主張しました。そのために、交響詩によって代表される標題音楽は、彼の音楽活動における中心問題のひとつとして捉えられてきました。「標題音楽とは何であるか」という議論は、シンポジウムの席に譲るとして、ここでは、リストのめざした音楽がどのようなものであり、その目的と標題音楽の位置づけについて再確認してみたいと思います。

 1855年の有名な著作「ベルリオーズと彼のハロルド交響曲」のなかで、リストは、標題を付けることによって交響曲は、オラトリオやカンタータと同等に重要なものになると述べています。またローマに移って間もない1862年には、交響詩からオラトリオにはっきりと創作の重心を移していることを述べ、実際に大作オラトリオに取り組んでいました。このふたつの言説は、単なる創作ジャンルの比較や彼の興味の変化を表しているだけではありません。標題とは、器楽(交響曲)を声楽(オラトリオ)の地位にまで高めるために必要であるとリストは考えていたばかりでなく、標題がなければ器楽は声楽に比肩できる存在たりえないと見なしていた可能性、さらに言えば、そもそも彼は、器楽よりも声楽を重視していた可能性があることさえ示しています。

 発表においては、交響詩《オルフェウス》、オラトリオ《聖エリザベトの伝説》において、リストが表現しようと努めたものについて簡単に検討します。さらに、このオラトリオと「同じ感情で結びついているいくつかのほかの作品」として《システィナ礼拝堂に》、さらにほぼ同時期に書かれた《バッハの「泣き、悲しみ、憂い、戦き」による変奏曲》についても考察を加えます。いずれもピアノまたはオルガンのための作品です。

 交響詩《オルフェウス》オラトリオ《聖エリザベトの伝説》《システィナ礼拝堂》《バッハ変奏曲》の方向性を確認することで、次のことが見えてきます。リストにとって、芸術の目的は人間の救済でした。器楽か声楽かは方便にすぎず、ただ器楽の場合には、内容の方向性を示す標題の必要性を説いていたのではないでしょうか。

この点で、幼少期をフランスで過ごしたリストの音楽は、器楽の優位や純粋性を主張したドイツ・ロマン主義とは、たしかに一線を画していたと考えられます。にもかかわらず、ドイツを代表する音楽であるかのように「新ドイツ派」と呼ばれたために、さまざまな問題が生じたと考えられるのです。

 

 

 

「新ドイツ派」と音楽論争

上山 典子 (沖縄県立芸術大学)

 

1850年代初頭来、「新ドイツ派」とその反対者、いわゆる保守派との間で行われてきた党派論争は、当初ヴァーグナーの芸術理論の是非をめぐるものだったが、その後は50年代半ばから断続的に現れたリストの交響詩12曲を中心軸に、19世紀後半ドイツ語圏の音楽美学の形成に決定的な影響を与えることになる議論へと発展していった。なかでもリストが掲げる標題音楽の理念をめぐっては激論が繰り広げられ、そこでは「未来音楽」の用語をめぐって、ベートーヴェンの遺産を継承するための「正しい方法」について、芸術における音楽の位置づけについて、器楽の解放をめぐって、あるいは音楽とことばの関係についてなど、音楽の本質を問う実に様々な問題が提示された。

音楽批評家のフランツ・ブレンデル(1811-1868)やリヒャルト・ポール(1826-1896)らが前線に立った「新ドイツ派」側は、リストの創作に体現される音楽の理想的あり方について、抽象的ではあるが極めて包括的な議論を提示した。彼らは特に創作の出発点あるいはプロセスにまつわる美学や理念に重点を置き、標題音楽を器楽の歴史の最高の発展段階と位置付けて、その歴史的正当性と必然性を強調した。一方の保守派は理念よりもむしろ標題音楽とほとんど同義語化させたリストの交響詩作品そのものに注目し、標題をすべてに優先させる無形式な描写音楽(音画)と非難した。

芸術における音楽の優位や器楽の解放という根本的前提を共有していたはずの両陣営だが、進歩と保守、前衛と古典、感情と形式といった様々な衝突のなかで両者の主張は平行線をたどったままに終わった。今回は、今日まで続く標題音楽の用語的混乱のルーツを当時の党派論争に求め、リストの標題音楽の理念が激しいやり取りのなかでどのように受容されていったのかを探っていく。

(ここでの「新ドイツ派」とは、リストと彼の弟子や取り巻き、支持者たちから成る一派を指す用語として用いている。)

 

 

 

リヒャルト・シュトラウスの交響詩に見る「標題性」 −《死と変容》を中心に−

広瀬 大介(国立音楽大学)

 

リヒャルト・シュトラウスにおける交響詩の諸相は、交響詩を量産した1890年代でも、その前半と後半において大きな様相の違いを見せる。本発表では、前半に作曲された《死と変容》を中心に考えたい。

交響詩《死と変容》は、1888年から1889年11月にかけて作曲され、1890年6月21日、アイゼナハ劇場で、作曲家自身の指揮によって初演された。本作品の初演後となる1891年、アイブル社よりこの作品を出版することになった際、シュトラウスは、当時、音楽の師とも仰ぐアレクサンダー・リッターにこの作品の内容を説明し、リッターはそれを受けて匿名で詩を執筆した。現在の総譜冒頭に掲げられている詩は、このリッターの筆によるものである。

その後長い間、このリッターの詩が本作品の標題の内容をあらわすものとされてきた。もっとも、シュトラウスが1895年頃、フリードリヒ・フォン・ハウゼッガーの問いに答え、自らの言葉でこの作品の内容を語っていたことは知られていたが、その正確な内容が公開されたのは、ようやく1996年になってからである(ヴァルター・ヴェルベックの著作)。ここで登場する「病人Der Kranke」はおそらく、病弱であったシュトラウス自身の個人的体験を反映したものであることがみてとれる。このことは、リッターに書いてもらった詩が、必ずしも曲の内容を「説明」するような機能を果たしていないことを、シュトラウス自身が暗に認めていた証とも考えられよう。やがてシュトラウスは、ショーペンハウアーの著作だけでなく、ジョン・ヘンリー・マッケイの小説「無政府主義者たち Die Anachisten」や友人の音楽学者アルトゥール・ザイドル、さらにはニーチェなどの影響を受けることで、《ティル・オイレンシュピーゲル》以降、自画像的な問題意識を繁栄させた題材を交響詩の素材として使うようになり、曲冒頭に作品内容を説明するような文章や詩を掲げることはなくなっていく。

シュトラウス自身がどの程度リストの交響詩の理念を理解していたかは、議論の余地がある。シュトラウス自身がリストについて言及した文章は(ワーグナーなどに比べれば)さして多くなく、代表的なところでは1890年に友人ルードヴィヒ・トゥイレに宛てた手紙で《ファウスト交響曲》のすばらしさについて触れているもの、あるいは折々に送ったコジマ・ワーグナー(リストの娘)への手紙に垣間見られるリストへの讃辞などが挙げられる。その理解は多くをアレクサンダー・リッターからの教えに負っていると考えられるが、歌劇《グントラム》で生じた見解の相違とともに二人は徐々に袂を分かつ。この時期と、シュトラウスが新たな交響詩の可能性を探っていた時期とはまさに重なっており、リッターが考えるリスト的な交響詩の理念からは徐々に離れ、自身の工夫を加えていったと考えるのが自然ではないだろうか。

 

 

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傍聴記(執筆:平野 昭)

 

5回定例研究会はいつもの第2土曜日ではなく、会場となった玉川大学側の事情で102日(日曜日)に開催された。生誕200年のフランツ・リストに焦点を充てたシンポジウム「標題音楽の真実と絶対音楽のウソ」のテーマで司会進行:野本由紀夫(玉川大学)、パネリスト:福田弥(武蔵野音楽大学)、上山典子(沖縄県立芸術大学)、広瀬大介(国立音楽大学)によって行われたのだが、研究会の運営上の不備について最初に苦言を呈させていただく。標記のとおり通常の定例研究会ではあったが、シンポジウムに入る前に玉川大学管弦楽団による交響曲《四大元素》の160年ぶりの復活世界初演と、この交響曲を改作した交響詩《レ・プレリュード》の比較演奏が行われるという二部仕立ての企画。定刻どおりチューニングを終えたオーケストラがステージに並んだが、指揮者野本の登場まで30分近く待たされた。野本により1991年に発見された交響曲《四大元素》の復元パート譜の一部の不具合を修正するための時間であることが会場にアナウンスされたが、いったいどのような練習準備がなされてきたのか?このため、15時にスタート予定のシンポジウムも大幅に遅れ、終了は予定を1時間近く過ぎた18時。また、会場には6台ほどのビデオカメラがシンポジウムを録画録音していたが、シンポジウムにとって重要なフロアからの質疑のためのワイヤレスマイクの一本も用意されず、質問はステージ前まで駆け下りて行うという準備の悪さ。終了時間も気になり質問を断念した者が少なくなかったはずだ。

 シンポジウムは、司会者とパネラー3人がそれぞれ15分ずつ基調報告をしたのち、パネラー間での討議、その後フロアからの質疑応答という運びのはずが、野本と福田の報告が長かったので、ここでも時間を押してしまった。

 さて、シンポジウムのテーマは大変に興味深いものであったが、内容はややテーマから外れたか、あるいはその核心まで到達しない消化不良のもどかしさが残った。「標題音楽」という概念がリストによって創案され、それを具現化した交響詩もリストが創始したという前提から始めた野本は交響曲《四大元素》がフランスの詩人J.オートランの詩に基づく同名の合唱組曲(これ自体はピアノ伴奏)のための序曲として成立したものであることを解説し、これが後に交響詩《レ・プレリュード》に改作されたとき、そのプログラムはラマルティーヌの『新瞑想詩集』第15番の詩から取られたもので、「標題」は作曲後に付けられた、という広く知られた作品成立史の説明に時間を費やした(この日のシンポジウムが公開であり、一般客も会場にいたということに対する野本のサービス精神ではあっただろう)。また、《四大元素》と《レ・プレリュード》の楽曲構成と主題法を分析的に説明しながら両曲が原曲と改作の関係にあることを示すに留まった感がある。シンポジウムのテーマとの関連で野本が強調したのは、リストにとって標題は「音楽に未熟な大衆の聴き手のために付けられた解説的補助である」という側面もあるということであった。

 福田は、標題音楽という概念を従来は器楽曲に適応して考える傾向が強かったことを反省する必要を述べ、リスト解釈では、19世紀最大の宗教音楽家であるという事実をもっと深く考えるべきであるという福田の視座から、リスト音楽の根底にあるキリスト教信仰に注目して「交響詩からオラトリオへ(器楽から声楽へ)」という観点でリストの言説や1862年から63年、つまりローマ時代の宗教的作品を概観した。福田の主旨は、リストを考える上で交響詩に注目することはヴァイマル時代(184861)が中心となり、ローマ時代(186169)のオラトリオや宗教声楽作品への注目が重要であるということであった。

 上山は1850年代にドイツ語圏で繰り広げられた音楽党派論争に、リストの「標題音楽」をめぐる混乱のルーツがあるという考えに立ち、「新ドイツ派」と保守派との音楽論争の混乱の要因を5点挙げて明快に整理した。第1に、リストの「標題音楽」を廻る論争がヴァーグナーの芸術理論の是非をめぐる論争の延長線上で行われたことに、そもそも論点の混乱があった。第2に、「標題音楽」と「標題」という本来別の概念の混同がしばしばあった。第3に、リストの標題音楽が18世紀の「音画」や19世紀初頭にフランスで現れた「Symphonie à programme」の延長線上で捉えられた。第4に、標題音楽と交響詩に対する両派の主張が常に過去との関係で評価された。第5に、「新ドイツ派」は創作美学に、保守派は実作品に視点をおいての論争であり、両派の主張は別々の方向を向いていた。その上で1850年代にリストが抱いていた音楽観、つまり「標題音楽」の理念を彼の言説を引用しながら音楽と詩的理念との関連を述べ、「標題」と「純粋器楽」、「標題」と「音楽に未熟な大衆」といった観点からリストの考えを紹介した。

 広瀬は「リヒャルト・シュトラウスの交響詩に見る〈標題性〉」を《死と変容》を中心に論じた。シュトラウスがリストについて語った言葉などを手がかりとして両者の考えていた交響詩、標題音楽の共通性と違いについて論じた。《ドン・ファン》や《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》等の交響詩題材選択が文学作品からとられながらも、それを範として次第にシュトラウスの自画像的なものの反映となってゆく傾向があったのではないかと論じた。

 「標題音楽の真実と絶対音楽のウソ」というテーマ設定でのシンポジウムであり、「標題音楽」の概念規定や「交響詩」という表現形式と、リスト以前の音楽作品や種々の概念や美学、あるいは音画やシンフォニア・カラクテリスティカ(性格交響曲)等々のさまざまな表現形式、さらにはバロック時代の描写音楽等との本質的な違いなどが議論されるだろうと予測されたがテーマに則した議論の展開は残念ながら見られなかった。フロアからは森泰彦氏、畑山千恵子氏、李祥氏、朝山奈津子氏、友利修氏らによる発言があったとだけ付記しておく。