東日本支部通信 第41号(2016年度 第6号)

2016.9. 22. 公開 2016.11.08. 傍聴記公開

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東日本支部 第41回定例研究会

日時:2016年10月8日(土)午後1時半~6時
 場所:東京藝術大学音楽学部 5号館109室
 司会:広瀬大介(青山学院大学)
 内容:
〈研究発表〉
  旋法の分類と同定に関する一考察 ―変化音・特定音を中心として―
  桃井千津子(国立音楽大学大学院)
〈シンポジウム〉(共催:早稲田大学演劇博物館演劇映像学連携研究拠点)
  映像の音楽演出と「選曲」 ―映画とテレビ―
  パネリスト:柴田康太郎(兼コーディネーター、東京大学大学院)
        「戦前の日本映画における選曲―サイレントからトーキーへ」
         白井史人(早稲田大学演劇博物館)
        「ドイツにおける無声映画の音楽―ハンドブック、選曲、作曲」
         栗山和樹(国立音楽大学、ゲスト)
        「映像音楽の現在―作曲家からの視点」
         辻田昇司(ゲスト)
        「映像音楽の現在―選曲家からの視点」


【研究発表】

旋法の分類と同定に関する一考察  - 変化音・特定音を中心として-
桃井 千津子 (国立音楽大学大学院後期博士課程)

【発表要旨】

 本発表では旋法性による楽曲を分析するために、旋法の同定と旋法の関係を叙述する方法を提案する。
 一般的に旋法としては、ヨーロッパの教会旋法がよく知られているが、20世紀以降の現代音楽や諸民族の音楽には、構成音やそれらの配置が異なる、多くの旋法が存在する。

 これまでに発表者はこれら旋法の構成音やその配置を把握する方法として、サークル表記を提案してきた。この方法で、旋法の分類ならびに変化音を含んだ旋法などの現象が分析可能となった。このサークル表記とは、オクターヴ内の12音をサークル状に配置したもので、各旋法はその基準音をC音に置換して表記される。このような表記方法の採用により、各旋法の構成音のみならず、それらの配置の相違や共通性などが容易に明示可能となる。本論ではこれらのサークル表記法を用いて旋法の分類を行い、さらに構成音が下方または上方変位した変化音を含む旋法などの諸現象が分析可能となった。
 しかし旋法性による楽曲分析を行うには、調性音楽や和声論によって今日一般的に用いられる分析概念に代わるような、旋法性による新たな分析概念が必要とされる。
 本発表ではオクターヴ内の12音から構成が可能な旋法を対象に、サークル表記法を活用し、旋法の個別的な特徴と旋法間の特徴的関係を明らかにする。

 「同定音」とは構成音が半音階的に変化し、さまざまな旋法の派生が見られるが派生音を含むすべての旋法に含まれる音のことをいう。つまり同定音を確認することで所属している旋法系が明らかになる。たとえばイオニア系の旋法の同定音(C、D、F、B音)が確認できれば、対象となる旋法の構成音が半音階的に変化してもイオニア系とわかり、その数種の中から該当旋法を見つけることができる。
「 特定音」とは旋法系を特徴づける音で、たとえばイオニア系の旋法ではB音(シ)となる。
 このように同定音と特定音によって特徴づけられる旋法性の各サークルは、固有の和音形態も確認できる。たとえばイオニア系の旋法はBdimonCである。
 異なる旋法間の関係としては「鏡像関係」と「同等性」が指摘できる。
 「鏡像関係」とは文字どおり、鏡に映った像と同じということであり、たとえばイオニア系とフリギア系の各サークルがこの関係になる。
 「同等性」とは、ほぼ同じということで、たとえばイオニア系とドリア系、ロクリア系の各サークルは、減音程構成サークルの1音欠如と同じである。
    
 本発表では「謎の音階(scala enigmatica スカラ エニグマティカ)」として知られる音階(旋法)を対象として、分析的諸概念の妥当性を検討する。従来では「謎」として言及された特性は、ほぼ各旋法の特定音で構成されているサークルであることや、半音が連続する特殊性が分かった。さらに今後の課題として、各旋法の非構成音によるサークルを作成、活用することにより、分析として妥当性の高い結果が得られると思われる。


【傍聴記】(井上征剛)

 桃井千津子氏の研究テーマは、旋法性を基盤に置く楽曲を分析する新手法の提案という、きわめて野心的な試みである。具体的には、20世紀のさまざまな作品で用いられている旋法の種類を、「サークル表記」によって可視化するというものだ。今回の発表では、さまざまな旋法の「サークル表記」の紹介から始まり、後半ではラヴェルやドビュッシーなどの作品を例に、楽曲中の音を抽出し、サークル上に配置することで、それぞれの楽曲の各部分でどのような旋法が用いられているかを明確にするプロセスが提示された。この手法は、単に整理しやすいという点にとどまらず、ある旋法のサークルを回転させると別の旋法のサークルと重なる、あるいはふたつのサークル上の音の配置が鏡像関係や反転関係になるといった、旋法相互の新たな関係を見せてくれるところが面白い。この手法が成熟した暁には、単なる技法の探究にとどまらず、20世紀音楽の面白さが鮮やかに眼前に展開されるのではないか、と予感させてくれる発表であった。
音楽理論の面白さとは何か――この問いに対する答えは、人によってさまざまだろう。私は、一定の技法を踏まえつつもそこに収まりきらない、個々の作曲家の、いわば身勝手なところに到達する手がかりを得られることが、音楽理論の醍醐味だと思っている。そういうわけで、桃井氏がこの手法を精緻に展開することによって(そのための課題は、質疑でいくつか示された)、「サークル表記」の枠からひとりひとりの作曲家がはみ出していくさまをとらえる日がくることを、強く期待している。


【シンポジウム趣旨】

映像の音楽演出と「選曲」 ―映画とテレビ―

(コーディネーター:柴田康太郎)
    
 映像音楽の歴史、とくにその20世紀前半の歴史は、作品ごとの新作オリジナル曲が一般化する過程として、あるいは映像音楽の作曲家の仕事が次第に芸術表現として認められるようになる過程として語られることが多い。最も顕著なのはサイレントからトーキーへの移行期である。1920年代までのサイレント映画の音楽演出では既成曲の「選曲」が基本であったのに対し、1930年代になるとサウンド映画(トーキー映画)が広まってオリジナル曲の「作曲」が一般化し、多くの作曲家が作品に合わせて曲を書くようになったからである。それから現代までに至るまで、数々の作曲家が多様な音楽演出を試み、映画やテレビの仕事で名を馳せてきたことは周知のとおりである。
 もっとも、既成曲を使った「選曲」による映像演出は、サウンド映画の一般化した後もさまざまに試みられ続けてきた。しかも選曲は、現在の映像をとりまく製作環境のなかできわめて重要な領域を占めるようになってさえいる。作曲家が作品の演出プランを考えて作曲をすること以上に「選曲家」が重要な役割を担う局面が増えているという。選曲家が映像演出用のBGMライブラリーを使って選曲を行い、足りない部分だけを作曲家に任せることもあるようだ。もちろん、こうしたBGMライブラリーの使用と選曲の実践はテレビや記録映画などでは長いあいだ使われ続けてきたが、近年はさまざまな音楽制作の環境変化のなかで、映像の音楽演出と選曲の関係は看過できない領域となってきているといえそうである。
 だが、こうした領域に関する研究は体系化されておらず、個別の問題に関する検討にとどまっている。むろん、今や古典的な映像音楽の先行研究といえるAnahid KassabianのHearing Film(2001)でも「composed score(作曲されたスコア)」とともに、選曲に関わる「compiled score(編まれたスコア)」という観点からも考察がなされているし、アメリカでの実践的概説書On the Track: A Guide to Contemporary Film Scoring(2004)、Complete Guide to Film Scoring(2nd  Edition、2010)では「選曲家Music Editor」に関する記述が一定の割合を占めている。また西洋芸術音楽の既成曲の使用という観点から、バッハ、マーラー、ベートーヴェンの楽曲の映画における「引用」をめぐる事例研究もある。
 本シンポジウムではこうした多様な視点を踏まえながら、既成曲を使用した映像演出そのものの歴史や制作・技術上の問題、さらにその美学的意義を問いなおすことを試みる。改めて「選曲」という観点から現代の映像音楽を再考し、現代における映像音楽の製作環境のあり方に光を当てることを目的のひとつとする。ただし今回「選曲」に注目する背景にはもうひとつ別の現代的な状況、映像音楽の研究環境の変化もある。
 2014年、早稲田大学演劇博物館に戦前日本の映画館で活動していた楽士の伴奏譜ライブラリーと考えられる楽譜コレクションが収蔵された。この、目下「ヒラノ・コレクション」と呼ばれる800点近い楽譜資料は、戦前日本の映画館で使用されていたことが裏付けられる楽譜資料としては初めて現存が確認できたものであり、これによって漸く、サイレント期における日本の「選曲」実践を楽譜資料に基づいて研究することが可能になった。この資料のなかには国内では初めて現存が確認された興味深い資料がふくまれているが、そこには個々の映画作品のために映画会社が作成した伴奏曲集や映画館の楽士が筆写し映画のために作成した選曲譜などとともに、楽士が収集したと思われる伴奏譜ライブラリーが収められている。ここからは、楽士が国内の出版伴奏譜や輸入伴奏譜を収集するとともに、映画会社の側からも系列館に伴奏譜ライブラリーを貸与していた状況が垣間見えるほか、足りないパート譜を独自に足すなど、映画館での具体的な状況も窺い知ることができる。ここで興味深いのは、戦前のサイレント映画の楽士たちの仕事と、現代の映画やテレビの選曲家の仕事が、伴奏曲ライブラリーの使用や選曲という実践を通して、きわめて親近性の高い存在であることが浮かび上がってくることである。選曲に注目する本シンポジウムのもうひとつの目的は、選曲という実践に歴史的な展望をあたえながら多角的にこれを捉えなおすことである。
 本シンポジウムでは、このように映像と音楽の関係、また選曲のあり方が重層化する現代にあって改めて、研究者(柴田康太郎、白井史人)、作曲家(栗山和樹、ゲスト)、選曲家(辻田昇司、ゲスト)が集い、サイレント映画からテレビなどの多様な映像にとっての「選曲」の位置を多角的に議論することを試みる。まず、作曲家の栗山和樹氏が「映像音楽の現在:作曲家からの視点」と題して、現代の映像音楽の作曲家の製作環境とそこでの作曲家の仕事のあり方を説明する。実作者としての立場から選曲の位置づけを説明したうえで、実例を交えて現代の製作環境に自身が作曲家としてどのように応答しているのかを紹介する。
 次いで、柴田康太郎と白井史人が歴史研究の観点から、映像音楽における「選曲」の事例に考察をくわえる。柴田康太郎は「戦前の日本映画における選曲:サイレントからトーキーへ」と題し、戦前の日本映画における選曲による映像演出を取り上げる。サイレントからトーキーへと映画のあり方が変容するなかで、1930年代の日本では「選曲」を標準的なものと見なして映画会社のなかで標準化する場合もあったし、これを批判して「作曲」を基準とすべきだと述べるものもいた。ここでは深井史郎の言説、近衛秀麿の実践を軸として、サイレントからトーキーへの移行が選曲を軸に考察されることになる。
 これに対し、「ドイツにおける無声映画の音楽:ハンドブック、選曲、作曲」と題した白井史人の発表では、1920年代のドイツの事例が考察される。この時期のドイツでは、選曲ライブラリーや指南書により既成曲の「選曲」による伴奏の体系化が進む一方、大作映画へ「作曲」されたオリジナルの伴奏音楽が登場し、サイレント期から「選曲/作曲」の優劣が盛んに議論されていた。ここでは特に作家性を帯びた統一的「選曲」手法を説く「作曲家的伴奏Autorenillustration」という概念に着目する。そして映画館指揮者兼作曲家であったジュゼッペ・ベッチェによる「選曲/作曲」の折衷的手法を、アメリカ映画との競合や「映画」の芸術的地位向上を求める潮流との関わりを含めて考察する。
 最後に栗山氏とのトークというかたちで、「映像音楽の現在―選曲家からの視点」と題し、選曲家の辻田昇司氏から現代の「選曲家」の仕事をご紹介いただく。1980年代のテレビの音楽演出のなかでどのように選曲実践に光が当たり、現代に至るまでそこにどのような推移があったのかが語られることになるだろう。
 本シンポジウムではこうした広い歴史的・地理的展望をもって、研究と現場の両面から具体的に議論を深め、映像に対する作曲/既成曲の選曲が、現代の音楽状況のなかでどのような可能性と限界をもつのかに光を当てることで、今後の実践につながる基盤をとらえることを目指す。


【傍聴記】(井上征剛)

 今回のシンポジウムは、映像作品の音楽をテーマに、「選曲」に焦点をあて、前半に柴田康太郎氏と白井史人氏の研究発表、それに栗山和樹氏のプレゼンテーションが、後半に辻田昇司氏のトークと討論が行われた。研究発表やトークが、各担当者ならではの観点から行われたのに加えて、それぞれの内容が互いに関連しており、討論もそのような独自性とつながりを踏まえて展開された。単に興味深い話題を扱ったというのにとどまらない、充実したシンポジウムであった。
 このシンポジウムの企画者である柴田氏の発表は、1920~30年頃(サイレントからトーキーへの移行期)の日本映画音楽の選曲・作曲方法とその根本にある考え方を論じたものである。それまで用いられてきた「伴奏音楽」選曲の手法ではマンネリに陥る、あるいは新しいタイプの作品に対応できないという局面に現れた、単なる編成の調整を超えた編曲を施す、作曲する、さらには選曲の考え方を変えるといった、映画音楽の新たな表現方法についての考察である。現代日本の映像音楽の出発点を示すともに、いかに物語と結びついた音楽を用意するか、日本を題材とする映画に欧米の音楽を流すことへの違和感、また芸術音楽と大衆音楽の対立・共存といった、現代の映像音楽につきまとう課題への取り組みが、すでにこの時代から本格化していたことを認識させてくれる発表だった(この課題は、映像と音楽を結びつける際には、必ず何らかの形で出てくるものなのだろう)。
 白井氏の発表は、ドイツにおける無声映画音楽の実践について、選曲の方法と、物語と結びつく表現のふたつの視点から論じている。とくに興味をひくのは映画音楽の「ドイツ化」をめぐる話題で、たとえば、商業的に優れた米国人、技術や映画の中身に対応した音楽作りに優れたドイツ人、という1920年代の評論で強調された構図は、現在のドイツでさかんなグローバリズム批判に通じるものを感じさせる。一方で、ドイツの映画界には、米国で作られた楽曲カタログとドイツ版のマニュアルを両方活用する要領のよさがあったことも面白い。後半で展開された、ジュゼッペ・ベッチェを例にした、作曲家が映画の場面に対応させて「作曲/選曲」を行う方法論をめぐる議論は、「映画音楽の作曲家」の在り方について、さらには20世紀前半にヨーロッパの作曲家たちが新しい表現分野として映画音楽に注目した経緯を考察する上で、大きな手掛かりとなろう。
 栗山氏のプレゼンテーションは、現代の映像作品において作曲家がどのように音楽制作に携わるのかという、多くの人が関心を抱くと思われるテーマについて、当事者としての知識を生かしつつも、一定の客観性をもって伝えるものであった。このプレゼンテーションは、映像作品の「背景音楽」の作曲・選曲の過去と現在、方法、根本となる考え方について、実践例を見ながら基礎的な知識を取得・整理できる、貴重な機会となった。今後、映画やドラマの音楽について、より具体的な理解を伴う鑑賞ができそうだという手ごたえを得られた一方で、個々の作曲家の「らしさ」はこの種の作業において、どのように発揮されるのか、作曲家である栗山氏自身の立場から話してもらえるとよい、という思いもある。これは今回の栗山氏のお話のコンセプトとは根本的に方向性が異なる感情だが、こういった欲望を感じるところに、19世紀的「音楽家」観の影響は相変わらず、私の中で強いのだな、と思う。
 選曲家の辻田氏のトークは、私にとっては選曲の思想について多く聞くことができた点で、印象深いものとなった。たとえば、オリジナリティのあるアプローチを避けざるを得ないという、現在の日本の映像音楽の問題点について、「悲しい」場面でそのまま「悲しい」音楽を流そうとする例を紹介しつつ指摘していたが、これを単に作曲や選曲の問題にとどめるのではなく、日本の映像づくりが直面している、面白い作品ができなくなっている状況とつなげて語る点、映像制作の現場にいる人ならではの視野の広さを感じさせる。全体として、ユーモラスな口調ながらも、「表現の面白さ」への意識が薄れている商業芸術界隈への危機感がにじみ出るトークであり、それは「そのままのメッセージ」を愛好したがる人々と、そのような傾向に乗っかって単純なメッセージを垂れ流すことに過剰に肯定的であろうとする専門家という、さまざまな場で現実に現れる構図を思うならば、私たちにとってもひとごとではない。また、映像作品の中で描かれている(ように見える)感情と、音楽表現をどのように結びつけ、あるいはずらしていくのかという議論は、音楽表現とその表現にふれる者が抱く感覚という、根源的な問題に迫るヒントとなろう。
 今後は、コンピューター音楽と映像の関わりについてのワークショップが計画されているそうだ。これも興味を惹かれるところだが、加えて、今回のシンポジウムから引き出されたいくつかの話題について、より具体的に考えてみる機会があってもよいと思う。たとえば、辻田氏のトークでも出てきた、サスペンスドラマや時代劇の「日本らしさ」について検証する、あるいは映像音楽と「つまらないドラマが作られてしまう」ことの結びつきに着目して、より社会的な問題提起を行う、といった道も、今回のシンポジウムに続いて模索される方向性の選択肢として開かれているのではないか。


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