シンポジウム

「明治の国家政策と音楽―東北・福島から考える―」

パネリスト

塚原 康子 (東京芸術大学) 

杉田 政夫 (福島大学) 

平田 公子 (司会・福島大学)  
大角 欣矢 (東京芸術大学)    

 

(全体要旨)

 近年、洋楽受容研究は様々に行われ種々の成果が明らかになってきている一方、日本音楽についてのまとまった研究は、音楽取調掛の資料研究である『音楽教育成立への軌跡』(東京芸術大学音楽取調掛研究班編、1976年)の一部を除いてほとんど行われていなかった。しかし、200912月塚原康子が『明治国家と雅楽』において、明治国家とのかかわりの中で雅楽がどのように変化・生成していったのかについて詳細な研究を明らかにした。この著書では、明治国家の主な音楽政策が国家儀礼に伴う音楽の制度化、国楽の創成、音楽教育制度の確立等であり、それらの政策に最も深くかかわった音楽が西洋音楽と雅楽であったことが述べられている。このことは、西洋音楽と日本音楽、また日本音楽の中でも雅楽と俗楽では国家政策とのかかわりが大きく異なっていたことを示している。

このシンポジウムでは、これらを踏まえて、西洋音楽、日本音楽、その中でも雅楽、俗楽と国家政策とのかかわりについて、先ずパネリストがそれぞれの側面について報告する。その際、東北・北海道支部と関東支部とが合同し東日本支部が発足したことを記念して本シンポジウムが福島で開催されることの意義に照らして、東北から見た明治の音楽政策という視点や、福島の事例等にもできるだけ触れられればと思っている。

それらの報告をもとに、西洋音楽、日本音楽の中の雅楽、俗楽がそれぞれ明治の国家政策においてどのように位置づけられたのか、そして、それはどのような音楽観に基づいたものであったのか、また、そのような状況下で、音楽取調掛が目指した国楽創成はどのように理解すればよいのか、についても考えていきたい。

大きなテーマだが、明治の国家政策は現在までの音楽教育、音楽文化に多大な影響を与えているので、出席者の皆様と共に考えてみたい。

 

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(発表要旨 1

「明治の国家儀礼と雅楽近世との比較から

塚原 康子 (東京藝術大学)

 明治政府は、維新直後からさまざまな新しい国家儀礼の構築に意を用いた。中には、明治元年(1868)3月14日の五箇条御誓文親祭のように、重要な国家祭典でも奏楽のないものも存在したが、多くの新しい国家儀礼の場には雅楽や西洋音楽の奏楽が伴った。雅楽は主に、元始祭・紀元節・神武天皇祭・先帝祭等、神祇官(明治3年8月神祇省に格下げ、明治5年3月14日廃止)の主導で創出された皇室にかかわる新儀祭典に用いられ、やがて宮中や陵墓で執行される皇室祭祀の音楽として定着する。明治3年(1870)11月、明治政府が設置した最初の音楽機関が雅楽局(のちの宮内省式部職楽部)であったのは、新しい奏楽機会と東京奠都への対応が国家儀礼の構築にとって喫緊の課題であったからである。雅楽局設置に先立つ数ヶ月前に、江藤新平が岩倉具視の諮問に答えて提出した基本政策30件中の末尾にある「雅楽舞楽世俗之楽等一切之音楽ヲ改造スルノ制ヲ定ム」という一条は、こうした雅楽改革構想に関連していた可能性がある。

 一方、神祇官が創出した明治の国家儀礼は、やがて皇室祭祀に神社祭祀を重ねた形で展開するが、さらに全国の学校でもそれらとリンクした学校儀礼が創始され、明治26(1883)には《君が代》をはじめとする「祝日大祭日唱歌」8曲が頒布される。オルガン伴奏で歌われる儀式唱歌は、一見すると雅楽とは無縁のように見えるが、儀式唱歌のうち西洋音階からなる《一月一日》《天長節》《勅語奉答》以外の5曲はいずれも雅楽音階(律旋・呂旋)でできており、宮中行事でも、皇室祭祀にかかわる祭典では雅楽が奏され、西欧の国王誕生日を模した天長節の宴会には西洋音楽が奏されたように、祝日大祭日の性格により、儀式唱歌の音階が使い分けられたと思われる。また、雅楽音階は、《海ゆかば》《国の鎮め》など、軍楽隊によって吹奏される陸海軍の儀礼曲の一部にも用いられていた(ただし編曲にあたり旋律を西洋音階風に改変したものがある)。雅楽と、雅楽に由来する音階で作られた学校の儀式唱歌や軍の儀礼曲とは、雅楽が奏される宮中祭祀と、近代部門である軍および学校儀礼の場とをつなぐ紐帯の一つとしても機能したのではないかと考えられる。

こうした明治の国家儀礼と雅楽との関係を、宮廷のほか主に法会などの仏教祭祀や釈奠(孔子を祭る祭典。近世には幕府や諸藩で行われた)などの儒教祭祀に雅楽が用いられていた近世の状況と比較してみると、音楽伝統の単純な「継承」とも「創出」とも異なる、変革期におけるしたたかな対応力が見えてくるのではないだろうか。音楽取調掛―東京音楽学校初期の人材には、諸藩の楽人出身者や藩校での雅楽教習者など、雅楽局に奉職した旧三方楽人以外の、いわば「近世的な雅楽人脈」の継承が見られることにも注目したい。

 

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(発表要旨2

「唱歌教育にみる国家政策 −ヘルバルト主義との関連を中心に」 

杉田 政夫 (福島大学)                            

本発表では、明治期の唱歌教育におけるヘルバルト主義の受容と展開について、国家政策との関連から再考してみたい。ヘルバルト主義とは、以下の三つを主要原理とするドイツ教育思想である。第一に「文化史段階説」であり、人間の発達段階を自国文化の発展に準えて教材を選択、配列する論理である。第二の「中心統合」とは、教育の最高目的とされた「道徳性の陶冶」に直接関わる「心情科」を中核に据え、他教科をそれと関連付けながら周辺に布置することである。第三は「形式的段階」であり、「予備」「提示」「比較」「総括」「応用」の5段階を踏む教授法である。

ヘルバルト主義導入以前の唱歌教育の目的論では、歌詞を通しての「徳性の涵養」、実利主義的効用論に基づく「健康の増進」が支配的であった。唱歌教材論を明確に示した著作はなく、教授法としては、口授が主要な方法論とされた。音楽取調掛によって編纂された『小学唱歌集』では、西洋音楽の直輸入が大半を占め、1割程度取り上げられた日本伝統音楽では雅楽が多く採用され、俗楽は91曲中わずか2曲にとどまった。歌詞には「文語」「雅語」が用いられ、内容は、主に忠君愛国的、徳育的内容を直截に説いたもの、もしくは花鳥風月などの風流を詠み込んだもので構成された。10年後に伊澤修二を中心に作成された『小学唱歌』では、口語や「わらべうた」の採用、教授法の明示等々、幾つかの変更点が見いだされるものの、概ね『小学唱歌集』の傾向が踏襲された。

日本におけるヘルバルト主義導入は、学校を国家に帰一させる国体教育主義体制の確立を企図した文相森有礼の施策が発端となり、明治20年のハウスクネヒト来朝をもって開始されたという。ハウスクネヒトは和魂洋才に基づく国家主義を説き、唱歌科については速やかにこれを実施すべきと論じ、「学科課程案」では必須科目に位置付けた。

ヘルバルト主義は、唱歌科を含む教育法制度に影響を与えており、とりわけ明治23年の「小学校令」改正と、翌年公布の「小学校教則大綱」において顕著である。明治24年発布の「小学校祝日大祭日儀式規定」においても、ヘルバルト主義との共通点が認められる。

稲垣忠彦氏が指摘する通り、ヘルバルト主義は公教育における教授法の定型化を推し進めた。唱歌科ではそれにとどまらず、田村虎蔵らヘルバルト主義に傾倒した人物が、当時の国家政策や時代思潮の制約を受けつつも、雑誌や教授法書を通して方法論のみならず目的論や教材論をも鼓吹し、それを構成理念とした唱歌教材の作成まで手掛けているところに大きな特徴があった。ヘルバルト主義の影響は、『教科適用幼年唱歌』はもとより、後の文部省編『尋常小学唱歌』にまで及んでおり、従前と比して教材楽曲には様々な変化が見受けられる。なお、田村の「言文一致唱歌」や、隆盛を極めた「鉄道唱歌」については、ヘルバルト主義との関連や、当時の社会・文化的コンテクストから考察してみたい。

最後に、今日の学校音楽教育においても色濃く残るヘルバルト主義的傾向を指摘し、その功罪について試論する。

 

(発表要旨3)

「音楽取調掛の俗楽観」

                              平田 公子 (福島大学)

音楽取調掛(以下、取調掛)では、俗楽は無学の輩の手に委ねられ野卑に流れ風教を乱すことから、改良の対象とされた。明治17(1884)に提出された『音楽取調成績申報書』(以下『申報書』)では、俗曲(俗楽とほぼ同義語として使用されている)の中で弊害の最も少ない箏曲を第一に、次いで長唄の改良を行ったとされている。先ず改良すべき曲が選ばれ、歌詞並びに曲調の改良が行われた。歌詞については徳性を養い育てるようなものにし、曲調は卑猥で乱れた旋法を雅正にしたとされている。しかし、曲調についてはどのような改良がなされたのか明確な資料がない。明治15年以降、改良された曲は取調掛の成績報告の際に公の演奏会で発表された。また、普通の楽譜(五線譜)に採譜され、迅速な学習ができることも目指されていた。

箏曲の改良の成果は明治21(1888)に『箏曲集』として出版された。

明治政府は文明開化の中、風教を乱す歌舞音曲を認めないことを取締強化によって示した。そこから様々な改良運動も行われ、俗曲改良もこの時代の流れの中に位置づけられる。発表では、当時を示すものとして福島の事例についても報告したい。

明治9(1876)97日以降の目賀田種太郎のメモにも、我国の音楽には雅俗の差があり、雅なるものは清く、俗なるものは濁れりと述べられているが、取調掛の俗楽についての考えの背後には、音楽は人性の自然に基づき、心を正し身を修め俗を易えるのに最も適しているとする儒教的音楽教育観が存在していると考えられる。

また『申報書』には、調査研究の成果から、音律についても音階についても西洋と我国の音楽は大体同じであること、さらに、エンゲルの説を紹介するかたちで、西洋の音楽も我国の音楽も共にインドを源とすることが報告されている。この成果に基づき、伊澤修二は明治22(1889)76日の専修生の卒業式において、西洋の音楽と我国の音楽は進歩の度合いが異なるのみで、大本において異なるわけではないと演説した。

この報告には後に種々の異論が出されるが、取調掛ではこの成果を西洋音楽中心の教育政策を進める拠り所としたと言えよう。

ところで、伊澤の「音樂取調ニ付見込書」(明治121030日付)では、「將來國樂ヲ興スベキ人物ヲ養成スル事」という目的の達成のため、伝習生には「雅樂又ハ俗曲ヲ習得セシ者」という選択要件が設定されているが、東京音楽学校になる中で、このことが変質していったということも、俗楽の位置づけに大きく影響した。

以上のことから、取調掛では西洋音楽、日本音楽、そして、日本音楽の中では雅楽、俗楽という音楽の価値の序列化がなされ、俗楽は主として改良の対象にとどまったと言えるのではないか。

 

(発表要旨4

「東京音楽学校における音楽専門教育──演奏曲目と所蔵楽譜から見えるもの──」

大角 欣矢 (東京藝術大学)

科学研究費補助金(基盤研究(B))を得て遂行中の研究「東京音楽学校の諸活動を通して見る日本近代音楽文化の成立──東アジアの視点を交えて」(平成2023年度)の成果の一部の中間報告を兼ねて本報告を行う。本研究では、先行する「近代日本における音楽専門教育の成立と展開」(平成1719年度科学研究費補助金・基盤研究(B))で着手した、音楽取調掛/東京音楽学校における楽譜・図書の収集状況に関するデータベースを改良・発展させつつある。この後者科研の研究成果の一部として、明治2228年の同校における演奏会曲目と楽譜受入との関連については既に発表したので(2008年、同科研報告書)、今回はその続編という形で、明治2945年における同校の卒業式、及び定期演奏会における演奏曲目と楽譜受入を扱う。ただし、今回はあくまで中間報告である。

明治26年以来東京高等師範学校の附属であった東京音楽学校は、明治32年に再独立を果たし、同時にアウグスト・ユンケルを雇外国人教師として迎えた。また翌33年、大幅な規則の改正を行い、本格的な音楽専門教育の充実へ向けて大きく舵を取る。最も重要な改正点は、本科を声楽部・器楽部・楽歌部に分け、専門毎にカリキュラムを設定したことである。また、31年のラファエル・フォン・ケーベルを筆頭に、数人の外国人音楽家も、嘱託講師として徐々に加えられて行った。これらの措置が、同校の教育の専門性向上にめざましい成果をもたらしたことは想像に難くない。

そのことは、卒業式・定期演奏会の演奏曲目にもはっきり表れている。管弦楽曲や管弦楽付声楽曲の割合が飛躍的に増え、それも徐々に「大曲」へ挑むようになって行く。それに反し、以前は一定の割合を占めていた邦楽(箏曲)の演奏がごく僅かしか見られなくなる。明治20年代には見られた、西洋楽器と邦楽器の混合による演奏や、邦楽器による洋楽の演奏などは影を潜める。一方、日本人作曲家による作品はほとんど見られない。よく言われてきたように、同校はまさに「洋楽一辺倒」の牙城へと化しつつあったかの観がある。

しかし、それだけにひときわ興味を惹くのが、声楽曲の上演形態である。研究対象とする期間全般にわたり通例であったのは、原詞とはほぼ無関係、ないし緩やかにのみ関連する内容で新たに「作歌」された日本語歌詞で歌う実践である。原詞に忠実に沿った「訳詞」がごく散発的に現れてくるのは、ようやく40年代に入ってからに過ぎない。原語上演もやろうと思えば不可能ではなかったはずなのに、「上野式」と揶揄され、頗る評判の悪かったこの実践を、東京音楽学校はなぜ頑なに続けたのか。指揮者が外国人だったことを考えると、この実践はますます不可解なものと思えてくる。

「作歌」については、すでに上記科研報告書中に橋本久美子氏による研究があり、そこで原則的な考察もなされている。同氏はさらに現在も科研の枠内でデータベース作成などの調査研究が続けられているので、詳しくはその成果を待ちたいが、本報告においても、同氏の考察を踏まえた上で、当時の国策との関係も視野に入れて簡単に論じてみたい。

 

 

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傍聴記(執筆:小岩信治)

 

 2011年度第4回定例研究会は、東日本支部発足後初めての、旧東北・北海道支部地域での催しであった。福島大学での開催は昨年の段階で、つまり震災と関係なく、新しい支部活動のあり方を象徴する研究会として構想されたもので、3.11後にもその計画は揺らぐことなく実施に至った。結果としてこの催しは、震災後半年のフクシマを新しい支部として確かめる意味も担った。さまざまな困難に拘わらずこの貴重な研究会のために尽力されたパネリストはじめ関係の会員諸氏に、まず感謝申し上げたい。

 緑豊かなキャンパスのなかの音楽棟音楽講義室では、北は青森から、南/西は神戸から集まった30名を越える会員が(用意された座席は満席)、シンポジウム「明治の国家政策と音楽 東北・福島から考える」に耳を傾け、三時間のプログラムのうち最後の45分には活発な質疑・意見交換が行われた。

 盛況の一つの理由として、テーマが多くの会員の関心を集めるものであったことが挙げられよう。無論そのようなテーマはさまざまなサブ・テーマが複合的に関わるもので、それゆえに論点が拡散する傾向はこの場合も否めなかった。しかし、明治150年も視野に入ってきた今、私たち共通のルーツとも言えるこの時代の音楽-文化政策について、従来充分には意識されていなかった問題や視座が近年の研究成果とともに提示されることは、(遠路?出席した)多くの会員にとって有意義であったと想像される。

 新しい視点とは、例えば、雅楽が新たな社会での「立ち位置」をどのように確保していったか、というものである。(もっともこうした問題は、発表者の塚原氏などにとってはすでに長らく意識されていたものであることは言を俟たない。)筆者にはとくに、江戸幕府や諸藩(会津藩を含む)の法会や祭礼、釈奠で雅楽を担った楽人たちが、明治初期の音楽政策による新しい音楽実践(含む西洋音楽)の形成過程に関わっていた可能性に関心を持った。

 この時期の音楽文化について雅楽を視野に考えていかなければならないことは、音楽取調掛が編纂した『小学唱歌集』(明治15-171882-84年)の(比率としてはわずかな)日本音楽のなかで雅楽が大半を占めていた、という事実からも明らかである。しかし明治後期、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトやヴィルヘルム・ラインの影響のもとに編まれた田村虎蔵編『教科適用幼年唱歌』では、言文一致運動とも絡み合いながら子どもにわかりやすく歌いやすい歌が目指され、雅楽は俗楽とともに教材からは姿を消してゆく。(杉田氏)

 むろん俗楽/俗曲が教材から外れていく事情は雅楽の場合とは異なり、すでに明治初期の段階で「風教を乱す」歌舞音曲が取り締まられており、それに呼応する地域別政策の例として、磐前県でのじゃんがら念仏踊り禁止令(明治6、1873年)等があった。音楽取調掛により、儒教的な音楽教育観のもと俗曲が「改良」され、箏曲や長唄の歌詞が次々差し替えられるのはそれに続く時期である。(平田氏)

 一方西洋音楽の専門教育における明治期特有の現象として、「洋楽一辺倒」に見える東京音楽学校において、大規模声楽曲の演奏の際に原曲とは別の内容を含む日本語歌詞が付されていたことが挙げられる(例えばルイジ・ケルビーニの《レクイエム》に鳥居忱が付けた歌詞は楠木正成の最期を描く『橘の薫』)。この調査結果を報告した大角氏は他方で、独唱曲の場合は原語上演が原則だったことを示し、矛盾のない説明が困難である可能性を指摘したが、まずは大規模声楽曲の上記「作歌」が、かなり融通無碍に行われるこの時代の歌詞の掛け替えの実践として杉田氏や平田氏の発表内容とも繋がり、音楽ジャンルの違いを越えてこの時代の「想定の範囲」であったことが想像された。

 もっとも、今日「奇妙」に見えるこうした「作歌」は、私見では独自の国民文化を創出する試みとも解釈できる。東京音楽学校では「西洋直輸入」の輸入元としてのあり方と、「国民音楽」形成拠点としてのあり方が共存していた(渡辺裕『歌う国民』)からだ。

 フロアからはキリスト教受容と音楽活動との関係、音律論の理解、万博での「日本」表象など多岐に渡る論点が提示され、今回のテーマの(当然ながら)多様な各論の可能性が示された。そのなかで筆者に重要と感じられたのは、今回主に提示された文化政策の設計側の思惑が、実際のところ現場の教育や音楽実践とどのような関係にあったか、という質問である。無論それに答えることは簡単ではないが、一つの事例として福島の様子が具体的に示されればさらに充実した会になったのかもしれないと、平田氏が休憩時に示された現代のじゃんがら念仏踊りの映像を思い出しつつ想像する次第である。

 この研究会に関して一つ残念だったのは、学生会員の交通費支援の制度が活用されなかったことである。来年3月の秋田での研究会の際にはこの制度を使って多くの若い会員が参加できるよう、支部会計担当委員としても今から周知をお願いしたい。