東日本支部通信 第37号(2016年度 第2号)

2016.4.27. 公開 2016.6.7. 傍聴記掲載

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東日本支部 第37回定例研究会

 日時:2016年5月14日(土)午後2時〜4時40分
 場所:青山学院大学 青山キャンパス 11号館1134教室
 司会:広瀬大介(青山学院大学)
〈修士論文発表〉(以下、修士論文題目)
  1. 河村 龍廣(東京大学大学院)
     戦前・戦中のスターリン時代におけるタシケントの西洋音楽文化建設(1930〜1945年)
  2. 菅沼 起一(東京藝術大学大学院)
     ルネサンスにおける「器楽」様式史の再考 ―インタヴォラトゥーラとディミニューション教本に見る「一貫性」―
  3. 秋山 由衣(国立音楽大学大学院)
     東日本大震災後の復興支援における音楽活動の意義
     ―仙台フィルハーモニー管弦楽団と「音楽の力による復興センター・東北」の活動を事例として―
〈研究発表〉
  井上 果歩(東京藝術大学大学院)
   3音リガトゥーラへの還元の規則


河村 龍廣(東京大学大学院)
戦前・戦中のスターリン時代におけるタシケントの西洋音楽文化建設(1930〜1945年)

 本論文は、第1章ではタシケントがウズベク・ソヴィエト社会主義共和国の首都となった1930年から第二次世界大戦が勃発した1941年まで、そして第2章では1941年から1945年までを範囲とし、各々そこでの音楽活動と西洋音楽作品について述べた上で、最終章でその特徴ならびに、それがロシア音楽史においてどのような位置づけを持っていたのかについて分析する。
 第1章の対象である1930年代は、ソ連全体ではスターリンの独裁体制が確立し、芸術活動の統制と芸術家の集団化が行われた時代にあたるが、タシケントでは西洋音楽文化の急速な建設の時代にあたる。タシケントは19世紀にロシアの植民地となったが、先住民への文化啓蒙が始まったのは革命以後であり、1930年代になってそれが加速する形となった。主要芸術団体が旧都サマルカンドからタシケントへ移され、音楽家を集団化するために作曲家連盟が作られた。学術面ではフォークロア収集と採譜が行われ、教育面ではタシケント音楽院が作られた。演奏面では国立管弦楽団の創設が行われる一方で、伝統楽器の西洋音階への順応と楽器の「改良」、そしてそれに基づく民俗楽器オーケストラの結成が行われた。作曲面では、赴任してきたロシア人若手作曲家がウズベキスタン初の管弦楽曲を作り、一方でロシア人とウズベク人の合作で音楽劇が作られた。このような西洋音楽文化建設は10年足らずの間に行われた。
 第2章では第二次世界大戦中について述べる。基本的な文化路線は変わらなかったものの、そこにはレニングラードからの音楽家の疎開という新たな展開が見られた。中でも音楽界の重鎮だったマクシミリアン・シテインベルクは、地元政府の要請でフォークロアと民俗楽器を用いた『交響的狂詩曲』を作った。またこの時期にウズベク人作曲家ムフタール・アシュラフィが交響曲第1番を発表した。これはウズベク人初の交響曲とされ、当時の中央アジアの作曲家としては異例の楽譜出版がなされた。終戦と共にレニングラードの人々は引き揚げたが、このような形で西洋音楽文化建設が加速された形となった。
 第3章で、以上のような活動の特徴およびロシア音楽史における位置づけについて述べる。論文で紹介した作品群は19世紀ロシア国民楽派の音楽の再生産であり、それを実質上の植民地であるタシケントへと移入させた形となっている。ただしロシア国民楽派の音楽と違い、そこには最新のフォークロア研究の成果も反映されていたことも確かで、それはソ連の積極的な植民地政策の表れである。また他のアジア諸国と比較した音楽の近代化の特徴として、共産主義特有の大衆啓蒙の要素があげられる。タシケントでの西洋音楽文化は、ソヴィエト市民社会を作るために政府によって上から急速に推進されたものであり、第2章で述べた「ウズベク人初の交響曲」はその一つの到達点であったといえる。


【傍聴記】(梅津紀雄)
 中央アジアの民族形成がソ連体制下で行われ、当時確定された領域が現在も引き継がれていること、それ以前は確たる民族意識がなかったこと、そしてその民族形成の際に芸術文化も関与しており、民族楽器合奏団を始めとした帝政ロシア時代末期までの経験が諸地域に適用されたこと(またそれが、河村氏が指摘するように、極めて短期間のうちに成し遂げられたこと)等は知られつつある。カザフスタンに関しては東田範子氏の先駆的な研究があるが、河村龍廣氏はウズベキスタンを対象として同様の問題に取り組んでいる。
 発表はスターリン時代のタシケントを対象とし、西洋音楽を中心として議論が行われた。その特徴の一つは、西洋音楽の導入を「19世紀ロシア国民楽派の音楽の空間的・時間的拡張」とし、「ロシア音楽史」の一部をなすとの観点から論じられたことにあった。
 ソ連邦解体後、中央アジア諸国では確かにソ連的価値観が見直されている。だが、マーチン『アファーマティブ・アクション帝国』が主張するように、ソ連はただの帝国主義国ではなかった。そして現在も民族楽器合奏団は消滅しておらず、ナヴァーイー記念歌劇場でもウズベク人作曲の作品とともに西欧・ロシアの作品も上演され続けている。そうした事実を踏まえ、複雑な事象をロシア/非ロシアのような二項対立で分節化するのではなく、近隣地域の文化との錯綜した関係も視野に入れつつ、繊細に読み解いていく議論を今後は期待したい。ロシア音楽に拘るならば、多くの非ロシアの音楽文化建設に関わったグリエールのような作曲家に着目する手もあろう。
 なお当日は、ウズベク人初の交響曲とされるアシュラフィの交響曲第1番《英雄》について河村氏自身のピアノ編曲による演奏の一部が披露された。同曲についてのさらなる分析も期待される。


菅沼 起一(東京藝術大学大学院)
ルネサンスにおける「器楽」様式史の再考 ―インタヴォラトゥーラとディミニューション教本に見る「一貫性」―

 本研究は、声楽曲の器楽編曲作品「インタヴォラトゥーラ」、そして旋律の音価を細かく分割して装飾する演奏習慣「ディミニューション」を対象とし、両者における装飾技法の分析を通したバロック期以前の器楽史の再考を目的とする。
 ルネサンス期の器楽曲の中でも、インタヴォラトゥーラは研究・実践の両面から低く位置付けられてきた。声楽曲を原曲とするインタヴォラトゥーラは、原曲の「派生物」としての見方が強く、ファンタジアやカンツォンが声楽曲から派生した「器楽独自のイディオム」を確立する前段階的存在として扱われている。しかし、インタヴォラトゥーラで用いられるディミニューション技法に着目することが、このジャンルの再評価につながると考えた。編曲の際に施されるディミニューションこそ、奏者のヴィルトゥオジティが結実した独自のイディオムに他ならないからである。
 本研究では、最も多くの楽曲が残された16世紀イタリアの出版譜に焦点をあて、インタヴォラトゥーラにおける装飾音型と編曲手法の分析を行った。その結果、16世紀のインタヴォラトゥーラにおける「一貫性」が明らかになった。それらは、世紀後半になるにつれより高度な装飾が施されるようになることもなく、世紀を通じて同一の編曲手法を用いられていた。そしてそこには、原曲の構造を変えずに編曲する楽曲群の他、原曲の構造を捨象して装飾を埋め尽くす技巧的な楽曲群の存在、そしてこれら異なる編曲手法の「意識的な使い分け」が存在した。また、16世紀以前の数少ない資料と演奏習慣の考察から、インタヴォラトゥーラが中世より長きに渡って実践されてきた「一貫した伝統」が存在することを指摘した。
 また、出版譜における楽曲数の減少から、16世紀を通して「衰退する」ジャンルと考えられていたインタヴォラトゥーラであるが、世紀後半にはもう一つのムーヴメント――ディミニューション教本の出版ラッシュ――があった。ディミニューション教本には既存の声楽曲の装飾例が多数掲載されており、これらはインタヴォラトゥーラと様々な共通性が存在する。これらを含めると、インタヴォラトゥーラは決して衰退するジャンルではなく、世紀を通じて繁栄したものとして捉えることが出来る。そして、これら楽曲の分析から、インタヴォラトゥーラが中世より一貫して高い技術的レヴェルを保持していたことが明らかになった。
 そこから、「発展的な」側面が強調されてきたルネサンスの器楽曲という歴史像への疑問が浮かび上がる。従来インタヴォラトゥーラよりも高く位置付けられてきた他の器楽曲は、16世紀を通じて様式的な発展を見せるものとして記述されてきた。しかし、インタヴォラトゥーラは異なる像を提示する。インタヴォラトゥーラは、特にその装飾技法において中世末期より一貫して高いレヴェルを保持していた、「奏者のヴィルトゥオジティ誇示の場」として捉えることが出来るのである。


【傍聴記】(那須輝彦)
 インタヴォラトゥーラ(声楽曲の器楽編曲)の様式史を、デミニューション(細分装飾)に着目して辿り、ジャンルの再評価を試みた研究である。イタリアを主な対象にして、15世紀〜17世紀初頭の70点近い史料(出版譜・写本・教本)から声楽曲の器楽編曲を拾い出し、デミニューションの分析を行っている。
 その結果、曲集には、1)原曲に忠実なもの、2)華美な装飾を施したものの2タイプが意識的に使い分けられて併存しており、広範な購買層の獲得と奏者の技巧誇示という相反する志向の「せめぎ合い」が認められた。また名技誇示の編曲自体にも、1)原曲の多声部書法の十全な保持、2)原曲の華美な装飾、という2志向が認められた。
 この慣行は、時の経過とともにリュートや鍵盤のタブラチュア譜から管楽器や弦楽器の教本へと営みの場を変えながらも当初から一貫して高い技術レベルを保持しており、様式的発展が認められない。この点でインタヴォラトゥーラは、他の器楽ジャンルとは異なる独自のジャンルであるというのが結論であった。
 質疑応答ではインタヴォラトゥーラの定義や声楽の装飾との関連が話題になったが、原典での用語の如何によらず「声楽曲の器楽編曲」という基準で楽曲を整理・分類することが包括的研究として実りあるであろう。
 修論では綿密に行われている分析の実例が提示されなかったので、「高い技術レベル」とその「一貫性」が具体的には得心できなかった。優れたリコーダー奏者でもある発表者ならではのコメントもあったのではないか。タブラチュアやデミニューションを音源つきで説明した冒頭4分は再考の余地があるかもしれない。膨大な史料を丹念に分析した力作であることに疑念はないので、譜例の充実した活字の刊行を待ちたい。

秋山 由衣(国立音楽大学大学院)
東日本大震災後の復興支援における音楽活動の意義 ―仙台フィルハーモニー管弦楽団と「音楽の力による復興センター・東北」の活動を事例として―

 本研究は、東日本大震災後の音楽活動として仙台フィルハーモニー管弦楽団(仙台フィル)および「音楽の力による復興センター・東北」(復興センター)の活動を調査することで、震災後の彼らの活動がどういった意味を持ち、また震災から5年が経った今日の社会のなかでどのような役割を担っているかを考察したものである。今回は仙台フィルの楽団員をはじめとした演奏家が、自らも被災者でありながら行った演奏活動を通して被災地住民らと共に立ち上がろうとする姿に着目し、8度の現地での調査とインタビューと仙台フィル楽団員へのアンケート調査を行った。
 第1章では仙台フィル設立の経緯から現在に至るまでの楽団の歩みを、初期に入団した楽団員の証言をもとに述べる。設立当初は市民オーケストラであったが、現在では仙台市のプロ・オーケストラという位置づけになっており、現在の楽団員の中にも市民のためのオーケストラという意識があることが伺える。
 第2章では震災当日の仙台フィルの状況から第一回復興コンサート開催について、楽団員および事務局員の当時の心境を引用しながら示す。2011年3月26日には「第一回復興コンサート」が行われたが、開催に至る葛藤や、公演を通して楽団員が感じた思いから、同じ被災者として聴き手と楽団員の気持ちの共有がなされていたことも確認できた。
 第3章では、復興センター設立から取り組みおよび財政について述べる。ここではコンサートの実例を用いながら、一つひとつのコンサートをコーディネーターが手作りしていく復興センターの活動を示す。財政においては、助成対象外となる活動外多く財源の多くは寄付金で運営されているため今後活動が限られることが懸念される。
 第4章では被災地または被災者の移住先となっている各地域が抱える問題を提示し、それに対し復興センターの活動がどのように作用しているかについて考察する。復興センターのコンサートでは、聴き手と演奏者、または聴き手同士の間にコミュニケーションが生まれているが、これは震災によって地域の人々のつながりが途絶えたり希薄になる問題に対し、コミュニティを新しく作ったり、既存コミュニティを強化することにおいて重要な役割を果たしていると言える。
 第5章では、仙台フィルと復興センターの活動を社会学的な視点でみつめた。震災直後は生活が最優先であったため、演奏家たちは音楽家としての社会的な存在の危機にさらされることとなったが、仙台フィルは収益やオーケストラの形態にはこだわらず、できることからできる形で早くから音楽活動を再開した。そのことで演奏家たちは演奏することで人々の精神的なサポートになることを実感し、自らの社会的な役割を認識したことがわかる。
 また復興センターのコンサートにおいて見られるコミュニケーションは、人々のつながりの強化につなげられるということになるだろう。コンサートという機会を提供することをきっかけにコミュニケーションが生まれることで、信頼関係やネットワークの強化がなされるのである。復興センターの行っているコンサートはソーシャル・キャピタルを培う活動であると言える。


【傍聴記】(山本まり子)
 熊本地震の発生からちょうど1か月後に行われたこの発表は、音楽と人と社会の関係について現実感をもって多様な視点から見つめ直す契機を与えてくれた。東日本大震災からわずか15日後に復興コンサートを開始した仙台フィルの活動は、その非営利的性質ゆえに、別組織の「音楽の力による復興センター・東北」に受け継がれる必要性があったと秋山氏は強調。8回にわたる現地調査(復興コンサート見学と楽団員インタビュー)を通して、復興コンサートが市民の心を癒し勇気づけただけでなく、自身も被災した演奏者側に音楽の意味について深く考える機会を与えたことが浮き彫りとなった。この状況が音楽の提供側と聴き手に一体感を生じさせ、新たなコミュニティの形成を促すという。
 本研究は、現在進行形の問題に正面から取り組み、社会学的視座から個々の事象を関連づけた点に意義があると言えよう。またフロアからは、示唆に富んだ「記録」としての価値を評価する声も上がった。一方、質疑応答での「復興センター」の財政基盤に関しては、財務諸表が公開されているのだから今一歩踏み込んでほしかった。また「ソーシャル・キャピタル」という術語が最後に登場したが、そこへ至る議論が不十分だったため、唐突感があったと言わざるを得ない。今後は仙台フィルと「復興センター」の活動を震災後の音楽状況全体の中に位置づけ、その独自性を探ることで、より表題に相応しい研究に発展することが期待される。


井上 果歩(東京藝術大学大学院)
3音リガトゥーラへの還元の規則

 計量音楽論とはヨーロッパで展開されたリズム論であり、その初期である13世紀の理論はガルランディアに代表される前フランコ式理論(1240〜80年頃)と、フランコを筆頭とするフランコ式理論(1280年〜14世紀初頭)とに大別される。両者ともリズム・モードと呼ばれるリズム・パターンをその理論の核としているが、規則に関して異なる点が多々ある。今回はその中でも前フランコ式にしか見られない「3音リガトゥーラへの還元の規則」(以下、還元の規則)を取り上げたい。これは3音を超えるリガトゥーラは3音リガトゥーラへと還元されるというもので、リガトゥーラ内のはじめの諸音は音が増えた分だけ短くなり、リガトゥーラ全体の音の長さは変わらなかった。対してフランコ式理論では、リガトゥーラが3音以上になると基本的に中間の音はそれぞれブレヴィスの音価になり、その全体は音の数が増えた分だけ長くなった。本発表では、還元の規則を論じた第7無名者(13世紀半ば〜後半)、ガルランディア(1240〜60年頃)、第4無名者(1270年代)、ザンクト=エメラムの無名者(1279年)の論文を比較・考察することで、この規則がどのように機能していたのか、また、なぜフランコ式理論でこの還元の規則が失われたのかについて検討する。
 4つの論文に共通しているのは、還元の規則が通常、リズム・モードのうち第1モドゥス(長短リズム)で用いられる点である。その場合、還元されるべき3音リガトゥーラは「ロンガ・ブレヴィス・ロンガ」になるが、これは前フランコ式理論の中で最も基本的かつ重要とされたリガトゥーラである。ただし、還元の規則にも2種類あり、3音を超えるリガトゥーラがあった場合、一つ目の考えでは、後ろの1音は「ロンガ」で残りの音は全体で「ロンガ・ブレヴィス」に相当し、対して二つ目の考えでは、後ろの2音は「ブレヴィス・ロンガ」で残りの音は全体で3音リガトゥーラの最初の「ロンガ」に相当した。第7無名者は前者を、ザンクト=エメラムの無名者は後者を、第4無名者は両方を採用しており、ガルランディアの記述は両者ともとれる曖昧なものであった。
 さらに、第7無名者とザンクト=エメラムの無名者の論文からは、還元の規則が「逆プロプリエタス」という別の規則と多くの類似点を持ち、混同されていたことがわかる。逆プロプリエタスとは還元の規則同様に音の長さを縮小するために用いられた規則である。還元の規則ではリガトゥーラ内の音数によって、後ろの音を除く他の諸音の長さが変動したのに対し、逆プロプリエタスのリガトゥーラでは、通常最初の2音はセミブレヴィスになった。フランコ式理論で音の縮小に関する規則が逆プロプリエタスに一本化された一理由は、両理論が似ていたことに加え、音価と音の長さを常に固定化しようとするフランコの考えに還元の規則がそぐわなかったことにあろう。


【傍聴記】(那須輝彦)
 単独符とリガトゥーラ(連結符)の配列具合によってリズム・パタンを表示するノートルダム楽派の記譜法から、それらの音符の形状の相違によって個々の音価を表示するフランコ式記譜法に至る過渡期、いわゆる前フランコ式記譜法に見られる「4音以上のリガトゥーラは冒頭数音符が圧縮されて3音リガトゥーラ分に還元される」という規則を記譜法論の独立単元に格上げし、還元規則の機能、およびフランコ式でその規則が消失した理由を考察した研究である。
 前フランコ式を説く4理論書を調査した結果、1)3音リガトゥ−ラの基本として第1モドゥス、すなわちL(onga2拍) – B(revis1拍) – Lが重視されている、2)3音リガトゥーラへの還元法には増えた音符をLBLのLB分に収める方法と冒頭のL分に収める方法があったこと等が報告された。後者であれば増加分がS(emibrevis)やBになって冒頭2拍分に収められる。しかし1)それら縮小音符の各音価は1理論書を除いて曖昧であること、2)冒頭数音の縮小が、リガトゥーラ左端に上向き棒を付して冒頭2音がSであることを示す「逆 proprietas」の用法と混同され易いこと等の故に、曖昧さを避けるフランコ式では還元規則が消失したという結論であった。
 音価表示の手段としてリガトゥーラの(ことに冒頭の)形状(「cum proprietate 正形」であるか否か)が決定的な意味をもっていたことを承知している者からすると、「逆proprietas」への言及があったためなおさら、還元規則と符形の関係に関心が及び、それが傍聴記筆者のコメントとなった。還元規則の消失理由に説得力をもたせるには有効な話題かと思う。特殊な内容で深入りを避けざるを得ないのは理解できるが、発表時間は3分の1残っていた(勘違いされたか)。難解な問題に真摯に挑んだ貴重な基礎研究であるので、理論書原文と訳文、譜例等が完備された博士論文の完成を期待する。


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