東日本支部通信 第34号(2015年度 第6号)

2015.11.17. 公開 2016.1.14. 傍聴記掲載 

indexに戻る


東日本支部 第34回定例研究会

 日時:2015年12月12日(土)午後2時〜4時半
 場所:慶應義塾大学 三田キャンパス 441教室(南校舎)
 司会:佐藤 望(慶応義塾大学)

 〈研究発表〉
 1.久野久子の留学と死 ―外交文書から明らかになった新事実―
  畑山千恵子(東日本支部)

 2.A.スクリャービンの後期和声システム確立までのプロセスについての考察
  川西三裕(東日本支部)

 3.サン=サーンス監修『ラモー全集』刊行事業の歴史的意義
  ―作曲家による校訂/鍵盤譜が意味するもの―
  安川智子(国立音楽大学)


久野久子の留学と死 ―外交文書から明らかになった新事実―

畑山千恵子(東日本支部)

 明治・大正期、「ベートーヴェン弾き」として名声を博し、ドイツ・オーストリアに留学、留学先ヴィーン近郊バーデンで自殺したピアニスト、久野久子(1885−1925)には自らの技量を酷評されたこと、未熟な譜読みの遅れから絶望のあまり死を選んだという説が有力だった。特に、前の風説は久野の死後、程なくして広まり、兼常清佐、野村光一をはじめ、中村紘子による「作り話」というべき伝記にも影響を及ぼしている。さらに中村が使用した文献中、「近江の女」はアマチュアの執筆者の手によるもので、人物事典などを参照しただけというお粗末な内容だった。
 また、吉田光邦「挫折のピアニスト 久野久子」(京都大学 人文学報 1971)、蒲生美津子「音楽格闘家 兼常清佐の生涯」(大空社 2013)では、久野の遺体の火葬、葬儀はパリで行われたと記している。吉田が用いた、長谷川時雨「春帯記」中の久野の評伝も兄の酒乱があったことは、兼常清佐の妻、篤子の日記から確認できたものの、全体を見ると新聞記事を基にしたようである。野村光一の著作は事実の捏造・歪曲がひどく、信憑性が低いことが明らかになった。
 しかし、山本尚志が外務省外交資料館で当時の外務省文書中、オーストリア公使、赤塚正助が1925年4月29日付の公信とともに送った久野の自殺に関する詳細な報告書を調査した上、「レオニード・クロイツアー」(音楽之友社2006)、ムジカノーヴァ、2001年2月号「久野久子の死 ある外交官の報告」(音楽之友社)で公刊、従来の定説を覆すこととなった。
 本研究は2013年11月20日−12月9日、外務省外交資料館で当節報告書をはじめ、全賞の調査、死亡証明書、収支報告、遺産に関する書類を精査した結果、次の2点が明らかになった。

1.久野の自殺は帰国が近づくにつれ、何も学ばずに帰れないという芸術家の良心、久野の留学前から悩みの種となっていた兄、弥太郎の酒乱から逃れたかったことによるものであった。
2.遺体の火葬、葬儀はオーストリア当局の検視の後、ヴィーンで行われた。

 以上のことから、久野の自殺に関する従来の定説に代わる、新しい説を提示する。この研究は学会論文として提出予定である。さらに、久野と兼常清佐、篤子夫妻との関係に関する研究も行い、論文提出・発表を行った上で、本格的な評伝執筆へとつなげたい。


【傍聴記】(末永理恵子)

 日本人ピアニストのさきがけ、久野久子については、中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』で取り上げられたのが、おそらく初めてのまとまった論考であろう。さまざまな文献に基づいて書かれた基本文献とされてきた。しかし、初出が『文藝春秋』の連載なので、裏付を取る時間が限られていたうえに読み物としての面白さが重視されたことが災いして、正確さに欠けるところがあった。原田稔『熱情の使者は二度甦る 私本・久野久子伝I』で徹底的に糾弾されている。この書には、これまで久野が不当に貶められてきたことへの義憤が強く表れており、兼常清佐ほか、中村以前・以後の様々な文献も俎上に乗せられている。畑山氏の立ち位置はこの線上にあると思われ、久野の名誉回復が柱の一つとなっていると見えた。
 パワーポイントが効果的に用いられなかったことと、内容が多すぎて論点がぼやけてしまったことで少々わかりにくかったが、本発表最大のトピックは、ウィーンでの自死後、パリで行われたとされてきた久野の葬儀が、ウィーンで行われていたとする資料の発見であった。外交史料館所蔵の資料に明記されているとのことだ。誤報の源は『朝日新聞』の記事(ちなみに傍聴記を書くにあたって確認したところ、大正14年4月26日夕刊掲載の、パリ特派員によるものであった)。葬儀について言及した過去の文献はそう多くはないが、今後評伝が著される際には必要な訂正であろう。
 文献に対しては常に公平かつ冷静な評価を心がけ、無闇に鵜呑みにすることも、切り捨てることも避けなければならないことを、発表を聞いて再認識した次第である。


A.スクリャービンの後期和声システム確立までのプロセスについての考察

川西 三裕(東日本支部)
  
 スクリャービンの音楽は、初期作品においてはショパンの影響が色濃い保守的なものであるが、20世紀初頭から前衛的となり、1910年以降の後期作品では、従来の機能和声法と異なる、独自の和声システムによって作曲されるようになる。先行研究において、後期作品における独自の和声システムには、いくつかの原則があることが明らかになっているが、スクリャービンが機能和声法から、その独自の和声システムに至る過程に注目した研究は多くない。
 本研究は、スクリャービンが1903〜07年に作曲した中期ピアノ作品群に焦点を当てて分析を行い、「神秘和音」とその三全音の扱い方や、機能和声法からの離脱の方法に、独自の和声システム確立へと繋がる連続性を見出した。それは、以下のような流れであった。
―スクリャービンの中期はじめ(1903年 op.30以降)―
@「神秘和音の萌芽」…主調が明確で、まだ機能和声法に従っているが、神秘和音の萌芽ともいえる属和音第5音下方変位が、随所に見られるようになる。
A「神秘和音のドミナントとしての使用」…スクリャービンは神秘和音(属九第5音下方変位付加6度)を、ドミナント和音として用い始める。その後のトニックへの解決が存在するため、調性はまだ明確である。
 ―スクリャービンの中期なかごろ(1905年 op.47以降)―
B「属九和音系の機能の拡張」…属九和音系が、ドミナント和音(♭II・V)に留まらず、他の和音(IV・I・VI・III)の根音の上にも現れ始める。機能和声法は根音の動きにしか見られなくなる。楽曲のほとんどを属九第5音下方変位が占めるようになり、そこに含まれる三全音(増4度または減5度)の、協和音程への解決が先延ばしにされる。
C「属九和音同士の増4度関係の連結」…根音が増4度関係にある属九和音系同士の連結が著しく多くなり、主調や和声進行の判断が困難になる。主調の判明は、曲の中間部と終結におけるカデンツを待たなければならない。
―スクリャービンの中期おわり(1907年 op.56以降)―
D「属九和音の三全音の連結」…属九和音系に含まれる三全音は、保時または半音下行などで連結されることが多くなる。機能和声法よりも、後期作品を貫く和声領域連結システムに近づいている。一部の曲では、終結部においても属和音系の導音および三全音は未解決となる。ドミナント-トニックは根音にしか見られず、その緊張-解決の効果は、ほとんど消失している。
―スクリャービンの後期(1910年 op.58以降)―
E「後期和声システムの完成」…機能和声法の最後の名残であったドミナント-トニックは姿を消し、神秘和音または属九和音系が、独自のシステムによって機能するようになる。
 以上から、スクリャービンの中期作品の作曲法の変遷には、属和音系同士の連結と、ドミナント-トニックの曖昧化によって機能和声法から離脱していくという、一つの流れがあったと言える。また、中期作品において機能和声法と後期和声システムの一部が混在していることから、後期和声システムは、中期作品における属九和音系とその三全音の連結方法の模索の中で、編み出されていったものと考えられる。これらのことから、スクリャービンの中期作品では、「神秘和音(属和音系)の多用」、「機能和声法からの離脱」、「独自の和声システムへの志向」の三つが、それぞれ密接に関係しながら進められているため、後期作品へと至る連続性を持つことが明らかになった。


【傍聴記】(末永理恵子)

 本発表は、修士論文(平成26年度提出、北海道教育大学)の成果を踏まえたものとのことで、スクリャービンがその独自性によって注目されるようになる後期の作品に比べ、取り上げられることの少ない中期に光が当てられた。録音と楽譜を交えていくつかの分析が例示され、中期のなかでもその初めから終わりに向かって徐々に作風が変化していくことが示された。研究の過程では、「神秘和音」やそれらの独特な連結の萌芽を、丹念な和声分析を通じて中期の作品郡の中に見つけ出していく、という地道な作業が続けられたことであろう。
 作風が中期から後期へと連続的に変化していき、調性から離脱したと誰もが認めるような作品が生み出されて独自の作風が確立した頃から後期とする、というプロットは、スクリャービンを専門に研究していない者にとっても、ごく自然に想像がつき、すんなりと納得できる。時代の潮流としても、調性や機能和声から自由になろうとする動きが盛んになる時期である。このため、全体としては新しい視点が提示されたとか、斬新な論が展開されたという印象は残らなかったが、研究が少ないとされる中期の作品の和声分析がなされたことと、中期のなかの作風の変遷が考察されたことは、価値のあることと思われた。さしあたっての課題は、フロアからの指摘があり、また発表者自身も気付いておられた通り、日本語以外の文献の渉猟であろう。今後、さらに研究を深めて行かれることを期待する。


サン=サーンス監修『ラモー全集』刊行事業の歴史的意義――作曲家による校訂/鍵盤譜が意味するもの

安川智子(国立音楽大学)

 1895年からデュラン社の主導で始まった『ラモー全集』(サン=サーンス監修)の刊行は1924年に未完のまま幕を閉じた。現在ラモーの新全集がビヨドー社(1996〜2002)、ベーレンライター社(2003年〜)より刊行継続中であるが、デュラン社のラモー全集には、新全集への橋渡しという以上の歴史的意義が秘められている。先行研究も指摘しているように(Gérard2014)、ドイツの出版社に比べて、当時のフランスには「クリティカルエディション」という学問的態度や概念そのものが希薄だった。フランスでもいわゆる「クリティカルエディション」(実際には様々な言葉で言い表される)を実現したいという願いが現実的に動き出したのは、ベルリオーズのグルックのオペラに対する情熱が発端である。「ベルリオーズ、ファニー・ペルタン、ベルトルド・ダムケ」という3名の協力関係によって始まったクリティカルエディションへの長い努力は、関係者の死によりサン=サーンスへと受け継がれ、今度はデュラン(父子)、サン=サーンス、シャルル・マレルブという協力関係のもと『ラモー全集』刊行事業へと行き着く。本発表はこのグルックの校訂からつながる『ラモー全集』刊行の経緯を再構築したうえで、彼らが目指したクリティカルエディションとは何であったのか、結果として実現したクリティカルエディションがどのようなものであったのかを、関係者の書簡、雑誌記事、批評、『ラモー全集』の序文、そして楽譜などから明らかにすることを目的とする。
 デュラン社刊行の『ラモー全集』の最大の特徴は、各巻の校訂責任者に著名な作曲家(サン=サーンス、ダンディ、デュカス、ドビュッシーなど)が名を連ねていることである。とりわけクラヴサン曲だけでなくオペラのスコアにもピアノを前提とした鍵盤還元譜が付されていることは、鍵盤上でスコア・リーディングを行う作曲家の習慣と、これが校訂の重要な手段であったことを示している。発表者はこれまで19世紀フランスにおける「伴奏=鍵盤楽器上での和声把握」の習慣をフランス独特の和声法あるいは転調法につながるものとして重視してきた。フェティスによる『ピアノとオルガンによるスコアの伴奏法〔スコア・リーディング〕』(1829)はその一例を示す手引書であり、この書においてグルックのオペラの伴奏法(和声把握)はとりわけ重視されている。本研究の最終的な目的は、ラモーの音楽の校訂=和声把握が、校訂者である作曲家自身の創作にいかなる影響を与えたかを探ることであるが、今回の発表ではその前段階として、当時の伴奏法と校訂との関係について検証したい。あくまで作曲家による校訂にこだわった『ラモー全集』は、今日的意味において「原典に忠実」なものではないかもしれない。しかし校訂を通じて目に見えない遺産の受け渡しがあったと考えるならば、その歴史的意義は計り知れない。


【傍聴記】(末永理恵子)

 サン=サーンスが監修し、フランスの錚々たる作曲家が校訂にあたった『ラモー全集』を通して、フランス楽壇における“古楽”受容を明らかにしようという興味深い研究の一環である。全集刊行は、ナショナリズムと結びついた側面も否定できないが、それ以前から起こってきた考古学的興味と“発掘された”作品を上演しようとする意欲が、第一義的原動力だろうと考察された。クリティカル・エディションの概念がまだ確立していない時代にあって、スコラ・カントルムとパリ音楽院とオペラ座が協力してすすめたプロジェクトであるとのこと、画期的な事業である。
 実用譜としての目的も重視されているために、原典には書かれていない部分を補完する必要があり、校訂者は作曲家である必要があったが、かなり改変が加えられている場合もあるという。校訂報告で詳細が記録されていれば問題はなかったと思われるが、残念ながらそうではないようで、新全集の編者から批判されているのだそうだ。しかし、その補筆箇所の分析などによって、独特な和声感覚が受け継がれていく道筋が見えてくることがあるかもしれない。更なる研究を待ちたい。
 なお、オペラのスコアに付されたピアノ譜は、オーケストラ譜のリダクションのように見受けられた。ピアノ伴奏で稽古する時に使える楽譜を提供しようというのが第一義的意図だということはないのだろうか。ピアノ・スコアがいつ頃から作られたのか寡聞にして知らない。発表を聞き終えて、そうした楽譜の歴史にも関心が向いたことを言い添えておきたい。


indexに戻る