東日本支部通信 第32号(2015年度 第4号)

2015.9.7. 公開 

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東日本支部 第32回定例研究会

 日時:2015年9月26日(土)午後2時〜5時半
 場所:宮城学院女子大学 音楽館ハンセン記念ホール
 司会:野本由紀夫(玉川大学)
 内容:シンポジウム  「音楽と文化資源」(コーディネーター:太田峰夫)
  〈話題提供〉
   阿部武司(ゲスト、東北文化財映像研究所代表):
    民俗芸能の保存と伝承の諸問題 ―東日本大震災の岩手を中心に―
  〈パネリスト、および発表題目〉
  1.奥中康人(静岡文化芸術大学):
     浜松における文化資源としての音楽 ―ヤマハとラッパ―
  2.太田峰夫(宮城学院女子大学):
     「文化資源」はいつ有用なのか
       ―ハンガリーのダンスハウス運動における録音・録画資料の役割―
  3.伊藤 純(ゲスト、早稲田大学人間総合研究センター 招聘研究員):
     「地域のために」のパラドックス ―被災した民俗芸能の自立と自律―


【シンポジウム「音楽と文化資源」】

趣旨説明(太田峰夫)

 「文化資源」という言葉を耳にする機会が増えた。
 「文化資源のデジタル・アーカイブ化」などというように、この言葉はしばしば、文化の保存と活用を論じる文脈において使われる(『アーカイブ立国宣言―日本の文化資源を活かすために必要なこと』(福井建策・吉見俊哉監修、ポット出版、2014年))。震災の影響もあり、最近では民俗芸能を扱った研究においても、かなり頻繁に使われているようだ(木部暢子『災害に学ぶ―文化資源の保全と再生』(勉誠出版、2015年))。その一方で、学問領域としての「文化資源学」についてもそれを扱う学会が存在し、近年、いくつかの研究成果が公にされるようになっている(渡辺裕『サウンドとメディアの文化資源学:境界線上の音楽』(春秋社、2015年))。
 文化研究の歴史は長い。文化の保存の問題も、19世紀以来、繰り返し論じられてきたテーマと言ってよい。それにもかかわらず、なぜ今「文化資源」なのか。
おそらくこの言葉をキーワードとすることで見えてくる新しい景色があるのだろう。そうだとすると、たとえばふだん背景にかくれているような社会の価値のシステム、制度、社会的諸集団の対立や連帯の構図が暴き出される、などといった事態をわれわれは「文化資源」研究から期待できるのか。
 確固とした学問の方法論がまだ確立されていない分だけ、この問いへの答えはさまざまでありうる。性急な一般化は避けることにして、さしあたり本シンポジウムでは、発表者それぞれの専門領域に立ち返り、音楽文化、ないし民俗芸能を「資源」として論じることで何が見えてくるのか、報告してもらうこととした。それによって、音楽文化研究としての「文化資源」研究の可能性について皆で考えようというのが、本企画の趣旨である。
 奥中は浜松のラッパ文化の事例について、太田はハンガリーにおける録音資料の利用の歴史について、伊藤は民俗芸能の「資源化」がはらむ今日的な問題について論じる。以下、発表要旨を掲載しておくので、適宜ご参照いただきたい。なお、当日はシンポジウムに先立ち、話題提供として阿部武史氏(ゲスト、東北文化財映像研究所代表)に「民俗芸能の保存と伝承の諸問題―東日本大震災の岩手を中心に―」というタイトルでお話しいただく予定である。


浜松における文化資源としての音楽 ―ヤマハとラッパ ―
奥中康人(東日本支部)

 この数年、私は近代に日本に流入した西洋音楽の土着化の事例として、おもに民間の祭礼などで演奏されているラッパや鼓笛隊の調査をしているのだが、このような音楽を対象にしていると、従来の枠組みが邪魔になってくる。つまり、コンサートホールで演奏されるような西洋音楽としても、いわゆる日本の伝統音楽・芸能としても評価しがたい、(それらの観点からみると何とも)不思議な音楽文化だからである。研究者仲間からは、冗談半分で「ウケ狙い」とか「スキマ家具のような研究」と揶揄される(そして、私にそうした意図があるのは否めない)のだが、調査対象となるラッパや鼓笛隊のインフォーマントの立場を思い測ると、かれらは自身の音楽文化を不思議だとは全く思っていないのであって、やはり従来のアカデミックな枠組みのほうに違和感を抱かざるを得ない。そんなときに文化資源という概念や、近年めざましい民俗学の成果はとても便利だと思う。
 4年半前から私が住んでいる浜松は、世界的に有名な楽器メーカーの本社がある地方都市で、音楽関係者にとっては特別な街であり(グランドピアノの購入の際に浜松工場を訪問した人も多いかもしれない)、洋楽器の供給ということについて、明治以降の音楽史を振り返ってみても、その役割が計り知れなく大きいことに異論のある人はいないだろう。しかし、そうした観点はやはり一面的であり、どうやら限られた音楽文化しか捉えていないようなのである。
 本発表では、ピアノやオペラのような音楽を前面に押し出してPRしようとしている浜松が、実はラッパ文化の街であることを紹介したい。それは、単にこれまで知られていなかった音楽文化を紹介するだけでなく、両者の優劣を論じて判定しようというのでもない(自分の調査対象をどうしても贔屓目に見てしまう偏向はあるが)。むしろ「知られていなかった」ということ自体の構造が、音楽文化の認識に関する従来の枠組みが大きく作用していることを明らかにしたい。もちろん、このことは浜松だけでなく、広く近代日本の音楽史を再考するための材料を十分に与えてくれるのではないかと思っている。


太田峰夫(東日本支部)
「文化資源」はいつ有用なのか
 ―ハンガリーのダンスハウス運動における録音・録画資料の役割―

 19世紀以来、「危機に瀕した」文化を「救出」するという名目のもと、さまざまな価値観を持った人々(政治家、芸術家、学者、教育家など)が、伝統音楽の保存を試みてきた。関連する録音・録画資料のアーカイブ化の試みも、フォノグラフの導入以来、100年以上の歴史がある。もちろん、録音資料はこの間、ただ漠然と収集・蓄積されてきたわけではない。対象は注意深く選択され、集められたテープやビデオも収集する側の問題意識にそうように分類され、利用されてきたのだ。
 こうした録音資料を「文化資源」として捉え返すとき、浮かび上がってくる事柄の一つに有用性の問題がある。すなわちそれは、録音・録画された「文化資源」がいつ、誰によって、どのように価値付けられ、活用されるように至ったのか、という問題にほかならない。ことは必ずしも収集者の「意図」通りに運ぶとは限らず、事態は多くの場合、非常に込み入っているのだが、このような価値付けの歴史的プロセスに関してわれわれが知っている事柄はあまりにも少ない。その一方でこの問題について知見を広げていくことは、「資源化」のあり方をめぐる今後の議論の中で、おそらく大きな意味を持つものと考えられる。
 以上のような問題関心のもと、本発表では、ヨーロッパでもっともはやく録音資料のアーカイブ化がはじめた国の一つであるハンガリーの事例に注目する。最初に同国における録音資料の収集の歴史を概観した上で、1970年代以降のダンスハウス運動において録音・録画資料が果たした役割について考察したい。この運動は都市部の若者達によるもので、農村の伝統舞踊を学習することを主な内容とするものだった。詳細については横井の先行研究が詳しい(横井雅子『伝統芸能復興(フォーク・リヴァイヴァル)―ハンガリーのダンスハウス運動』(アートアンドクラフツ、2005年))。本発表では収集する側と活用する側の証言をもとに録音メディアが果たした役割を明らかにし、長い時間をかけて蓄積されてきた「文化資源」が新しい文脈においてどのように解釈され、価値付けられていったのかを明らかにしたい。


伊藤純(早稲田大学人間総合研究センター招聘研究員)
「地域のために」のパラドックス―被災した民俗芸能の自立と自律―

 東日本大震災からの復興のなかで、民俗芸能の活動がこれまでにないほどに新聞紙面を大きく飾り、社会的な注目を集めている。その理由として地域共同体の危機と連動して後継者不足という震災以前からの課題が前景化したこと、「こころの復興」あるいは復興のシンボルという言葉が示すように文化的紐帯として機能したこと、既存の伝承地域以外の人々を受け入れた広域的な文化継承が展開したことが挙げられるだろう。さらに、復興イベントや観光イベントへの出演など、今後ますます期待される民俗芸能の資源的利用は、「地域のために」にという理念とは裏腹に、被災した民俗芸能の伝承の自律性を大きく左右すると画期となると予測される。
 報告者がフィールドとしてきた三宅島は2000年に、雄島の噴火によっておよそ5年間の全島避難を余儀なくされ、今年で帰島10周年を迎えた。被災と復興の混乱のなかでにわかに顕在化する文化資源化と、被災から15年経てみえてきた課題は、東北の被災地とで共有できるところも多いだろう。
 三宅島では、可変的な地域概念のズレによって自文化をめぐる衝突がたびたび起きている。そこで、被災地の事例と比較する事例として「神着木遣太鼓」を取り上げたい。三宅島の芸能というと佐渡を拠点とし世界に活動を広げる太鼓集団・鼓童の「三宅」という曲目を想起する人も多いが、単純化すれば、三宅島の祭で叩かれている「太鼓」を素材として、鼓童が舞台芸術化して創出されたものが「三宅」という演目といえる。祭の構成要素の一つにすぎなかった「太鼓」とその技術は、島内では文化財指定を機に命名された「神着木遣太鼓」として定着し、島外では「三宅」として人々の手に広がっている。こうした文化資源化の過程を下地にし、さらに噴火による混乱期を迎えて、さまざまな位相の芸能のネットワークが構築され、避難解除以後の祭に参入し、祭の構造に対しても大きな変化を与えている。本報告では、我彼の関わりのなかで生じた舞台化への抵抗感、保存会の結成、技術の巧拙、噴火以後に行われた地域社会への新たな芸能のネットワークの受け入れ、祭での振る舞い、人口流出など当事者が当たり前に抱える課題への葛藤と克服のなかから、文化資源化の過程にみられるパラドックスおよび祭と民俗芸能の自律性に注目して考察する。


【傍聴記】(渡辺 裕)

 「音楽と文化資源」というシンポジウムである。このところ、「文化資源」という言葉が使われる機会がとみに増え、勤務する大学で「文化資源学」を名乗る専攻に籍を置く、もろに「利害関係者」たる筆者としては、喜ぶべきことであるはずなのだが、正直のところ、「文化資源」をテーマに掲げた企画を成功させるのはなかなか難しい。この言葉がきわめて多様な使われ方をしているため、同じ語を使っていても、人によってイメージも思惑も相当に違っていることが多く、問題の焦点を絞ることが難しいのである。たしかに、「文化資源」という語で誰もが共有できるのは、文化事象を広く取り上げ、その伝承、保存や活用といった問題系を扱う、といったことくらいのものである。たしかに共通の心性のようなものがありはするのだが、対象や方法のレベルでひとつに括るのが難しく、また言語化しにくいので、「何でもあり」の学問ように思われてしまうことも少なくない。
 前置きが長くなったが、そのようなわけで、今回のシンポジウムも、怖いもの見たさ半分のようなつもりで臨むことになった。案の定、対象も方法も問題意識もかなり違ったいろいろな発表の寄せ集めという感じがないわけでもない。どれも「文化資源」という概念の重要なポイントに触れてはいるのだが、そのポイントが微妙に違い、相互がどうつながっているのかをなかなか見極めにくい憾みがある。最初の発表者の奥中康人氏は、浜松の音楽文化を題材に、「文化資源」という概念を使うことで、ラッパ文化という、従来の「芸術」の枠組みでは掬い取ることのできなかった存在に目を向けることが可能になり、そのことが、「ピアノの街」的な一面的なイメージ捉え直してゆくことにつながることを主張した。このシンポジウムのコーディネーターでもあった太田峰夫氏は、文化資源としての録音・録画資料の保存や活用という切り口から、1970年代ハンガリーで盛んになったダンスハウス運動を取り上げ、全く異なるコンテクストで収集・保存されていた民謡や民俗舞踊の録音・録画資料が、収集の意図とは違った形で「活用」され、別の意味を帯びていった過程を明らかにした。また、シンポジウムに先立って行われたゲスト、阿部武司氏の講演では、東日本大震災以後、東北各地で氏が収集した、被災地で様々な民俗芸能が復活してゆくさまを記録した貴重な映像を見せていただくことができ、これらの芸能が人々の生活と関わりながら維持され伝承されてゆく過程をあらためて考えさせられたが、同時に阿部氏のような個人によって蓄積されてきたこれらの厖大な映像資料を、今後アーカイヴとしてどのように整理・保存し、活用してゆくかという重い課題をも認識させられることとなった。これもまた、文化資源学にとっての「応用問題」とでも言うべきものであろう。その意味で、どの発表も「文化資源」にかかわる尖鋭的な問題提起を含むものなのだが、時間の不足もあり、それらを擦り合わせて共通した問題を引き出し、議論を深めてゆくまでにはいたらなかったのは少々残念であった。
 そういう中で、特に筆者の目を引いたのは、最後に発表された、伊藤純氏(ゲスト、芸能史/民俗学)の研究であった。伊藤氏の研究はテンノウサマと呼ばれる三宅島の祭りで叩かれる太鼓を対象とするもので、その意味では音楽学の範疇に入れてもよいようなものだが、これまでの音楽学にはあまりみられなかったような視点や問題設定の広がりをもっていた。特筆すべきなのは、本来祭りで叩かれるものであったこの太鼓が文化財指定され、保存会が結成される中で、祭りとは切り離された自律的な意味をもちはじめ、保存会に属するメンバーが一人で二重のコードを使い分けるような状況が生じたり、鼓童という島外の太鼓グループに「発見」され、国立劇場などで全国的に紹介されるようになる中で、さらにまた別の「外向き」のロジックが作り出されていったり、さらには噴火による5年間の全島避難をきっかけに、離散した地元民がこうした島外のネットワークに乗る形で、それをさらに強化するような形での新たな展開が生じたり、といった、きわめて複線的・重層的な動きが丹念にフォローされていたことである。そして、それぞれの局面での動きについて、誰がどのような位置から、何を、何のために「資源化」し、どのように利用しているか、という観点から分析し、異なった価値観をもった複数の主体がたえず衝突したり接合したりしながら状況を動かしてゆくさまが鮮やかに描き出されていたことに大変感銘を受けた。物事の「価値」はすべて、誰かが何らかの立場から価値づける行為と相関的に生じるという考え方こそは、「文化資源」という概念の内包する最も重要なポイントであり、その意味で「文化資源」の考え方を音楽研究に適用する絶好のモデルを提供してくれたとも言えるが、考えてみればこれは何も「文化資源」などということをふりかざすまでもなく、音楽の「価値」をめぐるきわめてまっとうな研究にほかならない。あえて「資源化」という言い方をすることで、ともすると背景に退きがちな、価値づける主体や行為への注意を喚起するというくらいの意味はあるにせよ、重要なことはあくまでもそこでの考察の具体的な内実であり、「文化資源」という概念自体について鬼の首をとったように議論してもはじまるまい。「芸術」や「音楽」を「文化資源」と呼びかえただけで何かが始まるわけではないという、ごく当たり前のことを、あらためて認識させられたという次第である。
 それにしても、これだけ意欲的なシンポジウムなのに、純粋な観客よりも関係者の方が多いのではあるまいかと思わせるような状況になっていたことは大変残念であった。支部活動の枠組み、関連諸学との連携態勢など、せっかくの意欲的な内容ができるだけ多くの方々に共有されるようにしてゆくために、考えるべきことがいろいろあることを実感させられた例会でもあった。


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