東日本支部通信 第24号(2014年度 第3号)

2014.7.3. 公開

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東日本支部 第24回定例研究会

日時:2014年7月26日(土)午後2時〜5時
場所:北海道教育大学函館校 6号館 多目的ホール
司会:三澤 寿喜(北海道教育大学)

〈ラウンドテーブル〉
   「函館出土の縄文楽器〜土笛と石笛(いわぶえ)〜の紹介と実演:1万年もの間、闘いの跡を残していない縄文の響きから、現代の音楽家が気づくこと」
発表者:
   徳永 ふさ子(声楽家、縄文音楽を考える会、函館の音楽と歴史を考える会、函館メサイア教育コンサート実行委員会各音楽監督、元北海道教育大学函館校非常勤講師)
   野村 祐一(函館市教育委員会学芸員)
   阿部 千春(函館市縄文文化交流センター館長)
   森中 秀樹(石笛奏者、北海道根室振興局職員)
   縄文音楽を考える会


【ラウンドテーブル主旨】(コーディネーター:徳永ふさ子)

 函館は日本における西洋音楽の受容において重要な意味をもつばかりでなく、近年では縄文音楽の点からも注目され始めている。
 本ラウンドテーブルではまず、現代における「縄文」の意味を問い直し、次いで、函館出土の貴重な縄文楽器、石笛(いわぶえ)を函館市立博物館から借り出し、実演とともに紹介する。さらに、楽器の構造や縄文人の骨格などから推測される縄文の音や声、音階を用いた「オリジナルの縄文音楽」を紹介する。
 全体は[プロローグ]を含む3部構成である。

【プロローグ】函館の音楽遺産
函館には音楽的な遺産が3つある。
 @「ペリーがもたらした音楽」
1854年(安政5年)、函館港に来航した黒船は迫力ある吹奏楽で日本人を圧倒し、あるいは、愉快な歌や美しいメロディーで人々の心を魅了した。函館で行われた船員のための葬儀では、当時の海軍公式葬送曲だったヘンデルのオラトリオ《サウル》の中の「デッドマーチ」が演奏された。その音を耳にした町中の人々は初めて聞く西洋の響きに好奇心を隠さず、葬列について行った。また毎週日曜日、天候さえ許せば艦上礼拝が行われ、賛美歌も歌われた。このように日本人に対してだけでなく、船員の心の喜びや安定のためにも盛んな音楽活動が行われた。函館には日本でいち早くそれらが響いたばかりか、その後の日本で広く愛好されることになるフォスターの作品や、吹奏楽曲もこの時に伝えられた。今年は「ペリー函館来航160周年」にあたる。
A「混声合唱発祥の地、西洋音楽さきがけの地」
1858年(安政5年)、日本で初めてロシア領事館が置かれた実行寺境内には、ロシア正教の仮聖堂が建てられ、そこで日本最初の混声による聖歌が歌われた。修道司祭の聖ニコライは聖歌指導を大変重んじ、本国から一流の音楽家を呼んで指導者にした。文部省が音楽取調掛を1879年(明治12年)に設置する前から、函館では本格的な音楽(音感)教育が始められていたのである。それは1873年(明治6年)のことであった。これが、函館が混声合唱発祥の地、西洋音楽さきがけの地と言われるゆえんである。今年は「初代ロシア領事ゴシュケヴィチ生誕200年」でもある。
B「縄文遺跡から発掘された音を出す道具=楽器」
函館市垣の島遺跡(縄文後期・約3000年前)からは鳥型土製品【土笛】、上磯からは土鈴などの楽器類が出土し、これにより縄文時代の人々がすでに音楽的活動をしていたことが明らかとなった。縄文時代の楽器とは土鈴、琴、土笛、石笛、太鼓などである。たとえば、初期の土鈴には鈴穴がなかったし、琴には共鳴箱がないなど、楽器の構造からみて、その音は小さく、微かだったと想像される。土笛はリズム楽器だったと考えられているが、素朴な音だけでなく高周波が出る楽器もある。石笛は穴のあいた石で、人間の聴覚では聞こえない高周波が中心で、アルファー波を引き出すと言われる。石笛は、現代では神道で、祈りの前に吹かれることがある。


【第一部】函館出土の石笛の紹介と実演

 1「世界のなかでの縄文の位置づけ 縄文からJOMONへ」
       函館市縄文文化交流センター館長 阿部千春
 2「市立函館博物館所蔵の二つの石笛」        函館市教育委員会学芸員 野村祐一
 3「市立函館博物館所蔵の二つの石笛」の演奏            石笛奏者 森中秀樹

【第二部】縄文楽器体験と「オリジナル縄文作品」の紹介
 1 参加者の縄文楽器体験(石笛、土笛、太鼓など)
 
 2 縄文時代の響きについて(映像付き)              声楽家 徳永ふさ子
  1)発掘された楽器から想像される音
   例えば、垣の島遺跡の土笛は素朴な音ながら、鋭い息で吹くと多くの倍音が響く。ある程
  度の音程のコントロールも可能で、メロディーを吹くことも可能である。土鈴はレプリカを
  作成して実験したところ、微細な乾いた音が出ることが判明した。

  2)縄文人の骨格から想像される声
・身長が低めなので、基本的に高めの声であった。
・筋肉質な体からは密度の高い強い声であった。
・目は大きく、頬骨は高く、彫りの深い縄文人は輝かしい声であった。
・歯が上下合わさっていたので、顎が前に出るため、喉の奥の空間が広く、息はまっすぐ頭蓋骨に到達するので、音域は広く、よく響く通る声であった。
・顎の筋力も強かったので、顎がしっかりと固定され、真っ直ぐな声であった。

  3)音楽の進化と共に得られる音の「重なり」や「連なり」
   縄文時代の音素材は祭り事などとして歌った時には実際にどのような音の「重なり」
  や「連なり」を持っていたのであろうか。
   縄文の文化を多く引き継いでいると言われるアイヌの旋律は基本的には無半音の五音音
  階である(『ニューグローヴ世界音楽大事典』「日本」)。
   笛は倍音で音を発展させる。竹や葦を切って道具を作る作業中には、短い竹から高い音
  が、長い竹から低い音がでることを経験によって知っていったものと推測される。さらに、
  竹を半分の長さや、三分一の長さにすることを思いつけば「ドレファソラ」や「ドレミソラ」
  の無半音の音階が誕生する。

 3 縄文を現代につなぐ音楽的試み                   
   「推測される縄文音階」を用いた委嘱作品を紹介する。

   1)作道幸枝作曲「ニセンピリ(木陰)」〜石笛・土笛・同声2部合唱とピアノによる〜
   2)作道幸枝作曲「縄文三曲」全曲
      タウベのさえずり  縄文大鼓、土笛、と声による
      縄文の海      石笛と独唱とピアノ
      わたりひびけ祈り   土笛と合唱とピアノによる
   3)即興演奏       縄文楽器と合唱群による

      指揮・独唱:徳永ふさ子
      合唱・縄文楽器:縄文音楽を考える会
      石笛:森中秀樹   
      ピアノ:作道幸枝  
      映像:小川進


【傍聴記】(笹森建英)

 徳永ふさ子氏による「函館出土の縄文楽器〜土笛と石笛(いわぶえ)〜の紹介と実演」は三澤寿喜氏(北海道教育大学函館校教授)が企画し、徳永氏にコーディネートを委任した発表であった。徳永氏(声楽家、合唱団主宰)は学会員ではないが、かつての函館校の非常勤講師であり、縄文の石笛・土笛の研究をされている。
 以下、発表の順序に従って記す。演題とは直接に関連しないのだが、黒船が函館に寄港した際の、船員の埋葬に奏された音楽、葬送の行進の写真、軍楽隊の整列写真がパワーポイントで示された。過去に同じ会場で、葬送時の音楽、ミンストレル・ショーの再現がおこなわれているので、新しい発見・研究・紹介ではないにしても、現在の会員への再確認になっただろう。ロシア領事館が安政5(1858)年に函館に置かれ、ロシア正教の仮聖堂で日本最初の混声聖歌が歌われた。函館が「混声合唱の発祥の地、西洋音楽さきがけの地」でと言われるゆえんであると述べた。これらの情報は、紹介された『函館開港と音楽』(函館メサイア教育コンサート実行委員会 2010年)にまとめられている。続けて、縄文期に出土した楽器についての概説が述べられた。
 ゲストの阿部千春氏(函館市縄文文化交流センター館長)が「世界のなかでの縄文の位地づけ 縄文からJOMONへ」と題されて、縄文時代の概説、文化の特質として「文字文化と口承文化の違い、アニミズム」について述べられた。次いで野村裕一氏(函館市教育委員会学芸員)が「市立函館博物館所蔵の二つの石笛」の演題のもと、石に穴があくメカニズムに3種類あることを説明し、日高地方出土の二種の石笛が紹介された。それを受けて、森中秀樹氏がこの二種の石笛を吹奏した。この石笛は津軽の郷土史家竹内運平が著書『北海道史要』(1933)で報告し、田辺尚雄が『日本音楽史』(1967)で考察しているものである。火山岩のものは(資料番号1457)田辺によると、「天然石が自然に孔を生じたもの、考案された楽器でない」のである。実際に吹奏を試みても音が出にくい。しかし、森中氏はかすかであったが音を出されたので、楽器であった可能性をあながち否定できないだろう。
 質疑応答では、東日本支部の会員(松尾梨沙氏)から、縄文人と弥生人の差異についての説明を求め、他に「北海道と青森の縄文文化を、世界遺産とすべく申請しているとの説明があったが、他の地域にも縄文文化があるのに、なぜか」との質問があった。「縄文文化を特色によって8つのブロックに分ける事ができ,津軽海峡をまたぐブロックとしたのである」との回答があった。
 企画の第二部では、まず、陳列された楽器を、参会者が手に取り観察し、吹奏も試みた。演題を「函館出土の」と銘打って20余個のレプリカが展示されたが、函館のものは2000年発掘の「垣ノ島遺跡出土の土笛」のみであった。この土笛は、過去に報告された種々の土笛には見られない、2孔の形状の特質と全体の形体に特色がある。ただし奏法、音色などは他の土笛と類似する。
 北海道、忍路出土コトのレプリカも展示されていた。それに関連して笹森建英(傍聴記執筆者)が青森県の是川コトのレプリカの演奏を試みた。是川のコトは、1975年に岸辺成雄教授と共同で学会発表し、後に類似のコトが北海道、滋賀県で発掘されているものの、未だ楽器否定説がある事を述べた。
 次いで、徳永氏より、縄文人の声は「地声の声域が広く、よく響き通る声だった」との説が述べられた。これは縄文人と弥生人の骨格の比較による、顎、喉の特質からの推論だった。音階成立の根拠を示す意図であったのだろうか、千賀慎一氏(元高校教諭)の「閉管による音階の作り方」が説明された。
 最後に、合唱と独唱が演奏された。「縄文を現代につなぐ音楽的試み」が趣意であり、作道幸枝氏の作曲が取り上げられた。無半音5音階による歌の旋律に対して、ピアノ、土笛,壺に膜を張った太鼓、鈴が用いられた。ペンタトニックが使用された根拠は、「縄文文化を引き継いだアイヌ旋律の基本がそれである」との理由であった。
 過去の音楽文化を未来に発展させる実践も学会の一つの使命かもしれない。当学会をサポートする会員の多くが演奏家であるので、今回のような演奏を加えるのは、有意義であろう。演奏者は以下の方々であった。指揮・独唱:徳永ふさ子氏、石笛:森中秀樹氏、ピアノ:作道幸枝氏、合唱:縄文楽器・縄文音楽を考える会の有志。地域の音楽に対する誇りをもって心を込めて演奏されていた。
 関東地方からの参加者を含めて約40名の出席者であった。


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