東日本支部通信 第23号(2014年度 第2号)

2014.6.2. 公開 2014.7.18.傍聴記掲載

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東日本支部 第23回定例研究会

日時:2014年6月14日(土)午後2時〜4時半
場所:青山学院大学 青山キャンパス 7号館2階720教室
司会:那須 輝彦(青山学院大学)

〈修士論文発表〉
1.R.シューマン《リーダークライス》(作品39)における作曲技法
     ―第1曲〈異郷にてIn der Fremde〉を例に―
    熄シ 佑介(慶応義塾大学大学院)

2.J.ダウランド訳『オルニトパルクス ミクロログス』(1609)について
    高久 桂(青山学院大学大学院)

3.劇中劇としてのオペラ
    ―R.シュトラウスの《ナクソス島のアリアドネ》を中心に―
    大矢 未来(東京藝術大学大学院) 発表キャンセルとなりました

4.J.S.バッハの「順列」フーガ再考
    村田 圭代(東京藝術大学大学院)


〈修士論文発表〉

1.R.シューマン《リーダークライス》(作品39)における作曲技法
――第1曲〈異郷にてIn der Fremde〉を例に

熄シ佑介(慶応義塾大学大学院)

【発表要旨】

 修士論文では、R.シューマン(Robert Schumann, 1810〜1856)による連作歌曲集《リーダークライスLiederkreis》(作品39)を分析することで、個別作品や曲集全体における作曲技法上の特徴を明らかにし、ビーダーマイヤー時代における側面も指摘した。本発表では、その中から対象を第1曲〈異郷にてIn der Fremde〉に絞り、3点の作曲技法(リズム、形式、詩の内容表現)について考察を行う。
 詩の音節と旋律のリズムの関係は、詩の強音節が音楽の強拍か拍頭に置かれているため、定型といえる。しかし旋律のリズム・パターンは基本的に、付点四分音符+八分音符(リズムa)、四分音符+八分音符+八分音符(リズムb)、四分音符+四分音符(リズムc)という3種類に限定されている。原詩では強音節の後に1ないし2つの弱音節が置かれており、詩の韻律がダクテュロスの場合はリズムb、トロカイオスの場合、行末から次の行頭にかけてはリズムc、それ以外にはリズムaが一貫して充てられている。これらの規則性は音楽の自律性を高めている上、論理的に旋律構成が行われたことも示している。
 形式について、先行研究では共通の見解が定まっていない。だが、調性は異なるものの冒頭の旋律が回帰する「両端部の類似」(草稿譜の段階では主調に回帰)、中間の部分のみ長調に転じ、歌唱声部では声域が拡大して跳躍音形が取られ、ピアノ声部では低声が長音化して高声部に対旋律が置かれる「中間部の差異」から、三部形式の傾向をみるのが妥当だろう。
 むしろ問題は形式の特定ではなく、詩に対する楽曲構造にある。原詩は単一詩節8行から成るが、形式やシンタックスから明らかに4行×2詩節(T・U)が想定されている。音楽は、詩の前半(T)では1行に2小節を充てる規則的な構造(A)を取るのに対し、後半(U)では詩を反復・拡大することで中間部(B)と再現部(A’)を形成する。通例は、第2詩節にも規則的な構造を充てた後、第1詩節を回帰させて三部形式を作ることが多いが、詩の内容が前後半に進展をもつために避けられたと考えられる。だが、通作歌曲形式が選択されなかった点から、反復を有する形式が求められたといえるだろう。この傾向は曲集全体に認められ、複雑で転調を伴う通作形式ではなく親しみやすい三部形式や有節形式を用いることで、同時代に音楽需要層となった市民層へ配慮したと考えられる。
 詩の内容の音楽表現は、音楽の形式を優先した上でなされている。詩に「安らぐだろう」とある中間部では長調に転じるが、主音上の主和音に安定しない。これは、「安らぐ」という詩の音楽表現より、中間部での音楽的な発展や緊張を優先した結果と考えられる。しかし、再現部においてナポリの和音やピカルディーの三度を取ることで、「死」や「浄化」という詩の内容も表現されている。
 このように本作品では、自律的な音楽作品を作り出した上で、同時に詩の内容も表現されていると結論付けられる。  


【傍聴記】(伊藤 綾)

 熄シ氏は修士論文においてR.シューマンの《リーダークライス》(作品39)を「詩と音楽の関係」と「純粋な音楽分析」の大きくふたつの視点から研究することにより、この歌曲集における作曲技法を明らかにすることを試みた。先行研究の多くが「詩と音楽の関係」の考察に比重を置いているのに対し、歌詞と切り離した純粋な音楽的特徴の考察にも重きを置いたのがこの研究の特徴と言えよう。
 本発表においては、第1曲〈異郷にて〉を具体例として「純粋な音楽分析」の方法論を紹介したうえで、歌曲集全体にみられる三部形式または有節形式、狭い声域設定、簡易な調性への移調版の存在と、市民層への家庭音楽の普及との関連性にも注目し、楽曲構造の決定に当時のビーダーマイヤー的傾向が少なからず影響を及ぼしていると結論づけた。
 質疑応答のうち、「音楽の自立性」を「詩と音楽の関係」を上回る視点として考えることの意義について(池上氏)は、発表者はふたつの視点を相反するものとは考えておらず、また「自立性」という言葉を楽曲の価値判断と結びつけることも意図していない。シューマンの器楽曲の反復原理と歌曲におけるそれを比較した場合の特徴について(藤本氏)は、発表者の今後の課題として考察を深めていく予定である。和声法の特徴に関する言及が少なかった(江端氏、那須氏)点に関しては、今後の例会等であらためて発表されることが期待されよう。


2.J.ダウランド訳『オルニトパルクス ミクロログス』(1609)について

高久 桂(青山学院大学大学院)

【発表要旨】

 修士論文においては、最初1517年にドイツにおいてオルニトパルクスの手によってラテン語で出版され、1609年にイングランドにおいてダウランドによって英語へと翻訳出版された音楽理論書『ミクロログス』第1巻の検討を行った。論文では著作の目次順に取り扱ったが、本発表においては1.オルニトパルクスによる原著、2.ダウランドによる翻訳出版の動機、3.訳にみるダウランドの理解と解釈、の3点に焦点をあて主題別にみてゆく予定である。
 エラスムスの弟子、オルニトパルクスはドイツの人文主義者であり、『ミクロログス』以外にもラテン語に関する著作をものした。『ミクロログス』原著は大学で講ぜられた教科書であり、16世紀中に8版を数えるなど広く読まれたものである。『ミクロログス』は「単旋聖歌における諸主題」と題された第1巻、「計量音楽の基礎」と題された第2巻、「教会における抑揚」と題された第3巻、「対位法の原理」と題された第4巻からなり、音楽の思弁的側面にも触れつつ実践にも重きを置いた内容となっている。そのそれぞれが主題別に章立てられており、ものごとの定義、分類から個別のものごとへと進むという論理的な構成になっている。本文では古代からルネサンスまでの著述家が広く引用されまとめられているが、そこには誤りや独自の意味が付与されているものも含まれ、本書を独自の特色あるものとしている。
 ダウランドが原著の初版から90余年を経て英訳を刊行した理由についてこれまでのところ明確な説明はなされていない。しかしダウランドが他の曲集の序文において書いたことを見た上で『ミクロログス』の訳業を精査してみると、ダウランドが音楽家にとってその実践のみならず、理解をもが重要であると考えていたことがわかる。そのゆえにこそ、実践をも思索をも欠かない者こそが真の音楽家であるとした本著にその橋渡しとしての意義を感じ、翻訳出版に至ったと考えられる。
 ダウランドの訳業は基本的に逐語的といってよいほどにラテン語原著に忠実である。そのことから、時に見られる訳抜けや、同一の原語が複数の訳語に訳し分けられたり、複数の原語が同一の訳語によって表現される際などには、ダウランドによる解釈や原著の理解の程度をうかがうこともできる。その中には工夫のあとが見られるものもあれば、ラテン語の音楽用語の混乱をそのまま引き継いでいるもの、原著出版からの時の経過からくるダウランドの無理解があらわれているものもある。また、訳書には致命的ともいえる図版の誤りも含まれ、必ずしも原著の意図が達せられているとはいえない部分もみられた。
 以上のように、『ミクロログス』の検討によって原著の意義やダウランドによるその理解、当時の音楽を取り巻く状況についてあらためて浮き彫りにすることができた。さらに第2巻以降の内容や同時代の他の著述家との比較も含めて今後の課題としたい 。


【傍聴記】(吉川 文)

 高久桂氏による修論発表では、1517年にドイツで出版されたオルニトパルクスのラテン語原著での引用の問題や、イングランドでの原著の評価を踏まえた上で、ダウランドが翻訳を行った動機と、彼がその内容をどのように理解し解釈したのかという点が扱われた。思索と実践双方を欠かさない者を真の音楽家とするオルニトパルクスの言は、実践と理論を共に重視するダウランドの見方と呼応し、高久氏はここに翻訳の動機を見る。具体的な理論書での記述を第1巻から取り上げるにあたり、実践とも深く関わるヘクサコルドやムタツィオなどについて原著での扱いを精査し、ダウランドが原著をどのように解釈したのか、さらにどのような誤解が見て取れるか論じられた。その中で、voice (vox) の語の解釈や修辞学との関わりの問題、modulatio(調律・調和・歌唱)の理解など興味深い指摘がいくつもあった。内容豊富なだけに限られた時間の中では語り尽くせなかった部分も見られたのは惜しまれるところである。
 質疑では、ダウランドの翻訳についての先行研究の確認や原著の受容状況についての補足、翻訳での図版の誤りとその定本との関係について指摘があった他、翻訳の動機と時期の問題、修辞学との関係、modulatioの問題について確認された。ダウランドの原著理解には、当時の音楽実践の依って立つ基礎的部分の一端を透かし見ることも可能だろう。今回扱われなかった第2巻以降の扱いを含め、今後の研究の展開に大いに期待したい。


3. 劇中劇としてのオペラ ―R.シュトラウス《ナクソス島のアリアドネ》を中心に― 発表キャンセルとなりました

大矢未来(東京藝術大学大学院)

【発表要旨】

 本発表の目的は、リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864-1949)作曲、フーゴー・フォン・ホフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal, 1874-1929)台本による《ナクソス島のアリアドネ Ariadne auf Naxos》(op.60) 初稿版の意義を再考することにある。
 この作品は、1912年10月26日シュトゥットガルト宮廷歌劇場小劇場にて《ナクソス島のアリアドネ モリエール〈町人貴族〉の幕後劇》(以降、《アリアドネT》)として初演された。モリエールのコメディ・バレ《町人貴族》の幕後劇として、オペラ・セリア〈ナクソス島のアリアドネ〉を入れ、さらに〈アリアドネ〉の中に、コメディア・デラルテの人物を登場させるというものであった。〈町人貴族〉という演劇に〈アリアドネ〉というオペラを劇中劇として組み合わせることは、これまでにない実験的な試みであった。しかし、この試みは当時の観客の理解を得られず、失敗に終わってしまったため、二人の作者は、オペラ〈アリアドネ〉をレパートリーに残すために、改訂を余儀なくされた。それが、1916年10月4日にウィーン宮廷歌劇場で初演された改訂版《ナクソス島のアリアドネ 序幕付の一幕オペラ》(以降、《アリアドネU》)である。この改訂があったからこそ、《アリアドネ》は今日もレパートリーとして上演され続けているわけだが、《アリアドネT》にあった劇中劇の枠組みをはじめとする独自の要素は失われてしまった。
 本発表では、特にオペラ〈アリアドネ〉に焦点を当て《アリアドネT》と《アリアドネU》の比較検討を行い、《アリアドネI》の劇中劇としての特徴を明らかにする。この作品の創作は、二人の作者が1911年《ばらの騎士》初演において、演出家マックス・ラインハルト(Max Reinhardt, 1873-1943)に感謝の念を抱き、次なる作品を献呈しようと考えたところに始まる。これまで、ホフマンスタールとシュトラウスの共同作業は、詩人と作曲家、文学と音楽を中心として論じられてきた。しかし、この作品の成立から上演、そして《アリアドネU》へと至る経緯をたどっていくと、演出の果たした役割は決して小さなものではない。20世紀初頭は、演出家の創造力が認知されてきた時代である一方、オペラ界ではまだ新作が発表され続けていた時代であった。《アリアドネT》は、こうした時代の狭間、演劇とオペラの狭間で生まれた、独自の作品なのである。中でもオペラ〈アリアドネ〉では、演出が契機となり、劇中劇という枠組みが最も強調され、舞台と客席が一体となるような演劇空間が作り出されているのである。


4.J. S. バッハの「順列」フーガ再考

村田圭代 (東京藝術大学大学院)

【発表要旨】

 本発表は、発表者による修士論文「J. S. バッハの初期フーガ創作再考――18世紀初頭のフーガ作曲を巡る理論と実践に基づいて」を、分析部分を核に再構成したものである。発表目的の第一は、バロック期における、厳密な理論に基づく転回対位法によるフーガ創作と、即興によるフーガ演奏の「特徴」の解明、第二は後者の視点を加えた J. S. バッハの初期フーガ再考である。1708 年以前に創作されたフーガを対象とした分析を通じ、初期フーガにおける通奏低音の重要性を指摘するとともに「順列」フーガ概念の再考を行う。
 作曲技術の真骨頂としてのフーガが18世紀半ば、バッハの後期フーガを範例としてノルム化された事は論を俟たないが、今や順列フーガを筆頭にバッハの初期フーガさえもが「学術的対位法」の延長線上に位置付けられている。北独の厳格な転回対位法に基づくフーガと、バッハの「順列」フーガとの共通点を指摘したウォーカーの論(1992)は恐らく、C. P. E. バッハによって構築された「独学によるフーガの大家」像を裏付けるものと見做されたがゆえに一度も問いに付される事がなく、以後バッハの初期フーガ考察に「順列」というキーワードは不可欠となっている。
 しかし1708年以前におけるバッハの、北独の順列フーガとの接触の詳細が不明瞭なままに止まっている一方、バッハは青少年期に確実にオルガニストとしての訓練を受けていた。オルガニストの採用試験にも含まれていた「即興でのフーガ演奏」という実践は、我々がその実態を知る事の困難さゆえ、初期フーガ考察に際し考慮に入れられて来なかったが、発表者はJ. S. バッハの名で伝承される「ラングロッツ写本」を手掛かりにその一端を探る事を試みた。また理論書や二次文献の精査によって、厳格な転回対位法に基づくフーガ創作が非常に「特別な」行為であった一方、即興でのフーガ演奏はオルガニストの「基礎的」訓練の延長線上に位置付けられ得る事を、修士論文において指摘した。
 発表では「固定対位句の創作方法」、「主題の繰り返しの中での変化のつけられ方」という二点に一貫して着目した分析を通して、以下を指摘する。厳格な転回対位法に基づくフーガ創作においては、五度や掛留音の使用を避け徹底的に彫琢された固定対位句はその形を決して変える事がなく、フーガはそれらの多様な組み合わせによって形作られる。一方即興でのフーガ演奏においては、五度や掛留音を自由に用いて創作された固定対位句はその形を厳格に留めず、むしろその自由な変容によってフーガが紡がれる。併せて後者については主題を低音として捉えていたとの仮説を立て、即興でのフーガ演奏が通奏低音的発想において行われていた事を裏付ける。この仮説に基づくならば、バッハの初期オルガン・フーガ考察に際ししばしば指摘される「北独の順列的」な入りはむしろ、即興で演奏されるフーガの入りと一致する。
 バッハの初期フーガ分析を通じて、五度や掛留音の使用により「順列」組合せの一部が制限されている点、固定対位句や通奏低音声部の変化によってこそ楽曲にゆたかな響きがもたらされている点を確認し、バッハの初期フーガがオルガニストの演奏実践に強く依拠しながら創作されていた可能性を指摘する。


【傍聴記】(安田和信)

 村田氏の発表はバロック時代の厳密な理論による転回対位法のフーガと、即興演奏のフーガに焦点を宛て、特に後者に基づく J. S. バッハの初期フーガ(1708年以前の成立と推測されるもの)を再考するという主旨で、これらにおける通奏低音の重要性と「順列」フーガ概念の厳密化を促すもの。バッハがオルガン演奏の訓練として即興演奏のフーガを実践していたのは確実だが、初期フーガと北独の順列フーガとの関連性とともに実態を知ることは難しく、これまでこの視点はあまり考慮されてこなかった。発表ではその解明にあたり「固定対位句の創作方法」と「主題の繰り返しの中での変化のつけ方」を主たる分析対象とし、厳格な転回対位法のフーガでは徹底的に彫琢された固定対位句が変形されずに、その多様な組み合わせで構成されること、他方で即興演奏によるフーガでは、固定対位句は原形に拘らず変容に重心が置かれる点が指摘された。さらに、主題を低音として捉えていたという仮説に基づき、即興演奏によるフーガの発想が通奏低音に立脚していた点も強調された。これに基づけば、初期オルガン・フーガに関しよく指摘される「北独の順列的な入り」は即興演奏によるフーガのそれと一致する。声楽とオルガンのフーガを分けずに論じることの是非が質疑応答で提議されたとはいえ、バッハには北独の厳格さでなく固定対位句や通奏低音声部を変容許容する自由があり、その根底に通奏低音に基づくフーガというオルガニストの発想が強い、との結論は説得力があった。


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