東日本支部通信 第21号(2013年度 第7号)

2014.3.2. 公開 2014.4.17. 傍聴記掲載

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東日本支部 第21回定例研究会

日時: 2014年3月22日(土) 午後2時〜5時
場所: 岩手大学 「桐丘荘」1F研修室
司会: 植村 幸生 (東京藝術大学)

<研究発表>
講式の出自をめぐる一考察
   ― 仏教学の視座から ―
  大内 典 (宮城学院女子大学)

<フォーラム>
社会実験としての神楽宿
  中川 真 (大阪市立大学/西日本支部)
  橋本 裕之 (追手門学院大学/民俗学:ゲスト)
  木村 直弘 (岩手大学/コーディネイター)
  鵜鳥神楽保存会


講式の出自をめぐる一考察 ― 仏教学の視座から ―

大内 典 (宮城学院女子大学)

【発表要旨】
 和文仏教声楽の代表格である講式は、平安末から中世にかけて宗派を超えて盛行した。音楽学的には、重構造による音楽様式の特徴やその平曲や謡曲などへの影響が論じられ、他方仏教研究や日本文学、国語学の領域でも、仏教の日本的展開を探る題材として、また日本語の抑揚や発音の変遷を辿る資料として研究が蓄積されてきた。しかし、その出自については、未だ曖昧なままである。当論は、仏教学の成果を踏まえた複領域的なアプローチにより、「講式」の出自を天台僧源信の念仏活動と念仏思想に照らして再考し、それが創案された意味を問うものである。
 講式の成立に関する重要資料に玄雲の『声塵要抄』(1313)がある。この資料は、永観(1033-1111)の『往生講式』を「式の根本」と記すことで注目されてきたが、別の重要な情報を含んでいる。玄雲は、「講式」の二大要件として、段構成による式文と歌詠讃嘆を挙げ、源信の作は前者を欠くと指摘する。これは、「歌詠讃嘆」の要素をもつ現存の『二十五三昧式』は制作当初の形ではないこと、しかし、段形式をとる源信の作は講式の先駆形態ではあると見なされていたことを示す。
 当論は、『二十五三昧式』の原初形態を探る鍵を、源信の高弟、覚超(960-1034)作の『修善講式』にみる。『修善講式』では、三段構成により釈迦、阿弥陀、弥勒の教えが説かれ、全員で唱和する帰依の文がつく。ただしいわゆる歌詠讃嘆の要素はない。源信と覚超との関係を考えれば、『二十五三昧式』の原初形は、『修善講式』と同様の形態だったと考えられる。
 現行の講式の実唱をみると、導師による式文の語りと他の職衆が斉唱する伽陀の掛け合いが、あたかも呼唱答唱形式のように機能して講式特有の表現力を高めることがわかる。このような表現の萌芽がすでに『修善講式』にみられ、その表現効果は、初期段階の講式に求められていた宗教的高揚感を生むのに大いに寄与したであろう。
 では、この構成法の発想はいずれに由来するものか。源信の『往生要集』大文六「別時念仏」に説かれたいわゆる「臨終行儀」だと考えられる。そこでは往生を遂げるための教えが十項で説かれ、それぞれの項は、見送る者が教えを読み上げ、帰依の文の参加者全員による唱和で閉じられる。これは、『修善講式』が示唆する「講式」の原初形態の構成法そのものである。
 「臨終行儀」の段構造と声の交換という構成法は、生身の肉体をもった者の死という現実を踏まえた創意と考えられ、それは、臨終の場で教えを聞き、阿弥陀仏の名を唱えることを娑婆世界の人間に可能な往生の実践法とした源信の念仏理論に支えられている。源信の念仏理論、実践活動には、生身の身体をもって生きる「頑魯の者」を巻き込む多様な工夫がされており、「臨終行儀」の構成法はその創意のひとつだった。その表現としての説得力が、「講式」という新たな音楽様式の萌芽となったと考えられる。


【傍聴記】(近藤静乃)

 研究発表の会場は、後に控えた鵜鳥神楽実演のため、畳敷きの部屋に参加者が肩を寄せ合うように集い、アットホームな雰囲気のなかで行われた。
 本発表では、最古の講式とされる源信作『二十五三昧式』の原初的な形態を、源信高弟の覚超作『修善講式』に見るということで、『続鎌倉仏教の研究』(赤松俊秀1966)所収の翻刻資料を掲げ、段構成や式師と職衆の掛け合い、「歌詠讃歎の要素がない」という特色がその論拠として挙げられた。
 講式は中世に盛んに新作され、数百に及ぶ多種多様なテキストが伝存するが、現行法会で唱えられるものはごく僅かである。大内氏の着目した『修善講式』は、後世に式文の読法・音曲の規範とされた『往生講式』以前に成立した希少な講式であり、平安中期の原初的な形態を知る上で看過できない史料である。しかし、上記の翻刻を具に見ると、覚超自筆の原本は尾部しか伝存せず、前半は冒頭が欠けた鎌倉期の写本に拠る。また、発表で示された「『修善講式』の構成」には、翻刻に含まれている如来唄や四弘誓願等の偈文について言及がないなど、史料の解釈にいくつか疑問が残り、十分な史料批判を経ずに翻刻のみで次第構成や歌詠の有無を判断するのは些か早計のように思われた。
 千年もの時を超えて伝存する多様な講式を、歴史的・地域的広がりを視野に入れて見直すこと、これまで埋もれていた史料に光を当てて丹念に読み解くことの重要性を再認識させられたご発表であった。また今回、源信による往生の理論と実践法を、その思想の根幹となる『往生要集』に立ち返って辿ることができたのは、とかく表面的な儀礼次第や音楽的側面にとらわれがちな報告者にとって大変有意義であった。


フォーラム 社会実験としての神楽宿

  中川 真 (大阪市立大学/西日本支部)
  橋本 裕之 (追手門学院大学/民俗学:ゲスト)
  木村 直弘 (岩手大学/コーディネイター)
  鵜鳥神楽保存会

【フォーラム開催趣旨】
 被災地の復興に向けて音楽に携わる者にいったい何ができるのかという問題は、東日本大地震発生後3年が経とうとしている今でもきわめてアクチュアルであり続けています。これまで、様々な学会で震災に関連したシンポジウムやイヴェントが開催されてきましたが、なぜかこの学会では、これまでそうしたアクションが起こされることはありませんでした。被災地をフィールドとする研究者が震災後被災地に入るのを「自粛」するといったことさえあった状況に鑑みれば、被災地に関係のない研究者に、研究者という肩書きを外した単なるヴォランティア以外のアクションを求めるのは無用のことなのかもしれません。しかし、音楽学が音楽に関する研究分野全てを包摂することを標榜する学問であるならば、それにかかずらう研究者たちも、音楽を不可分な要素として持っている被災地の民俗芸能が現在どのような状況にあるのかを知ることで、「音楽」が生まれる場についての個人的見解を相対化し、更に考察を深化させる一助とすることができるのではないかと考えます。
 四国に近い面積をもつ岩手県は、沖縄県と並んで民俗芸能の宝庫と言われてきました。実際、神楽、虎舞、鹿踊等の民俗芸能は、県内で1000件以上、沿岸部だけをとれば約250件の伝承が確認されています。その「宝庫」が3年前の東日本大震災によって大打撃を受けたのは言を俟たず、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選ばれた黒森神楽(国指定重要無形民俗文化財)と鵜鳥神楽(県指定重要無形民俗文化財)もその例外ではありませんでした。これらは隔年で1月〜3月に陸中沿岸部、北は久慈から南は釜石まで点在する「宿」巡りをする「廻り神楽」として知られています(黒森神楽が「北廻り」の年は、鵜鳥神楽が「南廻り」)。この廻り神楽は、昼間は権現舞による門打ち、夜は「神楽宿」での神楽公演を行うわけですが、「神楽宿」とは、旅館ではなく一般の民家であり、神楽衆を招いたその宿主が地域の住民を集めてもてなし、住民たちや地域全体の幸せを祈願する場です。そしてこの廻り神楽にとって切実な震災の被害とは、メンバーや楽器、衣裳などを失ったことだけでなく、巡業先であるこの多くの「神楽宿」が被災によって失われてしまったということでした。
 こうした事態にあって、本フォーラムのコーディネイターである木村も、震災後の岩手県における地域と学校とが連携した民俗芸能の後継者育成の過程をドキュメンテーションし、伝統文化再生の教育プログラムを提示する研究(科研費・基盤研究(C)課題番号:24531052)に研究分担者として参加し、特に、事例としての鵜鳥神楽とのおつきあいが始まりました。鵜鳥神楽は、岩手県下閉伊郡普代村の卯子酉山に鎮座する鵜鳥神社の獅子頭である「権現様」を奉じる神楽で、鵜鳥神社は、地域では「うねとりさま」と呼ばれ、鎌倉〜南北朝期は山伏修験者の霊場として栄え、現在でも漁業および縁結び・安産の神様として広く陸中沿岸だけでなく内陸でも信仰を集めています。このようにもともとあった広域の信仰圏に、同じく広域の漁業や漁民のネットワークが加わり、漁業で経済的に栄えていた沿岸の船主や庄屋が一種のパトロンとして神楽宿を担っていたのですが、高度経済成長時代を経て沿岸漁業も衰退し、かつての被災時には被災地の支援の柱となっていたこうしたパトロンたちも経済的に「宿」を維持するのが困難になったという時代背景もあります。
 また、鵜鳥神楽の神楽衆(鵜鳥神楽保存会会員)は、現在12人ほどですが、普代村在住者よりも田野畑村在住の方が多くなっています。なぜそのようなことになるかといいますと、この神楽は、沿岸各地のピックアップメンバーによる舞上手・囃子上手の「ドリーム・チーム」であるからです。10年に一人が理想とされるメンバーの世代構成も、現実的には、40〜50代の層が極めて薄く、60〜80代と20〜30代の二極分化しており、素質あるメンバーをいかに確保するか、長老から若手にいかに芸を伝承するかが喫緊の問題となっています。演目としては、清祓、榊葉、岩戸開、斐の川、岩長姫、恵比須舞、勢剣、鬼神笠松山、三番叟、綾遊、天女、松迎い、山の神、小山の神、田中の地蔵等々、さまざまな舞や狂言、呪舞のレパートリーを有し、お囃子の構成も、太鼓、横笛、手平鉦と、基本的に黒森神楽系の山伏神楽と同様です。たとえば、こうした演目自体は、国立劇場で開催されている岩手、宮城、福島各県の民俗芸能に焦点を当てた、東日本大震災復興支援「東北の芸能」公演などでも「鑑賞」することは可能ですが(鵜鳥神楽は、太平洋沿岸部で被災した民俗芸能を紹介する2014年1月25日開催で皇太子同妃両殿下も御臨席だった第4回に出演)、本来は、前述のようなコンテクストをいかにふまえるかが重要であるように思われます。
 そこで、今回のフォーラムでは、こうしたコンテクストの更なる理解のために、震災後一貫して被災地の民俗芸能復興の先頭に立ち続け「道具の支援」「場の支援」「雇用・産業の確保・獲得」に取り組んできた民俗学・演劇学者の橋本裕之氏(追手門学院大学/岩手県文化財保護審議会委員)と、東日本大震災の被災地だけでなく2004年のスマトラ島沖大地震によるインドネシアの被災地の民俗芸能復興支援を現在でも続けている音楽学者・中川真氏(大阪市立大学/西日本支部会員)のお二人をゲスト・スピーカーとしてお招きしました。お二人には、コーディネイターも参加した一種のアクション・リサーチの一環としての、従来行われていなかった場で鵜鳥神楽の神楽宿を催すという「社会実験」やスピンオフ公演の成果について簡単に御報告いただき、さらに、基本的に現地でしか体験できない神楽宿の雰囲気に少しでも触れていただけるよう、鵜鳥神楽保存会による数演目の実演を畳敷きの会場で御覧いただきます。そして、これら報告と実演を受けて、最後に、直接お話をうかがう機会はめったにない神楽衆を交えた文字通り車座の「座談会」として、参加者全員が膝をつきあわせフラットな立場で活発な意見交換を行える場を設定しました。こうした催しは定例研究会に馴染まないと考える支部会員の方もいらっしゃるかもしれませんが、旧東北・北海道支部では、例会でこうしたイヴェントも行われてきましたし、この時期岩手で開催する意味も考えあわせ、敢えて企画させていただいた次第です。多くの方々の御参加をお待ちしております。(コーディネイター:木村直弘)


【傍聴記】(神野知恵)

 今回のフォーラムは「社会実験としての神楽宿」というテーマのもとで、岩手県に伝わる鵜鳥神楽の震災後の歩みとそこから何が学べるかということが話し合われた。被災地の芸能のサポートに積極的に取り組んでこられた橋本裕之氏・中川真氏のゲストスピーチとともに、畳敷きの会場での鵜鳥神楽保存会による神楽の上演、神楽衆を囲んでの座談会が行われるという豪華な内容であった。
 鵜鳥神楽(うのとりかぐら・岩手県指定重要無形民俗文化財)は沿岸の普代村に伝わる神楽で、黒森神楽(国指定重要無形民俗文化財)とともに毎年南・北廻りを交代で巡業する「廻り神楽」として受け継がれてきたが、この度の震災で神楽衆の一員やそれぞれの家などに甚大な被害を受けた。何よりも「廻り神楽」をする際に、神楽衆たちを受け入れて食事・宿泊・上演の場所を提供してきた「神楽宿」の多くが破壊され巡業が困難になったという。一般家庭が生活空間を開放して神楽を上演するという宿の文化は、震災前にも既に公民館での公演に変化しつつあったところへ、さらに震災の被害によりますます困難を来した。
 橋本氏は被災地の民俗芸能のサポートに関し、その道具や太鼓だけではなく、上演の場や機会をサポートすることが必要である、という点から神楽宿の重要性を強調した。元来神楽宿という場は、権現様や神楽衆、そして大勢の村人たちを宿主がもてなすことによって、それに誇りと自信を持つ場でもあり、宗教行為の場でもあり、一方で村人たちが大いに酒を飲みかわしながら談笑する場でもあるという。このように重層的な意味合いを持つ、「芸能の実践の場」としての神楽宿を守ることで、震災によってバラバラになったコミュニティを取り戻すことが出来ると橋本氏は説いた。実際に今年度は震災後初めて廻り神楽が行われて「宿」での神楽も復活し、多くの地域住民たちに喜ばれたと言う。
 また中川氏は震災直後、遠く離れた関西にいる自分に何ができるのかと考えた結果、「芸能の場づくり」という側面から関西の神社などでの鵜鳥神楽の公演を企画し実現させた。これにより関西の人々が初めて岩手の沿岸神楽を見るきっかけとなった。また、単純に手助けをしているという考えを捨て「被災地に学ぶ」という姿勢を持つべきだという点を強調した。鵜鳥神楽の廻り神楽が伝承される地域のように、日常的に祭りのコミュニティがあると災害に強い、という事実に着想を得て、大阪市立大学と地元住吉区民との連携で劇団を作り公演を行うなどのスピンオフ活動を行っているという。
 ゲストスピーチに続いて行われた神楽の公演は、沿岸の芸能の荒々しさ、瑞々しさ、そしてみなぎるパワーを感じさせるものであった。私自身も鵜鳥神楽は初めてであり、しかも今までこのような至近距離で神楽を見ることもなかった。踊る場所の狭さに驚き、よくあのスペースであのようにアクロバティックな演技ができるものだなあと感激した。胴取り(太鼓奏者)と舞い手のやりとりと息づかいが直に伝わり緊張感と迫力があったが、一方で「山の神」が米や飴を撒いた瞬間にふと観客の雰囲気が緩んだり、「恵比寿舞」で鯛を客に掴ませてこれを釣る姿に笑いが起きる様子などからは、神楽の場は神と人々が交わる場であるということが感じられた。
 このような畳敷きの狭い空間で見る神楽は、神社の神楽殿や公民館、ましてやホールなどで見るときよりもはるかに臨場感があり、演者と観客の間での雰囲気の共有度が高いことが実感できた。今回の会場は岩手大学の施設だったが、これが一般家庭の場合は、隣の台所で奥さんが忙しく給仕をしていたり、後ろで近所の人たちがお酒を飲んでいたりするのか、と想像するとその信仰的な意味合いや複合的な面白さ、またそれを持続することの難しさがひしひしと伝わってくるようだった。
 上演後の座談会では鵜鳥神楽(あるいは神楽自体)を初めて見る参加者が多かったためか、演目や神楽衆の構成に関する質問などが多く出た。「宿」の重要性と、震災による変化、そして今後の展望などが語られることが期待されたが、そこまで到達できなかったのが残念であった。実際に神楽宿を担っていらっしゃるご家族も参席されていたのでお話を聞く機会があればもっと良かった。
 私は普段から被災地に限らず、門付け形式の芸能について考える機会が多い。鵜鳥神楽の門打ちや宿神楽に見られる、舞台公演とは異なる複合的な空間性、観客と演者のコミュニケーションの在り方、コミュニティの形成力、これを応用した新しい芸術の模索などについてもっと注目する必要があるということを今回のフォーラムで再認識した。後日、鵜鳥神楽の宿神楽を是非見に行ってみたいと考えている。
 傍聴記の最後に、忙しいスケジュールのなか素晴らしい公演を見せて下さった鵜鳥神楽の神楽衆の皆様にお礼を申し上げ、またこれからの益々のご発展をお祈り申し上げたい。

当日の神楽公演のようす


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