東日本支部通信 第二号 電子版

(第2回定例研究会 発表要旨および傍聴記)

 

東日本支部 第2回 定例研究会

日 時 2011611() 午後2時〜5
場 所 慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎 4 445教室

司 会 平野 昭 (慶應義塾大学)

修士論文発表
1. L. v.
ベートーヴェンの弦楽五重奏曲 ― 18世紀末ヴィーンにおける弦楽五重奏曲との比較研究
丸山 瑶子 (慶應義塾大学大学院)

2.
フォーレの室内楽作品
-
主題法とテクスチュアをめぐって
澁谷 蓉佳 (武蔵野音楽大学大学院)

3.
若きシェーンベルクと世紀末ウィーンの労働者合唱運動
阿久津三香子 (明治学院大学大学院)

4.
ある「完璧さ」のパフォーマンスアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのピアノ演奏における様式と受容
神保 夏子(東京藝術大学大学院)

5.
伊福部昭と3つの「釈迦」
河内 春香 (東京音楽大学大学院)

 

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修士論文発表1
1. L. v. ベートーヴェンの弦楽五重奏曲 - 18世紀末ヴィーンにおける弦楽五重奏曲との比較研究
                                               
丸山 瑶子 (慶應義塾大学大学院)

 

ベートーヴェンの弦楽五重奏曲Op. 41795年成立、管楽八重奏曲Op. 103の改作)とOp. 291801年成立)には形式や和声のみからは説明できず、2V2VaVcという編成からの影響を考察すべき書法の特徴がある。一方、ベートーヴェンの他のジャンルの作品では、特定の楽器や編成と関わる点に、同時代の作曲家からの影響が指摘されてきている。

 ここから両作品の書法についても、同時代の弦楽五重奏曲との関連を明らかにする必要があると考えられる。そこで発表者はOp. 4及びOp. 29を、当時のヴィーンで流通し、両作品と同じ編成をとる弦楽五重奏曲と比較した。対象には、プレイエル、ホフマイスター、モーツァルトの作品から各5曲と、P. ヴラニツキーの作品から8曲を選んだ。

 発表では、例として2パートの平行の使用法を比較分析する。ベートーヴェンが2パートを平行で動かすとき、Op. 4Op. 29の間には、次の2点の変化が見られた。

 第一に、パートの組合せが多様化する。Op. 4では、特定の楽器の組合せに用いられる2パートの組合せがやや固定的である。それに対してOp. 29では、Op. 4では皆無だった組合せ(ex. V1Va2Op. 291楽章256小節~)も含め、編成に可能な2パートの組合せが全て用いられている。また各組合せの使用頻度も、Op. 4より均等になる。

 第二に、2パートの平行が、平行するパートの組合せを変えながら、間をおかずに続く時の楽器の選択が変化する。Op. 4ではパートの組合せが変わる時、必ず楽器の組合せも変わるため、パートを交替する目的に常に音色の変化があったと考えられる。一方Op. 29では1stパートと2ndパートの交替のみで、楽器は同じままのタイプが現れる(ex. 4楽章224小節~)。後者の場合、楽器による音色の変化がない代わりに、2パートの平行が、パートの組合せが変わった後も、2種類の楽器の融合した音色のまま持続する。

これらの変化は、ベートーヴェンが各パートをより対等に扱うようになったこと、ならびに、融合した響きへの関心を高めたことの現れと捉えられる。

 そして他の作曲家の用例を調べた結果、上記と同様の変化が時系列に沿って確認された。即ち2パートの組合せは成立年代が下るほど多様化する。また平行する2パートの組合せが変わる時、楽器は同じでパートのみ変わるタイプはプレイエルやホフマイスターには殆ど使われず、より年代の遅い晩年のモーツァルトやヴラニツキーの作品で使用頻度を増す。

 以上の分析結果より、従来は主に個人様式のみから考察されてきたベートーヴェンの弦楽五重奏曲も、当時の慣習的書法を基盤としていること、更にその書法の変化さえも、ベートーヴェンに独自に起こったものではなく、同時代の音楽と相互に関連して生じた、ヴィーンの弦楽五重奏曲全体の傾向を表すものであると結論付けられる。

 

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傍聴記(執筆:石井 明)

 

18世紀後期から19世紀初期にかけてウィーンで活躍した作曲家たちによって書かれた弦楽五重奏曲には、もっとも類似しているジャンルである弦楽四重奏の作品では見られないような楽器用法が随所に採られている。常に5声で和音を進行させていくために5つの楽器が用いられているわけではなく、むしろトリオ・テクスチャの概念が多用され、その部分を中心に5つのパートがいかに分割され組み合わされているかというところが、これら音楽作品の発展を考察する上で重要な鍵となる。丸山氏の今発表では、特に2つの楽器がペアとして組み合わされている箇所が注目され、それらで楽器の組み合わせに多様性が顕著に見られるようになればなるほど、作曲年代が新しくなる傾向があるということを、ベートーヴェンの弦楽五重奏曲が書かれた前後の時期の、他の作曲家による作品を観察することで判明したということが報告された。そしてこの傾向は、ベートーヴェンによる2作品の間でも明確に現れているということを確認したと発表された。

フロアからは、作品4よりも以前に書かれているモーツァルトの作品の中で、楽器の組み合わせの多様性がすでに見られるのに対して、これがなぜベートーヴェン作品4の中ではさほど見出すことができないのかなどの、興味深く、かつ今後の検討課題の提示とも言えるような質問が多く出された。

 

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修士論文発表2

2. フォーレの室内楽作品 -主題法とテクスチュアをめぐって
                                             
澁谷 蓉佳 (武蔵野音楽大学大学院)

 本研究は、フォーレ Gabriel Fauré1845-1924)が作曲した3人編成以上の6曲の室内楽作品を対象としている。これらの作曲年代を見ると、第1期(1845-1885)にピアノ四重奏曲、第2期(1886-1905)から第3期(1906-1924)にかけてピアノ五重奏曲、そしてピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲が最晩年に作曲されており、フォーレの生涯に広く渡っていることがわかる。これらの作品を主題旋律の設定及びそれがどのようなテクスチュアを形成しているかという観点から考察し、その変遷を明らかにすることを本研究の目的とした。

 フォーレの室内楽作品に対するテクスチュアの側面からの分析や言及は少ないが、考察の結果、主題旋律の機能は主要主題を明示することから変化し、線同士のアンサンブルが重視されるようになり、次第に個々のパートの独立性が高まっていったこと、また、テクスチュアも漸増や濃淡の変化を通してクライマックスを志向するものから絶えず推移するものへと変遷していることが明らかになった。例えば、第1期のピアノ四重奏曲第1番では、ピアノの技巧的な面や弦楽器のユニゾンを多用することで主題の明確な呈示、展開、クライマックス形成を行う傾向が見られたが、第2期にかかる同第2番では、主題旋律の各パートによるソリスティックな扱いも見られ、旋律線とテクスチュアの濃淡の変化が豊かになっていく。さらにピアノ五重奏曲で多主題の指向が強まると、テクスチュアのタイプは一層多様になるとともに、ピアノ・パートのパルス的役割が高まることで多様化するテクスチュアをつなぎ止めるように働いている点も指摘し得た。そして、最晩年のピアノ三重奏曲と弦楽四重奏曲においては、多主題性やパルス的役割は衰退し、各パートの独立性が高まると同時に、それらが分かち難い関係になる。こうして旋律線同士の重なり合いと水平方向の流れに意識が向けられることでテクスチュア推移が形式形成を担うようになり、年代を追うごとに主題設定やテクスチュア形成にフォーレ独自の手法が顕著になっていったと捉えられる。一般的にフォーレの室内楽作品は晩年に向かうほど内省的になり深遠さを増すと言い表されるが、こうした分析を通して具体的にアプローチすることができたと考える。

 フランスでは、普仏戦争での敗北を契機に高まった反独の気運によって自国の器楽作品を生み出すことに力が注がれ、室内楽の分野も徐々に開拓されていった。フォーレ自身は反独家というわけではなかったが、上記のような語法を確立していくことで独自の様式とするとともに、「フランス国産」の室内楽作品の発展に寄与したと言えよう。

 本発表では、ピアノ四重奏曲第1番と弦楽四重奏曲を取り上げ、分析結果を比較して提示することで、フォーレの室内楽作品の主題法とテクスチュアの変遷を概観しながら報告する。

 

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傍聴記(執筆:田崎直美)

 

ガブリエル・フォーレの作品はとりわけその作曲後期において「内省的」になり「深遠さ」を増していく―こうしたJ-M. ネクトゥーやジャンケレビッチ等の主張は、現在フォーレ作品解釈のパラダイムを形成しているといえよう。澁谷氏の発表は、室内楽作品を対象に作曲様式の変遷をたどることでこのパラダイムの実証を試みた、とみなすことができる。氏の場合、着眼点が従来の研究に多かった旋法や和声ではなく「主題法」と「テクスチュア」であった。特に「テクスチュア」では、声部関係の分類に独自の用語(「帯状」「透かし彫り的」等)を設定した点が独創的であり、ディスクールを追うというよりはむしろ声部間の静的構造を明確にした上で作品比較を行なった点に特徴がある。

質疑は分析方法に関するものが多かった。まず、ピアノ四重奏曲と弦楽四重奏曲の比較の意義が問われた。ピアノ・パートは弦楽パートとは異質な音色をもつ上、複数声部の担当が可能である。ただ発表中で、初期のピアノ四重奏曲から中期のピアノ五重奏曲への変遷については触れられた。次いで、設定された「テクスチュア」の概念が改めて問われた。声部関係に対してホモフォニック/ポリフォニック等の分析用語を用いていないことも確認されたが、個人的には、分析用語の併用はテクスチュアの機能を解明する上で有益かもしれないと感じた。また、最後の質問にあった「経過的なテクスチュア」の解釈についても、これから発展の余地があると思われた。

 

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修士論文発表3
3.
若きシェーンベルクと世紀末ウィーンの労働者合唱運動
                                            
阿久津三香子 (明治学院大学大学院)

 

アーノルト・シェーンベルク(1874-1951)が「労働者歌唱協会メードリンク」で合唱長として活動していたことは、『メードリンク地区新報Mödlinger Bezirks-Bote』の報告記事に、当該の合唱団名とシェーンベルクの名が記載されていることからも明らかである。そして、この報告記事に関しては、すでにアルブレヒト・デュムリンクAlbrecht Dümling1981)、R.ジョン・シュペヒトR. John Specht1987、ヴァルター・スツモリヤンWalter Szmolyan1974がそれぞれの小論文において報告している。

しかし、『メードリンク地区新報』で報告されているリーダーターフェル以外に、この協会がどのような活動をしていたのか。また、この合唱団のリーダーターフェルで歌われていた合唱曲が、当時の他の労働者合唱団でも歌われていたか、さらには、シェーンベルクが務めていた労働者合唱団合唱長の任務とはいかなるものであったのか、については、従来の研究では不明だった。

今回、『労働者新聞Arbeiter-Zeitungに掲載された「ニーダーエスターライヒ労働者歌唱協会連合連盟祭」の予告プログラムに目を通すという作業から、これらの事柄に関して、いくつかのことを確認することができた。

「ニーダーエスターライヒ労働者歌唱協会連合連盟祭」とは、「ニーダーエスターライヒ労働者歌唱協会連合 」が、毎年夏の夕べに開催した音楽祭である。そして「労働者歌唱協会メードリンク」もこの連合に加盟していた。

 『労働者新聞』に掲載された連盟祭予告プログラムや報告記事からは、1890年代のニーダーエスターライヒの労働者たちが、様々なジャンルの音楽を意欲的に享受していたこと、連合に加盟している労働者合唱団の合唱長が、連合の委員らの方針に従って職務を遂行することを求められたていたことが分かった。

 調査を通じ、シェーンベルクが「労働者歌唱協会メードリンク」で指揮した曲として『メードリンク地区新報』で挙げられている13曲のうち、7曲の歌詞が連盟祭の予告プログラムに印刷されていることが確認できた。

このことから、「労働者歌唱協会メードリンク」で歌われていた作品の多くが、当時のニーダーエスターライヒの多くの労働者合唱団によっても歌われていたと推測できる。

また、「労働者歌唱協会メードリンク」のリーダーターフェルでは、連盟祭への参加が予定されていた年には、連合の委員たちの選曲による、その年に歌唱予定の合唱曲が多く歌われていたこと、またシェーンベルクもそれらを指導する立場にあったことが推測される。

高等教育や専門的な音楽教育を受ける機会がなかった若きシェーンベルクにとって、労働者合唱運動における経験は、これまで考えられてきた以上に要求の多い職務であり、新鮮で刺激的であったということが、『労働者新聞』に掲載の連盟祭予告プログラムや記事、『メードリンク地区新報』の照合によって判明した。

 

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傍聴記(執筆:中村 仁)

 

 オーストリア社会民主党の機関紙である『労働者新聞』に掲載されたニーダーエスターライヒ労働者歌唱協会連合連盟祭プログラムを手掛かりに、若きシェーンベルクが合唱長として指揮していた「労働者歌唱協会メードリンク」で歌われていた曲目の傾向、そして合唱長の仕事内容の一端を示した手堅い研究である。

 資料を読み解いた結果明らかになった結論自体に矛盾はなく、十分に評価できるものであるといえる。しかし発表内容はあくまでもニーダーエスターライヒの労働者合唱運動の活動の一端を明らかにすることに終始しており、シェーンベルク自身がそこからどのような音楽的な成果を得たのか、それが作品(たとえば《グレの歌》のような大規模な合唱を伴うもの)に何らかの影響を与えたのかどうか、ということについてはほとんど触れられていない。また合唱長は労働者運動の「同志」として連合の委員の方針に従って指導することが求められていたようだが、シェーンベルク自身がその職務を通じて当時の労働者運動自体をどう考えていたのか、といったことにも立ち入っていない。資料から明らかになった事実と、シェーンベルクの創作活動あるいは広い意味での音楽活動全体との関係が十分に考察されなかったため、全体としては少々物足りなさを感じた。この研究がシェーンベルク研究、もしくは世紀転換期オーストリアの労働者合唱運動研究のより大きな議論に今後接続されていくことを期待したい。

 

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修士論文発表4

4. ある「完璧さ」のパフォーマンス

 - アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのピアノ演奏における様式と受容                                       
                                           
神保 夏子(東京藝術大学大学院)

 

本研究の目的は、イタリアのピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリ(1920-1995)の例を通じて、20世紀の西洋芸術音楽文化において「演奏家」という存在に課されてきた美学上の使命が、いかに現実の演奏=遂行(パフォーマンス)の中で実践され、聴衆との間に相互作用を引き起こしえたかを明らかにすることである。

彼は「完璧主義」のピアニストとして知られ、その卓越した演奏能力とともに、演奏会のキャンセル等の特異な振舞いのために、生前よりほとんど神話的な存在となっていた。演奏家としての彼は聴衆の間に熱狂的な反応を引き起こし、多くの信奉者を生んだが、その演奏は「冷淡」で「反ロマン的」な完璧主義者のそれとして、批判的に受けとられることもあった。一方、彼の妻や弟子らは、彼の演奏は演奏家としての職業的責務に基づく倫理的追求であったこと、ジャーナリズムによって築かれた「非人間的」なイメージは聴き手側の無理解によって歪められたものであることを主張してきた。

本論文では、こうした対立は、パフォーマンスそのものが含み持つ独特の性質の表裏の面を象徴するものである、との仮説のもと、演奏家自身の演奏理念と演奏様式、受容者の反応という3つの面から、問題の解明を試みた。主要な資料としては、演奏家自身へのインタビュー記事・関係者の証言・演奏批評を中心的に扱い、音響解析ソフトによる定量分析を含む演奏録音の分析や、弟子への取材も行った。

検証の結果、以下のことが明らかになった。ベネデッティ=ミケランジェリは自らを「(楽譜の)単なる読者」・「職人」・「聖職者」と見なし、演奏家の自己表現を目的としたパフォーマンスを鋭く批判した。演奏家にとって最も重要なことは作曲家への敬意であり、楽譜の徹底的な読解によって読みとったその「意図」を、確かな準備と技術によって十全に実現することが演奏家の責務だと考えていたのだ。大胆かつ精密に計算しつくされた彼の演奏の特質は、こうした思想に基づく実践の表れであるといえる。一方、聴衆に媚びず、神聖な儀式としての演奏会における理想的な任務遂行を目指した彼の姿勢は、主観的感情表出を排した演奏の特性とあいまって、聴衆との間に超え難い距離を築くことともなった。この距離こそが、彼を芸術家として「偉大」にするとともに、「不完全な」聴衆を疎外する「冷たい」音楽家との印象をもたらしたのである。

ベネデッティ=ミケランジェリの「完璧さ」の根底には、音楽作品を世俗から切り離された純粋に美的・自律的な存在と見なし、演奏家をそうした作品に従属するものとして位置付けてきた西洋近代の美学的原理がある。彼に対する評価は、まさにこの美学に内在する正負の面を映し出しているのだとして論を結んだ。

 

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傍聴記(執筆:中村 仁)

 

 20世紀を代表するイタリアの大ピアニスト、ミケランジェリの演奏については、これまでその演奏を賞賛/批判する様々な言葉が費やされてきたが、それらが学問的な研究の対象となることは稀であった。本発表はミケランジェリの演奏実践=パフォーマンスを、演奏家の理念、聴衆の受容、演奏の分析などから多角的に研究した意欲的な試みである。

 しかしいくつか疑問が残る。まずは「完璧さ」という言葉の扱い。それが何について、何を基準に判断されたものなのかが不明なまま議論が進んでいく。自分が楽譜から読み取ったイメージをリアライズさせる演奏家の「完璧さ」と、その演奏から聴衆が受け取った「冷たさ」を伴う「完璧さ」の間には、当然ずれがあるだろう。両者を媒介するミケランジェリの演奏それ自体の分析が今回の発表で省かれてしまったことも残念であった。また聴き手の否定的な反応に重点を置きすぎたそもそもの問題設定にも少々無理がある。そこから導かれた「芸術の自律性を追求する芸術家の社会からの疎外」という紋切り型の結論は、音楽ジャーナリズムにおいてこれまで再生産・消費されてきたこの大ピアニストについての求道者的なイメージをそのままなぞる言説の一つになってしまうように思えなくもない。

 いずれにせよ近年増えてきている音楽における演奏=パフォーマンス研究は、まだまだ方法論が定まっていない分野であり、発表者の果敢な試みの今後の進展に期待したい。

 

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修士論文発表5

5. 伊福部昭と3つの「釈迦」                         

  河内 春香 (東京音楽大学大学院)

 

伊福部 昭(1914-2006)は、作曲活動を始めた1930年代から晩年まで、非常に様々な形態の作品を多く残しているが、バレエ音楽、映画音楽、管弦楽曲の3つの作品ジャンルは、数ある伊福部の作品の中でも特に重要なものとして扱われている。

しかし従来、伊福部の作品研究は概説的、または部分的な分析が多く、実際の楽譜に基づいて詳細に分析・比較した先行研究は少ない。また、楽曲全体が研究されることは極めて少なく、具体的に一つの作品を取り上げ、音楽全体を分析的に研究した例は無い。

そこで本研究では、伊福部の3つの主要作品ジャンルの内、唯一同じ題材および音楽的素材で作曲されているバレエ《人間釈迦》(1953)、映画《釈迦》(1961)、《交響頌偈(じゅげ)「釋迦」》(1989)をとりあげ、資料の現存状況や所蔵について明らかにした上で、伊福部の各作品ジャンルに対する創作態度の相違点、旋律を中心とした音楽的な素材に対するアプローチの様相を比較することを試みた。

研究にあたっては、まずこれら3つの作品に関する基本情報や記録等を整理することから始め、そこから《人間釈迦》では、第一幕の音源、第一幕と第二幕の自筆スケッチ、バレエの台本、いくつかの公演プログラムが現存することが明らかとなり、これまで不明とされてきた音楽の一部を知ることが可能となった。また《釈迦》では、映像資料とスコア、映画の台本の比較から、残された楽譜のどの部分が実際の映画の中で使用されているのかをほぼ特定した。そして、音楽的な考察では上記の資料に基づいて、まず台本があるものについては台本と照らし合わせた上で、作品のストーリーやコンセプトに基づいた音楽分析を行った。

 その結果、《人間釈迦》の音楽は、舞踊や舞台転換など舞台上の動きに沿って作曲され、《釈迦》の音楽は、主に映画の表現を助け、画面を引き立てる事を狙いとして作曲されている傾向が認められた。さらに、唯一の純音楽作品である《交響頌偈「釋迦」》では、楽曲の構成や形式に重点が置かれ、個々の楽想が楽曲全体、またはそれぞれの楽章に対して作用しているという特徴が見られた。そして、こうした音楽の性質の違いから、これら3つの作品は、共通した音楽素材が用いられてはいるが、音楽の持つ役割や性格、作曲家が音楽を創作する際の姿勢に明確な違いが見られる事が分かった。

 これまで《人間釈迦》、《釈迦》、《交響頌偈「釋迦」》は、多くの場合、最初に作曲した《人間釈迦》を元に後の2作品を“編曲”した一連の作品とみなされてきた。しかし考察の結果、これらの作品は数多くの音楽素材を共通に有してはいるが、同じ音楽的素材を単純に転用したものとは考え難い。つまり、3つの作品はあくまで個々の独立した作品として成立し、その音楽は作品ごとに性格を変えながら、各々の作品の中で完結していると考えられる。

 

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傍聴記(執筆:三枝まり)

 

河内氏の発表では、伊福部昭の「釈迦」を主題とした3つの作品を取り上げ、音楽全体を分析することを通して、各作品ジャンルに対する創作姿勢を明らかにし、個々の作品を編曲作品ではなく独立した作品として位置づけようという意欲的な試みがなされた。

現存する資料をもとに、ジャンルの異なる3作品を丹念に分析し比較した点は評価すべきである。その半面、伊福部の作品の全体像が見えないまま、3つの作品に共通する素材を抽出することに終始した印象を受けたことが惜しまれる。たとえば質疑では、「釈迦」の素材が他の作品にも使用されているのではないかと指摘があったが、こうした伊福部の音楽語法上の特徴を示した上で、伊福部作品における「釈迦」の位置づけや、当時の管弦楽曲創作の流れの中における意味などについて論じられれば、より厚みのある面白い研究になったのではないかと思われる。創作の動機や創作理念について、伊福部がどのように語っていたのかについても関心がわいた。

伊福部は、敗戦直後の1946年に当時の東京音楽学校校長の小宮豊隆に講師として招聘され、以降1953年まで教壇に立ったが、特に戦前から在籍する黛敏郎など作曲科の学生たちにとって魅力的な存在であったという。その魅力が明らかになるよう、今後の研究の進展に期待したい。