東日本支部通信 第18号(2013年度 第4号)

2013.9.9. 公開 

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東日本支部 第18回定例研究会

日時: 2013年9月16日(月・祝) 午後2時〜5時
場所: 宮城教育大学 4号館420教室

<研究発表>

発表要旨1

「バッハの作品に命をふきこむ」

   ──19世紀バッハ受容における《チェルニー版》の意義──

中川 航(東京大学大学院)

 1837年,ライプツィヒのC.F.ペータース社からJ.S.バッハの作品全集"OEuvres completes"の刊行が開始する。このシリーズにもとづくペータース社のバッハのクラヴィーア作品集は,《チェルニー版》または《チェルニー・グリーペンケール・ロイチュ版》と呼ばれ,指遣い,テンポ,強弱,アーティキュレーションが加えられたいわゆる「実用版」「解釈版」として20世紀後半まで根強く普及し続けた。

 この版にチェルニー,グリーペンケール,ロイチュと3名もの編集者の名前が連なるにあたっては,1830年代末から40年代にかけて全集の成立過程で生じたいささか複雑な事情が背景にある。その経緯はK.Lehmannによるペータース社の書簡研究によって詳らかにされてきているが,端的には当初編集を任されていたチェルニーが編集方針についての見解の相違を理由にその座をおろされたことが混乱の原因といえる。

 チェルニーが編集者の地位を追われた際に理由としてペータース社に提示されたのは,《フーガの技法》や《クラヴィーア練習曲集第1巻(6つのパルティータ)》といったバッハ自身がまとめた作品の大きなまとまりを重視せず,楽譜冊子としての実用性の観点から選曲を行ったことであった。こうした編集はバッハの意図をねじ曲げる恣意的なものであり,作品の知識が不足しているとして非難された。

 そして最終的にJ.N.フォルケルの弟子F.K.グリーペンケールが編集を引き継ぎ,ペータース社の編集者であったF.A.ロイチュも加わって《チェルニー・グリーペンケール・ロイチュ版》が形成されることになるが,その内実は当初《チェルニー版》として出版されたものと基本的には変わらないものであった。

 チェルニーにとって何よりも重要だったのは,より多くの人々が演奏できるようにすることであり,そのためには多少の恣意的な編集も免れないという立場を彼は取っていた。選曲の問題もまた,指遣いやテンポ,アーティキュレーションと同様に,チェルニーの「実用版」の理念の反映であった。バッハのクラヴィーア作品の多くは《チェルニー版》の名の下で広く世の中に普及し,現在に至るバッハ受容の裾野を形成した。

 19世紀のバッハ受容を俯瞰したとき,《チェルニー版》こそが,功罪あれど,のちに「バッハ崇拝者」たちが牽引したバッハ協会版の全集(いわゆる「旧バッハ全集」)の学究的で限定的な出版事業とは対照的に,チェルニーの理念どおり「バッハの作品に命を吹き込む」役割を担っていたといえるのである。

 

 

発表要旨2.

ポール・ランドルミー『音楽史』および『フランス音楽』における「現代音楽」記述

                           成田 麗奈 (東京藝術大学)

 

フランスにおいては音楽理論書および音楽事典が歴史記述としての役割を果たしており、様式史あるいは作曲家列伝としての音楽史書刊行はドイツの後塵を拝し、ロマン・ロランが述べるようにアマチュア向けの書物として扱われることが多かった。だが、普仏戦争の敗戦後、学術的な書物としての音楽史書刊行の機運が高まり、学術的な音楽史書が編まれるようになった。とりわけ「現代音楽」の項目は、フランス音楽を歴史的に正当化するうえで、重要な位置を占めてゆく。本発表ではその一事例として、フランスの音楽批評家・音楽学者ポール・ランドルミーが著した二つの音楽史書における「現代音楽」記述に焦点を当て、彼の音楽史観と戦略を明らかにすることを目的とする。

ランドルミーは自身の音楽史講義の経験をふまえ、1910年に『音楽史』を出版した。1910年版においてはドビュッシーの創作活動までが取り扱われ、過去の音楽についても、ヴァーグナーやメンデルスゾーンなど、当時フランスで人気のあった作曲家に引きつけた説明を行っている。だが、1923年改訂版においてはこうした記述は姿を消し、全体の章構成も大幅に組み替えられ、「現代音楽」の章があらたに追加された。この章において、ランドルミーはフランス音楽の優位性を強調し、「全世界の音楽国民のなかで第一等にあるのがフランス楽派である」と結論づけている。さらには、第二次世界大戦期に改訂された1942年版においては、「1940年に存命のフランスの作曲家」という項目があらたに追加され、フランスの才能ある作曲家の数的優位性が強調されている。そして、本書において、ドビュッシー以降新たな音楽性を切り開く存在として、六人組が重要視されていることが注目される。

こうしたフランス音楽の優位性および六人組の重視は、1942年に刊行された『フランス音楽』においてより一層明確に展開される。全3巻から成る本書は、第2巻までは年代順にフランスの作曲家を記述する形をとっているが、第3巻『ドビュッシー以降』においては、大胆にも六人組を中心に据えた章構成を行っている。これによって、ドビュッシー以降のフランス音楽における六人組の重要性をアピールすると同時に、彼らに影響を与えた要素としてジャズやストラヴィンスキー、シェーンベルク等に紙幅を割くことで、フランス音楽の国際性・多様性を浮かび上がらせ、音楽文化の中心地としてのパリを描き出そうという意図が見られる。

フランスにおける従来の音楽史書とは異なり、両書ともに、新しい音楽言語の創出という観点から書かれている。それゆえに、過去の音楽遺産の正当化よりも「現代音楽」記述が重要性を持っており、多調性を積極的に用いた六人組に未来を託す形での音楽史記述が行われたのである。総括として、こうした立場からの音楽史記述の功罪両面と、ランドルミーの音楽史記述が与え得た影響について指摘する。

 

 

発表要旨3

20世紀日本の交響楽団におけるレパートリー形成の要因分析

                                                      井上  登喜子 (東邦音楽大学)

 

本研究は、日本の西洋音楽受容の一様態について、交響楽団のレパートリー形成をデータベース構築と仮説検定という社会科学における一つの標準的手法を用いて分析することにより、明らかにする試みである。従来の洋楽受容研究では、特定の団体や事象に焦点を当てるケース・スタディの手法が広く定着してきたが、音楽受容をめぐる集団全体の傾向や構造的側面の解明を目的とする場合には、演奏活動の大規模データの定量的分析による実証分析が一つの有効な研究手法を提供し得る。とはいえ、レパートリー形成の実証研究は着手されたばかりで、米国の職業交響楽団のレパートリーを分析したTimothy Dowd (2002)や、日本の昭和戦前期の学生オーケストラのレパートリーを分析した井上登喜子(2010)など先行研究はまだ数少ない。

本発表は、西洋音楽の一ジャンルであるオーケストラ音楽を取り上げ、20世紀を通したレパートリー形成とその要因について検証するものである。具体的には、1927年から2000年までの期間に、日本の職業交響楽団の定期演奏会で演奏された曲目をサンプルとするデータベースを構築し(サンプル数:8団体、演奏会数5,585回、演奏曲目数17,319曲)、レパートリーの全体的傾向とその時代的推移を定量的分析により把握し、レパートリー形成に関する要因分析を行っている。データは、日本の職業交響楽団の定期演奏会記録を体系的に編纂した二次資料(紙媒体)、小川昴編『新編・日本の交響楽団演奏会記録』に基づき、データベースの作成は発表者による。分析では、「特定の作品への依存」と「新規の作品の参入」というレパートリーの二傾向に注目し、これらを被説明変数とした。前者は、特定の曲目に演奏頻度が集中することを表す変数であり、市場の集中度を測る指数「ハーフィンダール・ハーシュマン指数」を援用する。後者は、新規に取り上げられたレパートリーの推移をもって示す。レパートリー形成に影響を及ぼす要因としては、時代、社会変化、景気変動、地理的要因、オーケストラの演奏能力、オーケストラの運営形態、文化政策に注目し、これらを説明変数として仮説検定を行った結果、演奏能力、運営形態、文化政策について有意な結果を得た。本研究の結果、日本の職業交響楽団によるレパートリー形成は、@1970年代半ばまでは、昭和戦前期のレパートリー形成の延長線上にあること、A演奏能力の増加は、(同一作曲家による)レパートリーの多様化を促進するが、新規レパートリーの積極的導入には結びつかないこと、B行政の財政的支援や文化政策は、新規レパートリーや日本人作曲家のレパートリーの導入と強い関連をもつことが検証された。

 

 

発表要旨4 

講式の出自についての一考察 ──仏教学の視座から──

                                                 大内 典 (宮城学院女子大学) 

 和文仏教声楽の代表格である講式は、平安末から中世にかけて宗派を超えて盛行した。音楽学的には、重構造による音楽様式の特徴やその平曲や謡曲などへの影響が論じられ、他方仏教研究や日本文学、国語学の領域でも、仏教の日本的展開を探る題材として、また日本語の抑揚や発音の変遷を辿る資料として研究が蓄積されてきた。しかし、「講式」の出自については、未だ曖昧なままである。

 通説では、「源信作」の『二十五三昧式』がその始まりとされるが、これは、史的事実というよりも「伝承」に近い。とはいえ、「講式」が平安末、源信を中心とする比叡山浄土教の活動を背景に成立したことは確かである。その時代をはさんで、日本仏教は、読経道、声明、念仏、説経などさまざまな声のわざを生んだ。それは、仏教が日本に定着し変容して行く際に、「声」が有用な手だてとして活用されたことを示唆する。源信(942−1017)もそのような動きの中心人物のひとりであった。そこで当論は、「講式」の出自を天台僧源信の念仏活動およびそれが置かれた社会的文化的脈絡に照らして再考し、それが創案された意味を問う。

 講式の様式上の特徴として、一般には@特定のテーマを説明する式文を中心とする、A式文は三段ないし五段から成る、A式文は和文で読み下される、Bそれぞれの式文には講式の本尊を称える伽陀がつく、といった点が挙げられる。しかし、実践の場をみると、講式特有の高揚感には、もう一点、導師による式文の語りと他の職衆が斉唱する伽陀の掛け合い、という表現形態が大きく寄与することがわかる。式文+伽陀という共通の形による段が導師と他の職衆との掛け合いで繰り返されて、それがあたかも呼唱答唱形式のような効果を生むのである。

 「講式」特有の表現効果をつくりあげる本質的要因が、式文と伽陀からなる段落形式とそれを導師と職衆との掛け合いで進めて行く表現様式だとするならば、「講式」という様式の出自は、源信の『往生要集』大文六「別時念仏」に説かれたいわゆる「臨終行儀」だと考えられる。そこでは、往生を遂げるための教えが十項で説かれ、それぞれの項は、見送る者が教えを読み、死に行く者と見送る者とがともに教えを讃歎し仏の名号を唱えるように構成されている。

 源信は、末法の世に生きる「頑魯の者」が救われる方法を模索し、念仏の理論化と実践活動に努めた。その仕事を「声」および「聞く」行為に焦点を当てて包括的に分析すると、彼が、仏教研究の領域における一般的了解よりもはるかに深く人間に備わる身体性を理解していたことがわかる。とりわけ源信の実践活動には、生身の身体をもって生きる「頑魯の者」を巻き込む多様な工夫がされていた。そのひとつが、声を発すること、声を聞くことがもつ効果の活用である。「臨終行儀」の構成法はその創意のひとつであり、それがやがて「講式」という新たな音楽様式に展開したと考えられる。


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