日本音楽学会

東日本支部通信  14号電子版

2013323日 第14回定例研究会 発表要旨)

 日時:2013323日(土)午後2時〜5

 場所:札幌大谷大学芸術学部 中央棟4F「響流(こーる)ホール」

   (〒065-8567 札幌市東区北16条東9丁目11号)

 

  <シンポジウム>

 「ロシア・ソヴィエト音楽研究の新しいパースペクティヴ」

 

 

1.「ソ連文化研究の近年動向とロシア音楽研究――全体主義文化、後期ソ連、文化冷戦」

梅津 紀雄(非会員・ゲスト/ 工学院大学)

 

【発表要旨】

 ソ連邦解体から今日までの約20年間、ソ連文化研究には多くの新たな視点が提供されている。そのいくつかを具体的に紹介しつつ、ロシア音楽研究との接点を考えていくのが今回の報告のねらいである。そうした新たなソ連文化論が台頭するにいたった背景の一つとして、冷戦下においては、ソ連文化はプロパガンダや対抗プロパガンダの対象として、客観的な研究対象になりにくく、冷静な評価に欠けていたことが指摘できよう。

 新たに台頭した視点の第一は、ペレストロイカ前後から顕著になりつつあった「全体主義文化論」である(グロイス、ゴロムシトクらによる)。全体主義はもともと政治学の用語であり、第一義的には、ソ連とナチスとの、イデオロギーを超えての体制の共通性に目を向けたものであったが、精緻な議論に適さないとして、政治学の領域においては忘却されていた。だが、ソ連時代の文化の特徴を記述する上で、その比較文化論的な視点が有効と認められ、ロシアと欧米で広く展開されるにいたった。総じて価値中立的で、いかにソ連体制がひどかったかを熱く語るというよりは、どんな特質を持った文化であったかを冷静に論述する傾向が強い。その結果として、アヴァンギャルドこそが本当のロシアだ、という考えは否定され、前衛的な作品が本来の作曲家の姿だ、という見方も否定されることになる。

 第二の視点としては、文化冷戦論が挙げられよう。従来の冷戦研究は、米国の対ソ外交を軸とし、米ソ関係を政治と軍事の側面から探求するのが中心であったとするならば、近年の冷戦研究では、多面的にその対象は拡張されつつある。米ソ両大国以外の国々にも相応の眼差しが注がれ、また東側陣営・西側陣営内の関係も着目されている。それと同時に、文化の領域における冷戦の重要性も意識されるようになり、the Cultural Cold Warは、日本の米国研究ではすでに定着しつつあり、「文化冷戦」の訳語が用いられている。特に美術の領域が顕著であり、前衛性=創作の自由の象徴、として宣伝されたことが語られるが、音楽との平行関係が成立し得ることは容易に想像できよう。タラスキンやアレックス・ロスに加え、ピーター・シュメルツらの著作にその反映を見ることができる。

 最も新しい潮流としては、後期ソ連論が挙げられる(主としてユルチャクによる)。後期ソ連とはスターリン後のソ連を指すが、特に「停滞の時代」と呼ばれるブレジネフ以降の時代の再評価という特徴を持つ。「反体制作家」ソルジェニーツィンやその擁護者ロストロポーヴィチ夫妻に対する弾圧はこの時代を鮮明に印象づけているが、反体制派の支持者は決して多数派ではなかった。また、ソ連は崩壊するべくして崩壊したとのイメージが支配的であるが、住民たちは体制が永遠に続くかのように感じていた。彼らが公的なイデオロギー的な建前を儀礼としてこなしつつ、非公式文化をも享受していたとする後期ソ連論は、シニートケやデニーソフらの創作の背景の説明ともなるものである。

 これらの議論は、冷戦時代に存在した様々な二項対立的な言説の神話性を暴露し、より精緻で事実に基づいた文化研究を志向している点で共通していると言える。当日はさらに、実例を加えた形で議論を展開したい。

 

 

2.「ショスタコーヴィチ研究の近年の動向と今後の課題」

中田 朱美(東京芸術大学・国立音楽大学)

  

【発表要旨】

ソ連を代表する作曲家の一人ドミトリー・ショスタコーヴィチDmitry Shostakovich1906-75)は、死後においても生前とはまた別の形で、冷戦に端を発する東西イデオロギーの影響を多分に受けてきた作曲家である。西側の受容史において決定的な契機となったのは、1979年に西側で出されたソロモン・ヴォルコフSolomon Volkovの有名なTestimony: The Memoirs of Dmitri Shostakovich(邦訳『ショスタコーヴィチの証言』水野忠夫訳、中央公論社、1986年、以下『証言』)であろう。その出版直後から、ショスタコーヴィチが本当に語った言葉かどうかをめぐり、いわゆる「『証言』論争」が起こったが、『証言』の成立事情に関するヴォルコフの主張は通らないことが科学的に究明され、半世紀ほどかかったもののその真贋問題には決着がついたといえる。しかしながら「体制的作曲家」から「反体制的作曲家」へと転換されたショスタコーヴィチ像は、その音楽の人気とともに強力に受容され続け、「反体制的な意図」を読み取る作品論がある種のプロトタイプとなるに至った。

1991年のソ連崩壊後のショスタコーヴィチ研究の背景には、このイデオロギー的な「体制的/反体制的」という二項対立の図式からの直接的な影響と、間接的な影響、すなわちこの図式の束縛から逃れて新しい意味やパラダイムを探究しようとする反動的な研究動機を認めることができる。本発表ではより近年の動向として後者に注目し、2つの研究領域を概観したい。1つ目として、ソ連崩壊によってもたらされた史料公開や史料研究の動向について主要なものを紹介する。これらの成果は「『証言』論争」を通して史料研究の精査の必要性が確認された結果とも捉えられるだろう。書簡や公的文書は現在も発表され続けており、作曲家像や作品解釈に新たな光を当てている。また未完作品の存在も明らかにされるなど、私たちの前にショスタコーヴィチの創作世界は現在進行形で拡がりつつある。2点目として、作曲家・作品研究における対象やアプローチを概観する。対象としては、これまであまり注目されてこなかった作品群(歌曲集、付随音楽など)に関する研究が目覚ましく、より多くのジャンルが考察されるようになってきている。アプローチとしては、特に、ショスタコーヴィチが関わった音楽活動がより幅広い社会的コンテクストから読み直されている点に注目したい。結果として、「体制的」あるいは「反体制的」と捉えられてきた作品の再考も行われている。ここには、近年のソ連文化研究の流れのほか、リチャード・タラスキンRichard Taruskinによって推し進められた修正主義的な読み直しの影響が認められるだろう。

最後に、現状の問題をいくつか確認したい。たとえば史料研究において、遺族によって設立されたショスタコーヴィチ協会のアルヒーフに所蔵されている資料や自筆譜が原則として非公開である状況、およびその制約などについて触れる予定である。

 

 

3.「ロシア音楽としてのソ連前衛音楽――12音技法受容の解釈について」

千葉 潤 (司会・札幌大谷大学)

 

【発表要旨】

スターリン没後、ソ連音楽史は新しい段階を迎えた。いわゆる「雪どけ」期における西側諸国との交流再開の波のなかで、スターリン時代に禁じられていた西欧前衛音楽についての情報が、訪ソする演奏家や作曲家によってもたらされた結果、1960年代以降、12音技法やセリー技法を吸収した新しい世代の作曲家が台頭することとなったのである。しかし、これらの前衛的技法や作品(ソ連内外含む)についてのソ連政府の公式見解は、当時のショスタコーヴィチの公的発言に象徴されるように、従来通り厳しく否定的なものであり、この時代の社会全体の緊張緩和の雰囲気とは裏腹に、いまだ冷戦時代の文化的なイデオロギーを根強く反映していた。こうしたことの裏返しとして、ヴォルコーンスキイやデニーソフらの作品が西側で紹介される際に“ソ連の”前衛音楽として脚光を浴びたこと、同時に彼らが“反体制派の作曲家”として受け入れられたことも指摘できよう。実際には、彼らの先駆的な創作活動をきっかけとして、12音技法やセリー技法は体制公認の作曲家にも浸透してゆき、次第にソ連の文化政策にも影響を与えてゆくのだが、これらの経緯が明確に指摘されることはこれまでなかった。

しかしながらソ連崩壊から20年以上が経過し、様々な公文書や個人資料が公開され、文化冷戦論や後期ソ連論等の文化研究の進展の結果として、ショスタコーヴィチ後のソ連音楽研究においても、従来の二元的な思考態度やイデオロギー批判から脱却して、詳細な実地調査と幅広い資料調査に基づきながら、当時のソ連音楽界の実態を客観的かつ具体的に記述しようとする研究が現れてきた。その代表として「雪どけ」期の「非公認のソ連音楽」を研究したアメリカの音楽学者ピーター・シュメルツを挙げることができる。拙論では彼の研究に依拠しながら、この時期のソ連作曲家による12音技法やセリー技法の多様かつ錯綜とした実践状況を提示すると共に、彼の議論の理論的土台となっている政治文化人類学者アレクセイ・ユルチャクによる後期ソ連論を参照しながら、様々な政治的ポジションに位置する作曲家の前衛的技法の受容と展開、それに伴う文化政策の変動のメカニズムを明らかにしたい。ユルチャクが提示している「Vne(〜の外を意味する露語。ソ連内部において、反体制派と区別される非公式文化の在り方を指す)」の概念は、ソ連音楽界内部における「非公認の前衛音楽」の機能や、イデオロギー的な建前としての社会主義リアリズムの儀礼化・相対化等、「雪どけ」以降のソ連音楽史を記述するうえで新たな視点を提供することが期待される。

 

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【傍聴記】(執筆:森田稔)

 

 3月も末に近いというのに、札幌ではまだ至るところに固く凍りついた根雪が残っていた。防寒靴を履いてこなかったことを後悔しながら、滑る足元に細心の注意を払って、やっとの思いで札幌大谷大学「響流(こーる)ホール」に辿りついた。中に入ると、大きくはないけれども、響きの快い素晴らしい会場であった。東京など遠来の参加者も多く、20名ほどが熱心に議論に参加した。筆者は長年ロシア音楽研究に携わってきたが、最近は対象をもっぱら19世紀に集中してきた。考えてみると、ショスタコーヴィチ研究を追いかけるのを止めてから、もう10年にもなる。お陰で、幸いなことに、極めて新鮮な内容の議論を傍聴することができた。

冒頭、オーガナイザーの千葉潤氏がシンポジウムの趣旨を述べたが、1980年代に日本でも大きな話題を呼んだヴォルコフの『証言』は、すでに遠い過去の物語であり、ここで話題となっているのは、2000年代入ってからの、まさに最近10年間のショスタコーヴィチ研究の「新しい動向」であった。

最初にゲストの梅津紀雄氏が「ソ連文化研究の動向とロシア音楽研究:全体主義文化論、文化冷戦論、後期ソ連論」と題して発言した。東西ドイツを分ける象徴的存在であったブランデンブルク門や、1937年パリ万博でのドイツ館とフランス館の類似点などを引き合いに出しながら、スターリン時代のソ連文化を「全体主義」とか「文化冷戦」という視点から論じた。ショスタコーヴィチ作品研究の最近の動向を視野においた、周到に準備された興味深い発言であった。この話を聞きながら、私はモスクワ市内の至るところにある、鉄塔のように巨大でグロテスクな、角ばったビルを思い出していた。これがかつて「スターリン様式」の建築として知られていたからである。また、梅津氏は、ユルチャークの「後期ソ連論」を紹介しながら、スターリンの死後からペレストロイカ直前に至るまでの、ソ連時代後期のいわゆる「停滞の時代」が、そこに生きていたソ連人にとっては決して「悪い時代」ではなかったと指摘したが、この観点も、実際にその時代を肌で感じてきた者として、共感できる、興味深いものであった。

二人目の発言者、中田朱美氏は「ショスタコーヴィチ研究の近年の動向と今後の課題」と題して、1980年代に広範な話題を呼んだヴォルコフの『証言』の真贋論争や、「体制的か、反体制的か」という、かつての二項対立的な論議から脱して、このところ、書簡や公的文書など、史実に基づく研究が拡がり、未完作品の存在なども明らかにされて、ショスタコーヴィチの音楽活動が、より幅広い脈絡で捉えられるようになっていることを報告した。同時に、アルヒーフの資料や自筆譜が原則として非公開であるという問題点を指摘し、夥しい数の参考文献を紹介しながら、今後の研究の進展に期待を述べた。

最後に千葉潤氏は「ロシア音楽としてのソ連前衛音楽―12音技法受容の解釈について」と題して、1960年代以降、新しい世代の作曲家が12音技法やセリー技法を吸収し、前衛的な作品を書き始めた点について、実例を挙げながら報告した。具体的には、シュメルツPeter Schmelzの論文を敷衍するかたちで、同時代のソ連作曲家による作品から、いくつかの譜例を引用しながら、12音技法の使用例を紹介した。

質疑や討論も活発に行われ、フロアからも数多くの発言があった。最後に「現代主義芸術」という視点について議論され、1920年代に活躍した「現代音楽協会」が70年の時を隔てて、なぜ1990年代に復活されたかという、かなり本質的な疑問が提示された。梅津氏は時代の「心性」という術語を用いて、これを説明しようとしたが、時間切れで、この問題については十分に議論を深めることはできなかった。また、各論者からは、それぞれの報告に関連して、詳細な文献表が配布された。ここでそれを再録することはできないが、当日、資料として配布されたので、関心のある方は事務局に申し込めば、文献表のコピーを入手できるだろう。この文献表は、本日の論題がいかに「現代的」なものであり、今まさに広く論議されているものであるかを示す、証拠とも言えるほど、充実したものであった。