東日本支部通信 第12号 電子版

(第12回定例研究会 発表要旨)

東日本支部 第12回定例研究会
日 時: 2012922() 午後2時〜5
場 所: 青森明の星短期大学1号棟(介護実習棟・事務室)1402教室
 司 会: 泉谷 千晶 (青森明の星短期大学)

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研究発表>
1.
軍隊における「軍歌」の受容 〜日清・日露戦争を中心に〜

山田 未希 (秋田大学大学院)

 

【発表要旨】

従来の軍歌研究は第二次世界大戦時を中心に、軍歌による国民動員や戦意高揚の方法を述べてきた。一方で軍歌黎明期である明治期の研究は少なく、長谷川・綿抜(2009)の軍歌の内容やその変遷に関するものはあるが、軍歌の受容に関する研究は、学校に関する記述が僅かにある程度で、軍隊と軍歌に関する研究は行われていない。

本研究は軍隊における軍歌の受容について、明治期を中心に調査を行った。これにより、これまで不明瞭であった軍隊における軍歌の存在形態及び目的を明らかにすることができると考える。

日清戦争前(18681893)の明治18(1885)に、軍歌は兵学に加えられ、軍隊では行軍、凱旋の際に軍歌を使用した。また軍楽隊員による軍歌の教授や、簡易な軍歌の作曲が行われた。

日清戦争時(18941895)は、 戦地にいる兵士に軍歌を送付したり、軍楽隊を伴って軍歌を歌唱したりすることで、戦地においても軍歌は受容された。敵艦の発見時や戦線で歌われたことか ら、軍歌には戦意高揚など精神的効果が期待されたと考えられる。これは、訓練と同様に戦地の行軍で軍歌を歌ったという記載がないことや、軍内部の祝宴では 俗謡が主に歌われていたことからも明らかである。

日清戦争後(18961903)は、軍歌の改善や新作軍歌の作曲が行われた。また海軍の教育報告書の中に軍歌の記述が現れた。軍歌は30分から1時間、適宜に体操や柔道などとの代替が可能なものとして用いられ、陸海軍共に中庭などで円形になって歌われた。

日露戦争時(19041905)は、戦地でも訓練同様の方法で軍歌が受容された。ただし軍歌演習の時間は訓練よりも長い45時間であったことから、日露戦争時は一層軍歌が受容されていたと考えられる。また実施の時間帯は夕方が中心で、陸軍では夕食後や入浴後、海軍では軍事点検後に行われた。

日露戦争後(19061912)は、新たな軍歌の作曲や文学者への作詞の依頼など、より有効な軍歌が求められた。また軍歌は体育科目の一つとして、以前は実施していなかった戦艦においても歌われるなど、その受容は拡大した。

本研究により軍隊における軍歌は、戦争を経る度に、進歩・向上が図られていたことが明 らかになった。精錬された軍歌を求め、軍人勅諭を歌詞とした軍歌の編纂を進めるなど、軍隊はより良い軍歌の作成に取り組んでいたと考えられる。また教育に おける軍歌の位置は、行軍時の歌から体育分野へと変化した。軍歌に対する期待は、歩調を整えるものから身体を鍛えるものになっていったと考えられる。これ らは、従来の民間を中心とした軍歌研究では見られなかった軍歌の在り方である。

以上のことから、軍隊における軍歌は、軍人精神の向上・統一と身体能力の向上が目的であったと言える。この傾向が、日清・日露戦争を経る度に強くなっている ことは、戦争によってこの目的の重要性が増したということ、また軍歌がこの目的を達成するために有効な手段と考えられたためと推察される。

 

 

【傍聴記】(執筆:遠藤安彦)

 発表者・山田氏の要旨にあるように、「軍隊に於ける“軍歌”の受容」というテーマに関しては、先行研究が少ない、あっても時代が違う、対象が民間、といった現状がある。これらの点をふまえて、日清・日露戦争前後の軍歌が民間ではなく軍隊においてどのように受容されたかについて、その変遷を可能な限り事細かく調査した発表であった。

特に、軍隊内の軍歌の歌唱教育のエスカレート状況や、下士官への教育に軍歌が使用されたこと(海軍・陸軍大学校卒のエリート達への教育については不明)、軍艦毎に専用の軍歌があったり、軍歌の授業回数が記録されていたり、戦争時に効果的に軍歌が歌唱されていたりしたことなどについては、興味を惹かれた。“日清・日露戦争を中心に”と対象を絞り込んでの研究ではあるが、従来十分に光が当てられてはこなかった当時の軍隊における軍歌受容の概要を明らかにしている点で注目に値する。

 当時海軍音楽隊が新聞記事になることなどは珍しかったようだが、幕末には既に“軍楽”として洋楽が演奏されていたこととの関連とか、曲の内容、作曲者、使用楽器についての情報が提示されなかったこと、あるいは、日清・日露戦争後の軍隊内部での新作募集や外部への作曲依頼など、日本における当時の音楽教育(音楽取調掛/作曲・読譜等)との関係について、今回は触れられてはいなかったのは(作曲専攻の筆者としては)少し残念であった。それは発表者の力の及ばないところ、すなわち歌詞だけで楽譜が残っていないことが多いということにも起因しているようで、更に残念に思われる。今後は、民間で歌唱された軍歌との比較考察にも手を拡げ、立体的な修士論文になるよう期待する次第である。

 

 

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2. 是川出土の縄文コト 〜可奏範囲の実験〜

 

       笹森 建英(弘前学院大学)、鈴木 克彦(ゲスト)

 

【発表要旨 1

笹森 建英

 

始めに 青森県八戸市是川から出土した遺物20点から最大・最小・特徴ある5点を選び、レプリカを作成して実験した。

 発見の年代・経緯、現物の作図・観察記録、先行研究史、非楽器説の検討などについては共同研究者である考古学の鈴木克彦氏が著書で詳述している(鈴木克彦 2012年『縄文琴の研究』弘前学院出版会)。ゲストとして氏を招き、それらの梗概を述べてもらう。

 レプリカ作成、絃の選択と張り方、演奏の可能性(可奏範囲)について具体的に以下のプロセスによった。T呼称の検討。素材、形状、部分とその考察。Uレプリカ製作。V奏法。W実験:可奏範囲。

 

T 呼称の検討。素材、形状、部分とその考察

(1) 素材 @本体 材質: 桧か(保坂p.83),後にスギと想定される。

 A絃:絃については、カラムシ、毛糸の絹糸線(テグス)、人の毛髪、馬の尾などの説があるが、いずれも確証がない。大方の推論では、植物性繊維である。

(2) 形状:長三角形の一枚板。突起を2つ切り出し、末端に2個の刻み、もしくは小孔を作り、弦を張る。

 なお、器物の部分に対する名称としての「頭」、「末端」は報告者に依って異なる。ここでは突起がある方形部分を頭とし、2個の刻み、小孔がある部分を末端と呼ぶ。

@長さ:最長59.2cm。約55cmのものが多い。最小、欠損のため不明。

A幅:最大幅7.8cmc.6cm多し。B厚さ:0.9cm1.6cm。C頭部:方形になっているもの7点。D突起:2個の突起を有するもの13点。E胴部に横線あるもの:3点。F胴部に穴のあるもの:3点。

 

U レプリカ製作

 利器:縄文時代の利器の提供を考古関係の者に求めると、「石器はガラスと同じであるから、割れたガラス板を用いよ」との助言であった。ガラスは非効率であり作業は困難であり、小刀と彫刻刀などを用い作製した。

 材質:始めはヒバを用い、後にスギを用いた。

 作業過程:#1の完成品 = ヒバ材を用い、鋸で原形に近い大きさに切り、厚めの板を鉋で湾曲の形状に削り、ナイフで整形し彫刻刀で頭を彫った。#1は湾曲しているので、胴の中央部分を深くして頭へ浅く削る、同じく中央から末端へと削り、裏はその湾曲に平行に整形。

#5 小型 = 製図をもととして、横の両縁を延長し作図し、大鰐町の大工、佐々木公誠氏に依頼した。用いたのは杉材である。

#9 最大の長さの器物 = これも佐々木公誠氏に依頼した。製図を杉の板に張り付け、作成してもらった。

#11 横線のある器物 = 笹森が作成した。

#8 頭部が有る最長の器物 = 製図の原寸大を杉の板に張り付け、佐々木公誠氏が作成した。

 孔:holeまたは刻みslotnotch= 刻みは先端をナイフでV形に切りとった。孔は錐で穴をあけた。

 弦:@カラムシを青森県郷土館から提供してもらい、用いたことがあった。市販のアサ紐を何種類か用いてみた。

A毛髪、一筋では弱いので、三筋をよって用いた。

B馬の尾、これも三本よって用いた。

Cテグス、天然のテグスを釣り道具店から購入し、異なる太さの2本を適応させた。

 [弦の張り方]

1. 刻み・孔の背面から弦を表面に回し、対応する突起に結ぶ。

2. 突起にむすび、対応する刻み・孔に通し、他方の刻み・孔から弦を表面に回し、対応する突起に結ぶ。

3. 突起にむすび、対応する刻み・孔に通し、背面から弦を突起に戻し、突起に結ぶ。

4. ブリッジを頭部、もしくは尾部、或いは両方に置く。

 これらが容易に弦を張る方法である。その特に4弦であれば上記の方法を応用して張ることが可能である。

 

V 奏法

1. 肩の前方に縦に構える。頭を上に先端を下に。先端を上に頭を下に。横に置く、その逆も可能である。

2. 共鳴体の上。頭を右に先端を左に。先端を右に頭を左に。膝の上、地面に置くことも可能である。

3. 口にくわえる。アイヌ音楽で用いられるムックリ、jew' s-harp, ハワイ音楽楽器のウケケukeke奏法を参考にした。

 

W 実験:可奏範囲

 音量を大きくして、大勢に聞かせる、離れた距離にいる者に聞かせる必要があった とすれば、箱、もしくは壷状の器物に乗せて奏することができる。発掘当時の木片に該当するもの、例えば箱が分解した木片、小さな物では駒があったか否かが 問われる。形をなしていない木片は捨てたといわれる。また、胴の下に箱・桶状の部品が付けられた痕跡は見られない。

実験結果:試奏し次の結果がもたらされた。

1. 音高

 絃の種類と、本体の全長によって規定される。絃が人毛、馬毛、であれば、#1の完成品の場合、最高音が約c3である。麻、カラムシが次に張力があり、テグスはさらに高音を出せる可能性をもつ。また、全長が短いほど低い音が出せず、全体に高くなる。

胴の幅がせまく、2絃を用いても音階を奏するのはむずかしい。

4絃にすると、分散和音・アルペジオ奏法でしか奏し得ない。仮りにメロディ(2音以上の音列)を奏するとすれば、頭に近いレジスターが容易である。(埴輪のコト演奏では逆になっている)。リズムが主であれば、音程は問題とならない。トレモロ、スガガキ(繁撫)以外の奏もなされていた可能性が考えられる。一方の絃のみで旋律を奏することは可能である。この場合、横線のある器物が問題となろう。他方の絃をドローン(持続低音)としたであろうか。

2. 強さ

 音響学的にはデシベルdecibelを単位として測定可能である。音量増幅器を持たないので、音量が小さく、奏者以外の人々への伝達が限られる。

3. 音色

 麻糸、特に太い麻糸は印象として鈍い音色であり、細いテグスは清涼な感じをあたえる。倍音系列の複雑、単純さ。

 

結論

 形状の多様性について。鈴木氏は以下の可能性を指摘する。すなわち、製作所、未完成品、失敗作、作成途中などがまとまって出土したと解釈できる。土石流で、その村落がまとまって流され、各自が持っていた器物がまとまって堆積した。器物の大きさの多様性は、音楽の音自体にさほど影響をあたえない。音量や音高、音形、音色に決定的な違いを見せない。厳密に復原し、音が出せる限界、すなわち可奏範囲を示し、その範囲内での音形を試奏した。

 

<引用・参考文献>

杉山寿男1927 「石器時代の木製品と編物」『人類学雑誌』42-8

保坂三郎 他 1972 『是川遺跡出土遺物報告書』八戸教育委員会

ザックス Sachs.C. 1965『楽器の歴史 上・下』柿木吾郎 訳

The History of Musical Instruments(1940).全音楽譜出版社

鈴木克彦 1978「縄文琴について」『青森県立郷土館だより』青森県立郷土館 Vol.9,No.2.

中野輝雄1969 『民俗楽器@ 絃鳴楽器』天理大学出版部

松澤 修1996 状木製品の用途について』滋賀県文化財保護協会『紀要9号』pp.25-37.

ロバーツ Roberts,Helen Heffron 1926/R1967 Ancient Hawaiian Music.Honolulu:dover

ワイドスWidess,Jim 2002 HOW TO MAKE Hawaiian Musical INSTRUMENTS.

Honolulu:MUTUAL PUBLISHING

 

 

【発表要旨 2】縄文琴 ― 出土弦楽器の考証 

鈴木 克彦

 

縄文時代の箆形木製品を弦楽器とみなし、1978年に「縄文琴」と命名する小論を発表した。以来30年余年を経て、本年2月に「縄文琴の研究」と題し、出土弦楽器の調査研究報告書を上梓した。

弦楽器説は1980年代以降に私の手から離れ、音楽学の岸辺成雄(1981,1984)、笹森健英(1982)をはじめ、考古学の岡崎晋明(1985)、工楽善通(1989)、奈良文化財研究所(1993)や考古学の一般書にも数多く記載されているとおり考古学では概ね弦楽器説に肯定的であったが、水野正好(1980)、笠原潔(2004)など否定および消極的な意見もくすぶっていた。

よって、私たちは建設的かつ実証的に議論する必要性をおぼえ、類例を集成し、最も数多く出土している青森県八戸市是川中居遺跡の18本の実測図を作成し、実物を再観察し、復元を試み、考古学的な観点から出自編年、用途などについて考察した。さらに、弦楽器と定説化されている弥生文化の出土弦楽器(弥生琴)とも比較し、形態の類似性、系統性から日本どころか世界最古の現存する狩猟社会における日本独自の携帯用の出土木製弦楽器であることを論証し、あらためて学際的に弦楽器と結論付けたのである。

それにより、縄文文化の箆形木製品については、考古学の立場から弦楽器説として決着がついたと言ってよいだろう。今後は、音楽学(楽器)分野においても定説化されることを願うものである。その理由は、日本文化における弦楽器の起源すなわち弦楽器が大陸から伝来したとされる根拠無き考えをまず否定し、弥生時代以後の出土弦楽器および和琴への系譜や機能、用法など、文化人類学的な観点から研究を発展させる必要があるからである。

 

  縄文琴の考古学的、文化人類学的意義

形木製品すなわち縄文琴は、縄文時代後期と晩期に4遺跡、計24本が出土している。内訳は、北海道小樽市忍路土場遺跡1(後期)、青森県つがる市亀ヶ岡遺跡1(晩期)、八戸市是川中居遺跡20(晩期)、滋賀県彦根市松原内湖遺跡2(後期)である。

 現在、和琴以前の出土弦楽器資料が全国で約200本程発見されている。そのうち、弥生時代中期以前の類例が縄文琴に類似し、それ以降は形態構造が多様化する。縄文琴および弥生中期以前の出土弦楽器に類似する類例は大陸に発見されていないので、現状では日本自生説が選択されよう。そして、縄文琴から弥生中期までの弦楽器の系統的な変遷は、形態構造が改良されて発達しているとみて間違いなく、そこに大陸的な影響の要素は未だみてとれない。

 次に、その使用目的の問題について、これには出土状態の観察が重要視されるが、考古学的には廃棄以外に明確にされていないので、その形態構造を観察する以外に決め手がない。縄文琴にみられる非実用的な装飾性には儀礼的な意味が込められ、大小二種の存在は用途、用法の違い、そして長さの平均が55cm程度なことは携帯性、可動性を物語るであろう。

 そこで、日本の古典の『記・紀』の梓弓神話や民俗誌の歌垣、シャマンが弓や弦楽器を用いるシベリア民族誌、縄文琴の剣身形がアイヌ文化のトンコリの形状に類似し、トンコリがシャマンの神謡とともに歌われるときに用いられていること、民間信仰のイタコなどの梓弓などのことも重視した。

 そういう観点から、上の報告書では、弦楽器起源の問題を日本自生説と信仰、特にシャマニズムに求め、弦楽器の持つ意義を問題提起した。宗教人類学における楽器の起源論には、机上論が多いので、是非は議論して欲しい。弦楽器の起源が、縄文文化に始まることが確定する意義とそれによる波及効果は甚大である。それは、日本の弦楽器の中国ないし大陸の影響起源説を覆すだけでなく、民族固有の文化、先史の音楽および楽器の起源と性格を根源的に考えようとすることに意義がある。

 

3 縄文琴と弥生琴などとの比較

 縄文文化の出土弦楽器の特徴は、次のとおりである。

  1:板作り                 2:二等辺三角形 (標準サイズ55cm)

    3:先端部に角状突起2本          4:反対側に刻み目、小孔と集絃孔など

 弥生文化、古墳文化の出土弦楽器の特徴は、次のとおりである。

  1:板作り、箱()作り、棒作り       2: 二等辺三角形 、矩形(主に長方形)

    3:先端部に角状突起2本から6本      4:反対側に集絃孔など

 それらのうち、縄文文化の出土弦楽器と比較するべき対象は、弥生時代前期および中期から出土している類例が最も妥当と思われる。弥生前期には全国で5本出土しており、その上記特徴は縄文琴と略同じである。中期になると類例数が増え、板作り(平板形、蒲鉾形)のほか箱()作り、棒作り()、多数突起(4本以上)が出現し、弥生後期および古墳時代から多様化する。

 このように、縄文琴の形態構造は、板作り(平板形、蒲鉾形)、二等辺三角形(剣身形)、を特徴とし、弥生後期まで継続してみられ、古墳時代になると消滅する。また、先端部(頭部)に角状突起、反対側(尾部)に刻み目ないし小孔、そして集絃孔が付くものが標準である。頭部の角状突起は古墳時代まで数の違いがあるが、全てに共通して存在する。特に、6本の角状突起は正倉院の和琴にも存在し、唯一縄文琴に由来する和琴との共通性として注目され、看過できない問題もある。尾部の構造は、鵄尾形など時代によって異なるが、孔は集絃孔に統一されるものの位置などが異なる。通常は平板作りだが、是川中居遺跡に断面形が蒲鉾形になるものがあり、その形状は古墳時代までみられる。よって、日本に自生した弦楽器の初期の形態(原始型)は、頭部に角状突起が2本付く板状の剣身形だと確定でき、弥生時代になって角状突起の数が多くなり、集絃孔に収斂されることになる。そのほかに、注目されることは、小型の弦楽器の存在であり、縄文時代の滋賀県松原内湖遺跡、是川中居遺跡をはじめ、弥生時代前期の三重県納所遺跡のほか、古墳時代、飛鳥・奈良時代まで類例が出土している。単なるミニチュア模造品とみるか、奏法の異なる独自の弦楽器か、今後の研究課題だが、私は後者の独自な弦楽器の可能性があると見ている。また納所遺跡から両端に孔のある矩形平板状の類例が出土しており、膝上に置くか座って演奏する中東アジアのサントゥールにも似ていて、岸辺成雄(1984)は弦楽器の可能性があることを指摘している。

 このように、日本の出土弦楽器(の基本形態)は、縄文文化から弥生文化に継続され、弥生時代中期から改良されて形態構造が多様化し発達すると考えられる。しかし、その改良要因は不明である。

 

4 日本の弦楽器起源に関する旧説と和琴との関連性

 弦楽器起源論の課題は二つあり、1は最古の弦楽器の追及、2は日本古来の弦楽器とされる和琴の系譜問題である。しかし、前者は考古学の発掘によって更新されるが、後者は日本文化論にかかわる本題であり、予見は無用で考古学と歴史学、音楽学の分野が共同して研究しなければならない。

 これまで、日本における弦楽器は、正倉院宝物に多様な弦楽器が存在することから大陸伝来説として百科事典などに記載され、考古学においても弥生文化の伝来によりもたらされたとみる考えがあった。しかし、音楽分野の田辺尚雄(1926)は正倉院和琴と朝鮮の玄琴を比較して、日本固有の和琴が朝鮮に渡り玄琴に影響し、それが日本に渡来し正倉院に残っていること、林謙三(1958)は和琴が日本古来の弦楽器だと考え、岸辺成雄(1981)は逸早く縄文琴の存在を認定した。

 そういう音楽(楽器)学の学史を顧みず、水野正好と笠原潔は日本の弦楽器を弥生文化に由来するとみなした。これは、日本文化が大陸伝来の弥生文化に始まるという明治時代から続く旧態な固定観念であり、それにより弥生文化以前の弦楽器は結果的に無視されることになった。私の所見は、考古学の立場からそういう一面的な旧説、固定観念を否定するものである。

 弦楽器日本自生説は、縄文琴から和琴に直接に系譜が繋がるというものではない。縄文琴から和琴に至る歴史的な過程に、大陸文化の影響の可能性を全て否定するものではないが、未だ僅かな情報ながら、縄文琴に由来する板の長軸方向に平行して先端部(頭部)に付く角状突起の事例は、中国、韓国の大陸に見当たらない。近年、韓国(光州市新昌洞遺跡、国立光洲博物館2002)から出土した弥生時代に平行する時期の弦楽器には角状突起が見られず、むしろ中国の瑟及び正倉院宝物の新羅琴に類似するものである。一方で、ほぼ同時期の鳥取県青谷上寺遺跡から出土している箱作りの弦楽器は、日本の出土弦楽器のスタンダードな形態を示す。弥生時代中期後葉から古墳時代に出土する中国の「筑」に類似する類例にも、中国との系譜は看取できない(荒川千恵2005)という所見もある。

 弥生、古墳時代の出土弦楽器に、正倉院の和琴に類似するものがあり、それが和琴の成立にどのように係わっているか、その間における大陸文化との関連性などを研究する必要があるが、それには類例の集成による分類、実証的な観察、分析と編年学的研究が望まれる。大陸文化の影響や比較を行う前に、国内の研究を確固たるものにすることが先決であろう。

 

5 結論

 先史日本の縄文文化に、弦楽器とそれを奏でる音楽文化が存在したと考える。

 誰が見ても、是川中居遺跡の縄文晩期の縄文琴と香川県井手東T遺跡(高松市 1995)の弥生時代中期の出土弦楽器との類似性は、一目瞭然である。相違点は、突起2本と4本、先端部の2本刻み目、2孔と集絃1孔でしかなく、後者が弦楽器なら、前者を弦楽器としない理由は成立しない。これで縄文琴が弥生琴の祖形の一つであることが立証できる。しかし、弥生琴の形態構造は中期以後複雑化と多様化しており、系譜は多元的であると考える。それは、今後の研究課題である。

 縄文琴の用途に関して、上記書により歌謡と共に用いるシャマンの楽器という仮説を提起した。先住民族のアイヌ文化のシャマンがトンコリを用いて神謡を歌い、シベリア民族誌にもシャマンが弦楽器を使う記述がみえ、先史の音楽は信仰と密接に係わり歌謡と共に用いられたと考える。やがて弥生から古墳時代に、さまざまな文化的要素が取り込まれて発達し複雑化していると考えるものである。

 

荒川千恵 2005 「筑形木製品の研究」『北海道大学大学院文学研究科研究論集』5

  岡崎晋明 1985 「縄文・弥生時代の音」『末永先生米寿記念献呈論文集』乾

 笠原 潔 2004 『埋もれた楽器』

 岸辺成雄 1981  「近年発掘されたコト()」『季刊邦楽』26

  岸辺成雄 1984 『天平のひびき 正倉院の楽器』

工楽善通 1989 『弥生人の造形』『古代史復元』5

国立光洲博物館 2002 『光州 新昌洞低湿地遺跡 U』

笹森健英 1982 「青森県の縄文時代の楽器」『青森県の伝統音楽資料集』

鈴木克彦 1978 「縄文琴について」『青森県立郷土館だより』9-2

鈴木克彦編 2012 『縄文琴の研究』

高松市 1995 『伊手東T遺跡』

田辺尚雄 1926 「倭琴の起源と其の系統に就て」『東洋学芸雑誌』42-1

奈良文化財研究所 1993 『木器集成図録 近畿原始編』

林謙三 1958 「和琴の形態の発育経過について」『書陵部紀要』10

水野正好 1980 「琴の誕生とその展開」『考古学雑誌』66-1 他、文献省略

 

 

【傍聴記】(執筆:木村直弘) 

 当初の予告では、支部会員の笹森氏と、氏が所長を務める弘前学院大学地域総合文化研究所の客員研究員である鈴木氏の連名での1発表であったが、当日の発表は、前半にレプリカの実演(学生会員の下田雄次氏)を伴う笹森氏の各論、後半に鈴木氏の総論という2本立て構成で、それぞれ45分を超える中身の濃い内容であった(内容からすると、鈴木氏の次に笹森氏という発表順の方が聴き手にはわかりやすかったと言えよう)。その眼目は、1978年に鈴木氏が提唱した是川中居遺跡出土の篦状木製品が縄文時代の琴ではないかという説に対する考古学および音楽学における否定論・慎重論への実証的反論である。

 1979年以降多くの肯定論があったにもかかわらず、それぞれの学界で影響力を持つ人物が否定論者・慎重論者であったがゆえ、依然として非楽器説がまかり通っているという状況に「けりをつける」ため、両氏は2009年以降青森市学術基金等からの研究助成を受け実測図やレプリカを作製し、それをふまえたさまざまな比較研究を行なってきた。その結果、この篦状木製品が板型弦鳴楽器(ザックス=ホルンボステルの楽器分類番号で言えば、314.11)に当たることを実証し、本年2月に『縄文琴の研究』という研究報告書を上梓したという経緯がそこにはある。

 たしかに、門外漢にとっても、是川の篦状木製品ときわめて類似している香川県井手東T遺跡の篦状木製品が両学界で弦楽器(弥生琴)として異論なく認められているという事実をふまえると、是川の篦状木製品も「型式学」的に「縄文コト」として理解されてよいという両氏の主張には、説得力があるように思われる。

 たとえば、否定論が依拠する一例、滋賀県松原内湖遺跡の縄文時代の篦状木製品について提唱された機織具の緯打具(刀杼)説の当該論文(http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/09_matsuzawa.pdf)を読む限り、その記述において、山口庄司氏がレプリカによる実験からそれが音階も出すことも可能な弦楽器であると実証した結果を紹介し「琴としても使える」と認めつつ、形態と使用痕跡の二つの面から琴説は採らないとしていることには、論の展開上、疑問が残ると言わざるをえない。

 また、鈴木氏によれば、考古学者・水野正好氏の「琴は弥生時代に大陸から伝来した」という大前提から全てを演繹的に考察しようとするスタンスが否定論に影響しているということだが、むしろ、今回の発表が門外漢の我々に対して投げかけた問題は、楽器/非楽器論争を例にとった、学界における学説形成の不思議の方だったかもしれない。「出土琴と篦状弦楽器の研究」で博士学位を得た故笠原潔氏(慎重論者とされる)からのコメントは残念ながらもはや叶わないが、幸い支部会員には、楽器考古学の専門家(北海道大学の荒山千恵氏)もいらっしゃるので、今後、その御意見をうかがう機会があることも期待される(蛇足ながら、例会参加者の中には、関東から青森への途上、前もって八戸の是川縄文館を訪れて実物を目にされてきた支部会員がいらっしゃったことも付言しておこう)。