東日本支部通信 第11号 電子版

(第11回定例研究会 発表要旨および傍聴記)

11回定例研究会
   : 2012714() 午後2時〜5
   : 青山学院大学 青山キャンパス 11号館 3 1134教室

   : 那須 輝彦 (青山学院大学)

 

   <修士論文発表>

1. 徳川将軍家の追善儀礼と音楽> 

-江戸時代初期の日光東照宮年忌法会を事例として- 

        服部 阿裕未 (東京藝術大学大学院)

2. 日本における西洋楽器の受容と製造 

-明治23年から昭和18年の雑誌広告に基づく研究-

        澤田 宏美 (東京音楽大学大学院)  

3. ミャンマー古典歌謡のジャンルとサウン・ガウの旋律型 

        ス・ザ・ザ・テ・イ (東京藝術大学大学院)

4. 十九世紀和声論におけるヘーゲルの影響

-ハウプトマンを題材に-                   

岡野 (東京大学大学院)

5. フランス国営放送RTFによる芸術音楽の普及(1948-1964) 

-その実践と理念の対照研究-

        平野 貴俊 (東京藝術大学大学院)

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1. 徳川将軍家の追善儀礼と音楽> 

-江戸時代初期の日光東照宮年忌法会を事例として- 

          服部 阿裕未 (東京藝術大学大学院)

【発表要旨】

本研究は、徳川将軍家の追善儀礼と音楽に関する基礎研究として、江戸時代初期に日光東照宮で行われた徳川家康の年忌法会の実態を描き出すことを目的とする。

 慶長8年(1603)徳川家康は征夷大将軍に就任し、260年に及ぶ徳川家将軍家の統治が始まった。しかし、伝統的な王としての権威(王権)は依然として天皇家が保持しており、徳川家の正統性を示し、安定した治世を続けていくためには、天皇家に並ぶ権威を必要とした。そのため徳川家は、天皇権威を形作ってきた文学、美術・音楽・儀礼等の伝統を手に入れ、初代家康を神格化してその子孫の正統性を意味づけた(松島仁:2011)。こうした徳川王権に関する研究は、近年多方面で蓄積されてきたが、音楽に関する研究はまだ十分ではない。

江戸時代前期に幕府が積極的に音楽を用いたのは、初代家康をはじめとする歴代将軍の追善儀礼、祖先祭祀である。先行研究(小川朝子:1998)では、将軍主宰の盛大な年忌法会は、雅楽や舞楽を奏演させることで、権威補強や権力誇示の場として機能したと指摘されている。しかし、個々の法会の実態は未だ不明瞭である。

これらの祭祀と音楽の流れを見ていくため、本研究ではまず初代家康の年忌法会に着目した。元和2年(1616)に没した家康は、遺言により、東照大権現の神号を得て一周忌に日光山へ鎮座した。以後、江戸時代を通して二百五十回忌まで年忌法会が続けられたが、本研究が対象としたのは、一周忌から五十回忌までである。

二代将軍徳川秀忠の治世下(三回忌、七回忌、十三回忌)には、法会形式はまだ流動的であるが、徐々に祭礼に付随した法会が整っていった。三代将軍徳川家光は、東照大権現の神格及び祭祀の格式を高める事業(日光・紅葉山楽人創設を含む)を進めた。法会は純粋な追善供養(秀忠期)から神への祭祀(家光期)へと転換していったと考えられる。また二十一回忌法会をもって、芸能色豊かな神輿渡御祭に始まり、雅楽及び舞楽を備えた宸筆御経供養、曼荼羅供などにより構成される「三箇日の法事」が確立した。これは以降、年忌法会の核として継承される。第4章では、三十三回忌法会における法華八講の導入と五十回忌万部会の概略を述べ、三十三回忌こそが東照宮祭祀の目指す頂点であったこと、五十回忌からは紅葉山楽人など当事者に関する記録があること、また万部会と御懺法講の関連性について言及した。

本研究から、徳川将軍家の追善儀礼と、絶大な音楽的視覚的効果をもつ天皇家の二つの追善儀礼、すなわち法華八講と御懺法講との関連性が浮かび上がった。今回は、この問題について概略を示すにとどまったが、今後調査を進め、徳川将軍家の追善儀礼、祖先祭祀を、国家儀礼及び雅楽復興の歴史上に位置づけることを次なる課題とし、論を結んだ。

 

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【傍聴記】(執筆:澤田篤子)

 

日本への仏教伝来以来、仏教の各派やその儀礼・声明の種類が生成・交差・分化し続ける古代・中世、伝統を保持しつつ新たな展開を模索する近現代、これらに対する斯界の研究成果は古くから蓄積されてきた。一方、その狭間にある江戸期はこれまで看過されがちであった。この時代は寺家諸法度のもとに、仏教教団が幕府の支配下に置かれ、生きる者への布教といった大乗仏教の本来の役割が失われていく時代であり、各寺では追善儀礼が重んぜられ、南都の寺でも東照権現忌、誰某院殿御忌等々、数多く行われていた。本研究はそのような時代に注目し、徳川王権樹立という視点から、日光東照宮における神仏習合による追善儀礼とその音楽等の内容を考察したものである。
 発表の肝要は、二十一回忌の仏事を軸に神式を加えた2週間余にわたる儀礼の構成、および核となる「三箇日」とその内容である。「三箇日」ではあたかも法会の百貨店の如く多種の法会が行われ、さらに多種多様の音楽・芸能が加わる。新たな時代の権力が、儀礼・芸能を寄せ集め、量でその権威を誇示しつつ、質的には前時代的な手立てに依存したことは興味深く、これらの過程を発表者が克明に記述し、整理したことは大いに評価されよう。
 この追善儀礼は、古代において律令制の衰退と共に形骸化し、ついには滅んだ国家儀礼「御斎会」を思い起こさせる。二十一回忌で構成が確立した後、儀礼の種類が変わっていくとのことだが、この変遷を丹念に読み取ることで、徳川王権の樹立・凋落と儀礼との関わりが描き出されるのではないか。今後の研究の進展を見守りたい。

 

 

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2. 日本における西洋楽器の受容と製造 

-明治23年から昭和18年の雑誌広告に基づく研究-

          澤田 宏美 (東京音楽大学大学院)  

【発表要旨】

 本研究は、日本でどのように西洋楽器が受け入れられ、製造されるようになったかを雑誌広告を基に探る試みである。今日、ピアノやヴァイオリンといった西洋楽器はすっかり我々の生活に溶け込んでいるが、これまでどのような過程で西洋楽器を受容し国内でその製造が行われるまでになったのだろうか。それをとらえるため、本論文では明治23年〜昭和18年の雑誌広告を研究対象とし、日本製の楽器や西洋製の楽器の広告の様相、また広告掲載主である楽器販売会社や製造会社にどのようなものがあるか、またそれがどのように変化したかを検討した。調査には、音楽の総合雑誌である次の9誌、『音楽雑誌』(明治23年〜31年)、『音楽之友』(明治34年〜40年)、『音楽新報』(明治37年〜40年)、『音楽界』(明治41年〜大正12年)、『月刊楽譜』(大正元年〜昭和16年)『音楽新潮』(大正13年〜昭和16年)、『音楽世界』(昭和4年〜16年)、『音楽之友』(昭和16年〜18年)、『音楽公論』(昭和16年〜18年)を中心に用いた。

 第一章、第四章および第五章において、楽器の種類と傾向、広告主が販売会社であるか製造会社であるか、デザイン上の特徴といったそれぞれの観点から、時期的に区分することを試みると、数年の違いはあるものの、概ね同じ時期で3期から4期に分けることができた。第1期は明治23年から明治41年〜44年頃で、楽器の中心はオルガンであり、オルガンを教育用品と捉えるなど、今日とは大きく異なる音楽観が存在した時期であった。第2期は明治42年頃〜45年頃から大正1112年頃で、広告上ではオルガンに代わってピアノが中心となった。徐々に「楽器」などへの認識が統一されつつある中で、マンドリンやハーモニカといった楽器が流行した時期でもあった。第3期は大正1213年頃から昭和18年までであり、ピアノなどに加えてハーモニカやギター、アコーディオンといった趣味で用いる楽器が台頭し、様々なジャンルに分かれていく傾向が見られた。雑誌の掲載量と製造・販売会社という観点から見ると、このうち昭和16年から昭和18年までを第4期ととることができ、この時期には戦争の影響が色濃く出ている。

 これらの時期区分に加え、第二章では楽器の広告への掲載量の調査を行ったことより、上記の考察を数値面からも裏付けることができた。また、第三章において、オルガン、ピアノ、ヴァイオリン、マンドリン、ハーモニカ、アコーディオン、ギター、管楽器、弦楽器といったそれぞれの楽器における時期的特徴や社会的背景について述べ、上記の考察により深みを持たせることができた。

 本研究は雑誌広告を基にしたものであるため、あくまでも大まかな時期区分と傾向を示すものであり、当時の音楽を取り巻く実際の環境を事細かに明らかにしたものではないが、雑誌における楽器広告という切り口から、洋楽受容の流れと特徴を明らかにすることができた。

 

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【傍聴記】(執筆:澤田篤子)
 資料を音楽雑誌掲載の広告に限定し、3つの時期に区分して、楽器の種類と掲載数の変遷、製造・販売会社、広告のデザインの各側面から分析し、洋楽受容の流れと特徴と明らかにするという研究である。対象とした広告の総数は7千件を優に超え、発表者のその地道な努力には感服する。第2期の「ロマンチックな雰囲気」のデザインが紹介され、なるほど「大正ロマン」と、納得するなど、具体的で分かりやすい発表であった。
 ただ、時期や楽器の区分の根拠、政治や社会との関係性には触れなかったことについて、フロアからも疑問が投ぜられた。時期については3期に分け、さらに第3期を2分して計4期に区分したが、その区分の根拠が明確には示されなかったのは残念だ。たとえば第4期については東条英機内閣の組閣等、具体的にあげるべきであった。また合奏用楽器と日清・日露戦争との関係性について問われたが、戦争については考慮していないとの答えであった。さらに、そもそも楽器を教育用・趣味・合奏用に3分したことが有効であったかとの疑問が投ぜられた。
 雑誌広告の量から洋楽器の受容を判断することは危険であろう。フロアからは売れないときこそ広告量が増える、実際の使用状況と広告量とは一致しないなどの意見が出された。
限定された資料の読み取りに留まることなく、さらにその結果を他の因子と関わらせて分析することがこのような定量的研究には不可欠である。個別の楽器を対象とした研究はあるが、このような楽器全般を通じた研究は少ないので、このデータをもとに、さらに考察を深められることが期待される。

 

 

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3. ミャンマー古典歌謡のジャンルとサウン・ガウの旋律型 

          ス・ザ・ザ・テ・イ  Su Zar Zar Htay Yee (東京藝術大学大学院)

【発表要旨】

ミャンマー古典歌謡の旋律型と歌謡の伴奏に用いられるサウン・ガウと呼ばれる竪琴の旋律型との関係を明らかにした修士論文の内容について発表する。

 現在ミャンマー古典歌謡と認識されているレパートリーは、18世紀中頃から19世紀の後半にかけて存在したコンバウン朝時代の宮廷音楽家が作曲したものである。ミャンマー古典歌謡には楽器の伴奏が伴う。伴奏楽器の中で、旋律のサポートに最も重要な役割を果たす楽器がサウン・ガウと呼ばれる竪琴である。本論文では旋律型に注目することによって、ミャンマー古典歌謡の各ジャンルの音楽的特徴と成立過程、さらには歌唱とサウン・ガウの伴奏との関係を明らかにした。

 本論文は、序論、本論五章と結論から構成されている。序論では、用語の定義を明らかにした後で、先行研究の成果を踏まえ、私が研究テーマに、どのようにアプローチするのかを検討した。第一章では、ミャンマー古典音楽の基礎知識をまとめた後で、サウン・ガウの学習プロセスについて論じた。第二章では、サウン・ガウの調律種と古典歌謡のジャンルとの対応関係について考察した。調律種としてどのようなものが用いられているのか、またそれぞれの歌謡ジャンルがどの調律種に基づいて演奏されるのかについて明らかにした。第三章では、それぞれの歌謡ジャンルに特徴的な旋律型について考察した。ミャンマー古典音楽の演奏家が用いる旋律型には、アライッ、アトー、テイ・テヤー・タッ、アトゥウィンドー、タピャンという五つの種類がある。本論文では、それぞれの旋律型がジャンルによってどのように異なるのか、また相互に類似するものがあるのかを検証した。第四章では、歌謡ジャンルがどのように形成されたのかについて、旋律型に関する音楽分析に基づいて考察した。第五章では、声と楽器の「ずれ」という問題について考えた。骨格が同じ旋律型であっても、歌手とサウン・ガウ奏者は「ずらす」ことを楽しんでおり、このやり方が、ミャンマー古典音楽の演奏の魅力の一つでもあることを指摘した。

 

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【傍聴記】(執筆:福中冬子)

当研究は、発表者による要旨によれば「ミャンマー古典歌謡の旋律型と歌謡の伴奏に用いられるサウン・ガウと呼ばれる竪琴の旋律型との関係性を明らかにすること」を目的とするものである。ミャンマー古典歌謡という、あまり馴染みのないジャンルを研究対象とすることで、日本の音楽民族学に新たな奥行きを与える貢献の可能性を示唆する一方で、そもそもその関係性の検証(あるいはそれを打ち立てる為の仮説構築)がどのような作業なのか――明文化されていない何らかの創作美学(あるいはエトス論にも似た作用理論)を創作史の検証を通じて掘り起こす作業か、構造化された何らかの聴取体験を促す演奏実践の存在を実証するための理論の構築作業か、あるいはそれが伝承されてきた教示プロセスの「イデオロギー」を明示する作業なのか――、発表者が十分に認識しているかどうか、いささか疑問が残る発表であった。本研究のように比較的認知度の低いジャンルを対象とする研究ほど、研究者自身が選択した検証範囲およびプロセスを通じて「何を新たに明らかにしたいのか」が強調される必要があるのではないか。おそらく修士論文を読めば、本研究が「単なる一音楽事象の紹介とその詳細な分析」でないことは明らかなのであろうが、少なくとも発表においては伝わって来なかったのは残念である。

 発表者自身がサウン・ガウの奏者であり教員でもあるということだが、それは大きなアドヴァンテージであると同時に、意識的にアウトサイダーの立場から検証すべき事象も多々あるであろう。日本の大学に籍を置いての研究が、そうした客観化に益するものであることを期待したい。

 

 

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4. 十九世紀和声論におけるヘーゲルの影響 

-ハウプトマンを題材に-                  

岡野 (東京大学大学院)

【発表要旨】

今回の発表で発表者は十九世紀ヨーロッパにおける和声理論にたいしてヘーゲルの哲学がいかなる影響を及ぼしたかについて、モーリッツ・ハウプトマンの和声理論を題材として考察することを目指す。ハウプトマンの和声理論にたいするヘーゲルの影響は以前より指摘されていたが、発表者はそれらとはことなった解釈をおこなうことで、より明晰に彼の理論を理解するとともに、その独自性をも浮き彫りにしたいと考えている。

モーリッツ・ハウプトマン(17921868)は十九世紀なかばにライプツィヒで活躍した音楽家であり、その活動は多岐にわたるが、とりわけ高名なのはその音楽理論書によってである。ただ、その理論は、例えばフーゴー・リーマンや後の機能和声論などにも影響を与えながら、つとに難解で知られてきたものでもある。その難解さの一因がそこに付きまとう「観念論的」「形而上学的」思考であり、これが彼の論にある種の時代性を刻印することになった。

多くの先行研究では、ハウプトマンはヘーゲルの『論理学』ないし『哲学体系』の枠組みを参照することで、その理論を築いたものとされている。発表者もまた彼が上記文献を全く知らなかったとは考えない。しかし、そのような解釈、とりわけ論理学における「存在−本質−概念」枠を用いた解釈では、彼の論の多くの箇所が理解不能となってしまうことも事実である。彼はしばしば、ヘーゲルを不的確に参照しているという批判を受けたが、こうしたこともこの無理解の一因となっていた。

発表者の考えでは、ハウプトマンの理論に強い影響を及ぼしているのは、むしろ『精神現象学』における「直観―懐疑―確信」の図式である。周知のように、ヘーゲルによって『精神現象学』は『論理学』の前段階とされ、そこでは素朴な「意識」が懐疑を経て、だんだんと普遍性を獲得してゆくさまが描かれていた。発表では、ハウプトマンの理論において「和音」「音階」「調性」といったさまざまな音楽的事象がまさに生成してくるさまを跡付けてみようと思う。なお、このような意図を持つ発表であるため、この論のながれにかならずしも乗ってこない彼の主張、すなわち長短二元論に関するものは考察から除外される。

最後に発表者は彼の論がもっている独自性について考察をおこないたい。そもそもヘーゲルの『精神現象学』が有していた特質、すなわち観察者の意識によって、同じ対象が異なった仕方でみえるという洞察がハウプトマンに受け継がれたとき、とりわけカデンツにおいて我々がもつ「調体験」のある面が明らかにされていると考えるのである。

 

 

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【傍聴記】(執筆:瀬尾文子)

 

M. ハウプトマンの和声理論にヘーゲル『精神現象学』からの影響を指摘し、そこに積極的な意味を見出そうとする発表。ハウプトマンは、バッハ復興期のトーマス・カントルで実践家でもあったが、その彼の音楽理解の根底にある一思想の意義を追究した研究とも言える。岡野氏は、今回の発表の意義(先行研究とは別のヘーゲルの著作に注目し、その哲学の影響をより的確に指摘すること)と、限界(ハウプトマンの理論の一面に着目したに過ぎないこと)に自覚的であり、その点で信頼感のある発表だった。

 さて、我々の最大の関心は、観念論的な概念や思考が、感覚的な現象の実証主義的研究とどう結びつくのかにある。岡野氏はこれを必要最低限、明快に説明してみせた。すなわち、オクターヴ、五度、三度の関係、主和音に対する属和音と下属和音の関係、不協和音の解決、終止形の役割などが弁証法的な思考のうちに理解されること、そして、この「音程」「和音」「音階」「調性」という音楽的事象の高次化が、『精神現象学』で語られる意識の高次化の運動と重なること。この説明によって例えば、T-X7-Tの終止形の二つのTがなぜ違って聞こえるのかという具体的な聴体験の問題が、観念論的な問題として解答されることになる。

 だが、最大の論点は十分には説明されなかったために、フロアから本質を突く同種の質問が出た。つまり、ヘーゲル哲学を援用することで原理の説明は成功したかもしれないが、それ以上の新しさがあるのかどうか。岡野氏は発表の最後で、後年の理論家への影響を検討することを今後の課題として述べていた。19世紀和声論の全体を見渡そうとする意思は、発表題目にも表れている。それが突破口となるかもしれない。

 

 

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5. フランス国営放送RTFによる芸術音楽の普及(1948-1964) 

-その実践と理念の対照研究-

   平野 貴俊 (東京藝術大学大学院)

【発表要旨】

ピエール・シェフェール、ジャン・タルデューら芸術家・文化人の主導により第2次世界大戦後に設立されたフランスの国営放送局フランス・ラジオ放送・テレビジョン Radiodiffusion Télévision françaiseRTF、運営期間1948-1964)は、ラジオの音楽番組の制作責任者アンリ・バローHenry Barraud (1900-1997) による監督の下、独自の方針に沿って芸術音楽の普及を積極的に行った。本研究の目的は、これまで十分に考察されてこなかったRTFによる芸術音楽の普及に焦点を当て、その理念と実態の両面を明るみに出すことにある。

放送局の設立に際してバローを始めとするRTFの幹部は、芸術音楽普及における最も基本的な方針として、過去および同時代のフランス音楽を多く取り上げることに重点をおいた。こうした方針が定められた背景として、戦時中のフランスでドイツ軍の放送局が対独協力を求めるプロパガンダを大々的に行ったことに対するフランス文化人の反動を指摘することができる。RTFの幹部はまた、放送等で扱われる音楽作品のレパートリーを拡充し、芸術音楽の多様な側面を聴取者に伝えることを重視した。バローは、この二大方針に基づき芸術音楽の諸相を網羅的に紹介することが聴取者の知的水準の向上に寄与すると考えていた。

RTFの音楽活動が以上の方針に基づいて行われたことを裏づけるのは、放送で扱われる作品や番組企画を審査した音楽委員会の議事録と、作曲家への委嘱に関する内部文書である。同委員会の補助的会議として開かれた査読・試聴会では、世界各国からRTFに送られる新作のスコアが放送に値するか否かという観点から審議され、レパートリー開拓への努力が行われていた。また、バローやデュティユーから委嘱を受けた作曲家の中には、同委員会委員を務めた作曲家や査読・試聴会ですでにスコアが審議された作曲家が多く含まれていた。査読・試聴会がフランスの若手作曲家にキャリア形成の機会を提供していたことは、同時代のフランス音楽の振興にRTFが寄与したことを示している。

しかし、1950年代半ばから1960年にかけて芸術音楽番組で放送された曲目を検証すると、レパートリーを拡大しつつ同時代のフランス音楽を重視するという設立当初の方針が次第に形骸化していったことがわかる。ラジオのチャンネル「パリ=アンテル」では、FMチャンネルが開設された1954年を境として、芸術音楽の放送が大幅に減少した。パリ=アンテルと反対に芸術音楽の放送時間を増やしたFMチャンネルでは、バッハやベートーヴェンなどいわゆる「大作曲家」の作品が頻繁に放送された。こうした放送内容の多様性の減少は、テレビ放送における再放送の定期化、テレビとFMチャンネルとの横断的な同時ステレオ放送の開始によって一層顕著となった。

1950年代後半、FMとテレビという新たなメディアの登場がRTFの幹部に要請したのは、フランス音楽の威光と芸術音楽の多様性を示すことから聴取者の趣味に沿ったレパートリーを定着することへ普及の方針を転換することであった。

 

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【傍聴記】(執筆:佐藤英)

 

 平野貴俊氏の研究発表は、1948年から1964年にかけてのフランス国営放送(RTF)が芸術音楽の普及に際して果し得た役割について、内部文書や番組表などの多様な資料の分析を通じ、実証的に検証しようとするものであった。今回の発表では、フランス現代音楽の普及を目指すRTF幹部の方針があったにもかかわらず、現実には視聴者に受け入れられやすい「大作曲家」の作品が数多く取り上げられていたという、「理念」と「実践」の乖離に焦点があてられていた。

 発表を聞いて気になったのは、番組表をもとに放送の「実践」を検証する際に、オーケストラの作品を中心に考察が展開されたことだった。質疑応答でも指摘があったように、ソリストや小規模なアンサンブルによる現代作品もある程度考慮しなくては、当時の放送の実情を正しく把握できないのではないだろうか。例えば、オーケストラ以外の番組をいくつか取り上げて曲目を分析するなど、違った角度から論を補強する資料がもっと提示されていたならば、より説得的な発表になったように思われた。なお、プレゼンテーションそのものは、かなりの情報量をもつ内容ではあったが、配布資料とパワーポイントを効果的に用いて要点を手際よく伝える、見事なものであった。

 今回の発表の最後では、今後の研究の展望についても詳しく述べられていた。1960年代以降のフランス公共放送の現代音楽普及活動について、国家レベルの音楽政策との関わりや、メディア論的視点などから考察を行ってゆくそうである。音楽放送に関する研究は決して多くないだけに、平野氏の今後の研究の進展に大いに期待したい。