東日本支部通信 第一号 電子版

(第1回定例会 発表要旨および傍聴記)

 

東日本支部 第1回 定例研究会

日 時 2011514() 午後2時〜5

場 所 東京藝術大学音楽学部 5号館 4 401

     (110-8714 台東区上野公園12-8)

    「上野」駅 公園口、「鶯谷」、「根津」駅下車、徒歩約10

司 会 佐藤 望 (慶應義塾大学)
 
研究発表
1.オーラリティ再考
 -現代韓国社会における芸能の選択可能性
 田中理恵子 (東京大学大学院博士後期課程)
 
修士論文発表
2.音楽の拍節モデルについての研究
 大高 誠二 (東北大学大学院)
 
3.ルソン・ド・テネブル -その舞台と論争
 川田 早苗 (東京藝術大学大学院)
 
4.テレマンのレチタティーヴォにおける混合様式
 -《フランス年巻》(1714-15)と《マタイ受難曲》(1746)を対象に
 佐藤 康太 (慶應義塾大学大学院)
 

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発表要旨

研究発表

1.オーラリティ再考 −現代韓国社会における芸能の選択可能性−

田中 理恵子

 東京大学大学院 博士後期課程(文化人類学)

この発表では、韓国の民衆的な芸能・音楽「プンムルP’ungmul」を事例として、芸能・音楽に携わってきた人々の「実践」の体系(=伝統的知識)が、現在どのように伝えられているのか、その「現代」的諸相について検討する。その目的は、芸能・音楽の継承過程を詳細に検討することで、概念としての「口頭性」について考察することにあり、さらにこの問題が、芸能・音楽の実践を民族誌的に考察する上での根本的な問題を提起しうることを指摘することにある。

はじめに、口頭性の概念について確認する。その最も一般的な捉え方は、メディア論者W・J・オングらが、「書く」ことが発明された以降の文化を、「口頭性」と「書記性」に二分した方法だろう。この二分法の問題点は、書記性が「文字」という記号媒体を想定しているのに対し、口頭性の媒体については明示できないことにある。そこでは、「非文字」の領域に本来含まれる―音声言語だけではなく、身振り、しぐさといった―より非記号的・非明示的諸相が見落とされることになる。これに対し、古典学者E・A・ハヴロックらは、プラトン思想を批判的に引き継ぐ形で、口頭性の領域を、物理的運動に支えられた思考や心性に関わるものとして転換する。これらの議論は、「非文字」の領域に、広義の「口頭性」の概念を展開することの可能性を示唆している。

次に、一次データとして「プンムル」の継承の場面を取り上げる。芸能・音楽の口頭伝承は、技芸の「規範」のもと、指導者に従って、「まねる」「くりかえす」実践の表象として捉えられてきた。しかし実際の場面では、単純な反復演奏は全く行われていないこと、さらに、受け継ぐはずの規範と継承の実践には、ずれが生じることが指摘できる。そこには、今日の韓国の芸能が置かれる現代的両義性―規範という超個人的な原理と、その秩序を参照点としながらも、どのように技芸を伝承したらよいのか、その選択を迫られる芸能者一個人の存在―がせめぎあう、継承の動態的な諸相が浮かびあがる。

このことから、「プンムル」を構成する規範、芸能者らの在り様は、この事例においては流動的(=非同一的)であるといえる。その上で、この芸能・音楽の規範(いわば彼らにとっての「同一性」)を検討するならば、彼らが音を選択する基準には、楽器、技芸、芸能者それぞれの間にある関係性が重視されることがうかがえ、プンムルの技芸が、これらの関わりのなかで、いわば民族誌的に形づくられる諸相が垣間見られる。このように考えた時、継承の基盤としての「口頭性」の連鎖は、単なる技芸の伝達手段ではなく、芸能・音楽の実践とその集団を支える、「存在」の様式と関わってくるのではないだろうか。そして「口頭性」をめぐる問題群は、狭義の芸能・音楽的考察の範囲を超えて、現代を生きるわれわれにも及ぶ口頭性の諸相について再考を迫り、様々な問題を提起しうると思われる。

 

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傍聴記(執筆:金光真理子)

 

田中氏の発表はオーラリティ概念をめぐる理論的再考と事例研究との二部構成で、前半ではオーラリティとして、書き言葉に対置される音声言語だけでなく、身ぶりやしぐさに基づく思考や心性をも考察する必要性が論じられ、後半では韓国の伝統芸能プンムルを例に、オーラリティの現代性として、芸の規範が師から弟子へ伝承される一方通行の関係ではなく、その三者が相互に影響を与えあう相関関係にあることが明らかにされた。

 前半の理論的再考は明快で、後半の事例研究の結論も至極明瞭であった。にもかかわらず、フロアからより深い議論の必要性が問われた他、芸の規範をめぐって師、楽譜、録音それぞれがどの程度の規範性を持つか具体的に問う質問が挙がったのは、結論よりも、むしろそれへ至るプロセスが判然としなかったからかもしれない。現代性とされる(規範・師・弟子の)相関関係を生じさせている現代的要因がはっきりとせず、それゆえ相関関係が本当に現代に特有と言えるか疑問が残ったし、前半の理論的再考を踏まえれば、身体表現そして思考がどのように芸能へ昇華されるかを聞きたかった。発表時間の制約があったことは否めず、質問への発表者の回答から、プンムルの師弟関係が(日本の芸能におけるように)厳格ではないことや、楽譜の限定的な使用や録音の賛否両論についても分かり、興味深かった。フィールドワークと分析・考察の両輪が充実した研究であるだけに、今後の成果を期待したい。

 

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修士論文発表1

2.音楽の拍節モデルについての研究

大高 誠二 (東北大学大学院)

 

 この研究は、音楽の比較的小規模な構造、すなわち一般にペリオーデ(大楽節・楽段)と呼ばれるレベル程度までの構造を分析する際に用いる、基本的な構造モデルを確立することを目的としている。なおこのモデルは、現段階では西洋音楽においてcommon practice eraと呼ばれる1600年から1910年の範囲の時代の音楽、またはそれに準じた様式を持つ音楽に適用することを想定したものである。

 この規模の構造を論じるためには、しばしば音のグルーピングとして定義されたリズムの概念が用いられるが、その一方で拍節の概念は単なる強弱の問題として簡素に扱われがちである。本研究ではまずP.ベナリーの意見を参考にして、拍節をリズムとは異なる性質を持った一種のグルーピングとして捉えてその性質の考察を行った後、バロック時代以来の研究の流れを概観した上で19世紀末のリズム研究とりわけM.リュシーの研究を元にモデルの構築を試みた。

 クーパーとマイヤーはグルーピングとしてのリズムの概念を議論する際に、音の強弱に限定されない一般的なアクセントの概念を提唱しており注目すべきである。しかし一方で彼らの拍節の捉え方は「アクセント間のパルスの数を測定すること」という極めて簡素なものである。またそこでは音の刺激そのものと拍節の存在を直接結び付けている点が問題となる。例えば拍節の頭に音が存在しない場合にも拍節が開始しているという感覚が生じるため、拍節は具体的な音の背後にある構造と考えられなければならない。拍節とは単に音の強弱の違いがあるということではなく、強弱を含めた様々な刺激から人間がそこにあると解釈することによって初めて音楽に与えられる一種の心理的な構造であると言える。拍節は「枠」のイメージで捉えることができ、枠同士の関係を感じる地点を構造上の結節点として「重く」感じることになる。その「重さ」が強拍と呼ばれるものの本質となる。

 この拍節の考察とグルーピングとしてのリズム概念を用いて、バロック時代以来の音楽の時間的側面に関する研究の歴史を概観してみると、拍節に関する研究が十分に成熟した後に、19世紀に入ってリズムの研究が可能になってきたという流れを読み取ることができる。本研究が注目するM.リュシーのリズムのモデルはそうした拍節を基礎としたものの一つということができる。ただしそうしたモデルは一般的に、考え方がリズム的か拍節的かのどちらかに偏る傾向があり、リュシーは階層性などの拍節的な性質を多少犠牲にしている。本研究ではその原因がグルーピングが1種類しかないという思い込みにあると考え、リュシーのモデルを元にしてグルーピングの二重性を考慮した新しいモデルの構築を試みた。このモデルではリュシーの言う支柱(イクタス)2つ持つリズムは、拍節の階層性に従って支柱を1つリズムを2つ並べたものと対応付けられる。

 

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傍聴記(執筆:永岡 都)

                      

 2番目の発表は、新しく発足した「東日本支部」の第1回定例研究会にふさわしく、東北からの若手研究者の登場となった。大高氏の研究は、ペリオーデのような比較的小規模な楽曲構造を分析するのに有効な拍節モデルを、リュシーのイクタス理論の修正案として提起しようとするもの。バロックから古典派・ロマン派までの音楽を対象に、一般的な音楽構造のモデル構築を目指すという点で、基礎的研究の部類に入るものであろう。リズムと拍節の語義の確認から始まった考察は、ベナリーの理論をヒントに、拍節をリズムと異なるグルーピング構造(=心理的な枠構造)と捉え、音楽を聴く際に働くリズムと拍節の二層のグルーピング構造に着目しながら、最終的にはリュシーのイクタス(リズムの重心)とテシス(各小節の第1拍)の概念を統合することで、さまざまなリズムが解釈可能と結論づける。しかし、これほどシンプルで基礎的なモデルを提案するには、それなりの根拠が求められるのは当然で、フロアからは「先行研究の調査が不足していて研究の位置づけが明確でない」、また「文化的背景を無視している(バロック音楽もドイツとフランスではリズムの感じ方が異なる)」といった厳しい指摘が出された。大高氏は率直かつ謙虚にそれらの指摘を認めておられたが、プレゼンテーションの方法として、簡略化したモデル図だけでなく、もっと具体的な音楽例の提示が欲しかったし、氏の拍節モデルがどのようなアナリーゼの局面で役立てられるのか(リュシーやベナリーのリズム理論は演奏表現を視野に入れた実用的な理論なので)、明快にされた方が良かったのではないだろうか。ともあれ、刺激的な意見交換は楽しかったし、大高氏の今後の研究の進展に期待したい。

 

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修士論文発表2

3. ルソン・ド・テネブル −その舞台と論争

  川田 早苗(東京藝術大学大学院)

 

ルソン・ド・テネブルは、エレミアの哀歌をテキストとして作曲され、復活祭直前の聖なる三日間の聖務の第1夜課で歌われた。この3日間の聖務は、本来、真夜中に行われ、聖務中にろうそくが1本ずつ消され、教会が徐々に闇に包まれていくことからテネブルと呼ばれた。イエス=キリストの受難、死そして復活を記念する喪の雰囲気に支配され、本来は音楽も自粛されるべき時期であった。にもかかわらず演奏されたルソン・ド・テネブルは、人々が殺到して教会の扉が閉まらなかったという報告があるほど人気があり、この現象が批難の的ともなった。また、現代においても、1718世紀のフランス・バロック声楽曲のレパートリーとして重要な位置を占めている。

 ルソン・ド・テネブルの最盛期の特徴は、フランス独自の哀歌のトヌス(第6旋法のトヌス)である。最盛期の作曲家たちは、トレント公会議後、哀歌のテキストに統一感を与えるために付け加えられた「序の言葉」にこの旋律定型を用いて作曲した。

 ルソン・ド・テネブルの演奏実践の一例として、王室礼拝堂においては、ルイ14世の時代にはロレの証言から女性歌手によって演奏され、ルイ15世治下ではリュイーヌの証言からカストラートと男性歌手によって演奏されたことが確認できる。しかし、現存作品との関係を明示する資料は見つかっていない。それに対し、現存作品の書誌情報からわかる事は、パリおよびパリ近郊の修道院、特に上流階級の人々が出入りする女子修道院でルソン・ド・テネブルが演奏されていたということである。

 そこでの演奏実践に直接言及する資料は非常に少ないが、当時のテネブルでの音楽演奏に対する批判者たちの言説からいくらか理解できる。それによれば、その演奏は、「オペラ化したテネブル」と称されたほど世俗化していた。すなわち、有名な作曲家による作品の上演、世俗音楽のための楽器とみなされていた弦楽器や管楽器、打楽器の使用、オペラ歌手の起用、オペラアリアのパロディーである。また、ポスターによる宣伝や入場料を取るなどの劇場での習慣を適用し、その演奏を聴きにくる会衆によって、教会内に無秩序が引き起こされたと伝えられている。ルソン・ド・テネブルは、人々の足を聖務へ向ける事に成功したが、一部の教会関係者や信心家たちにとって、このような音楽は娯楽とみなされ、上記の行為を禁止する勧告が、高位聖職者から2度にわたり発令された。しかし実際にはその効力は、これらの実践を阻止するには及ばなかったのである。

 このように流行したルソン・ド・テネブルの演奏であるが、1730年以降、聖務自体や音楽実践に言及する資料は極端に減少する。衰退の直接の原因は未解明のまま残されており、1725年に誕生したコンセール・スピリチュエルや、啓蒙思想から革命期への時代背景などとの関連を追求する必要がある。

 

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傍聴記 (執筆:関根敏子)

 

 エレミアの哀歌を歌詞とする「テネブレの読誦」は、バロック時代のフランスでは、「ルソン・ド・テネブル」という名称のもとに独自の宗教音楽として発展した。川田氏の発表は、この特異なジャンルについて宗教的位置、作品例、音楽様式などに加えて、当時の演奏実践や批判・論争も含めて考察したものであった。

 なかでも興味深いのは、当時の演奏状況である。ルイ14世時代には女性歌手も、ルイ15世時代には男性歌手とともにカストラートも歌っていた。また、シャルパンティエやF.クープランなどの作品が女性修道院で、しかもオルガン以外の楽器を使用したり、オペラ歌手によって歌われたりして人気があったことも明らかになる。一方、そのことが、同時代人からの批判・論争さらには禁止令の原因ともなる。たとえば1706年のルセール・ド・ラ・ヴィエヴィルの著作では、教会音楽の堕落例として挙げられている。その後、1730年から資料が極端に減少するが、その原因はまだ明らかではない。

 川田氏の発表は、最近のフランス・バロック音楽研究の新しい動向を反映して、単に同時代の文献や楽譜だけでなく、当時の演奏実践に関する資料も使用していた。ただ、日本では珍しい分野ということで、このジャンルの紹介部分が長くなったこと、また画面で要点は示されていたとはいえ、ハンドアウトの資料がまったくなかったのも惜しまれる。とはいえ、途中でみずから旋律を歌うなど、声楽出身の川田氏だけに、実践経験も踏まえた独自の視点による研究の発展を期待したい。

 

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修士論文発表3

4.テレマンのレチタティーヴォにおける混合様式 

《フランス年巻》(1714-15)と《マタイ受難曲》(1746)を対象に−

佐藤 康太 (慶應義塾大学大学院)

 

 修士論文ではテレマンのレチタティーヴォを混合様式という観点から論じた。テレマンはレチタティーヴォを作曲する際、基本的にイタリア様式を用いているが、いくつかの作品ではフランス様式の要素も取り入れている。1996年の論文でヒルシュマンは1746年《マタイ受難曲》のレチタティーヴォにおけるフランス的要素を指摘しているが、彼の研究はフランス的要素が存在することの指摘に留まり、それがイタリア的要素とどのように混合されているかは明らかにされていない。そこで発表者はこの点を分析の主眼に据え、テレマンのレチタティーヴォにおける混合の手法を明らかにした。分析の対象には1746年《マタイ受難曲》のほか、テレマン自身がフランス的要素を取り入れたと述べている《フランス年巻》(1714-15) に含まれるカンタータ全71曲を加えた。

 発表では修士論文の中から、句読点定型、とくに読点(コンマ)定型の分析を取り上げた。レチタティーヴォにおける読点の扱いには、両様式で共通して用いられる7つの定型と、フランス様式のみで用いられる2つの定型が認められる。テレマンは《フランス年巻》と1746年《マタイ受難曲》を通じて、両様式共通の7つの定型を基本的に用いているが、2つあるフランス様式特有の読点定型のうち、「刺繍型」の定型も併せて用いている。この刺繍型は、弱拍上の刺繍音型及びそこに付される連桁(1音節に2音を当てる)を特徴とする。テレマンによる使用例として、発表者は1746年《マタイ受難曲》の第2曲第2-3小節を挙げた。ここでは「gesprochen hatten,」のコンマに対してこの刺繍型の定型が用いられている。

注目すべきは、テレマンが刺繍音型の後を常に2度下行にしていることである。その結果、この刺繍型は両様式共通の定型「2度下行−同音反復型」と共通した「4分音符単位での2度下行」という基本的な動きを持つことになる。テレマンはこの2つの定型の共通性を利用して、フランス様式独特の定型をイタリア様式の要素に混合したとみてよい。

またテレマンが刺繍型に含まれる連桁を歌詞内容の強調に利用した例として、《フランス年巻》の顕現節のためのカンタータ第3曲第13-14小節が挙げられる。この第3曲は異教徒の回心を主題としており、テレマンは異教徒の苦しみからキリスト者の喜びへの転換点となる箇所「しかし神は憐れんでくださった」に刺繍型の読点定型を用いた。すなわち連桁を「憐れむerbarmen」に当てることで、神の憐れみによる異教徒の救済という主題を強調しているのである。

この分析から、以下の2点が結論として挙げられる。第1にテレマンが両様式に共通する要素を選び出し、自然に両様式を混合していること。第2に、それでも残る様式間の違和感(例えば読点定型の連桁)を、歌詞内容の強調のために用いていることである。

 

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傍聴記(執筆:大河内文恵)

 

混合様式とは、18世紀西欧音楽を語る上で欠かせない用語ながら、その実態を掴もうとした瞬間にするりと指の間からすり抜けてしまう厄介な代物である。佐藤氏は、レチタティーヴォにおけるコンマ定型の分析という手法を用い、“混合様式の立役者”:テレマンがフランス様式をいかに自らの楽曲に混ぜ合わせたかを手堅く描いてみせた。ほぼ同時代の代表的かつテレマンと接点のある作品から定型を抽出・分類した上で、テレマン作品での定型の用法に迫り、不自然なく混合可能な要素への限定と、楽曲の転換点の強調という一見相反する理念を導き出したこの発表は、随所に目配りのきいた好発表であったものの、分析対象をレチタティーヴォとした理由や分析対象曲の選定基準には、いま1つの合理的根拠が欲しいところであった。フロアからドイツ語特有の問題を指摘する声が挙がるとともに、これを「テレマン様式」と呼べるのかと指摘があったように、本研究にさらなる精巧さを加えようとするならば、逆説的ではあるが、外に眼を開くことも必要となる。テレマンがフランス様式(イタリア様式ではなく)の混合にこめた意図を、作曲家の内的・外的状況を加味しつつ検討する、あるいは演奏者の技術や聴衆のレベルといったインフラがフランス様式の混合を成功させる程度に整っていたのか検証するといった、より多角的・戦略的探究に際し、細部をつぶさに観察した佐藤氏ならではの新たな地平が開かれることを期待したい。