東日本支部通信 第17号(2013年度 第3号)

2013.6.17. 公開 

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東日本支部 第17回定例研究会

日時: 2013年7月6日(土) 午後2時〜5時30分
場所: 武蔵野音楽大学 江古田校舎 3号館447室
司会: 沼野 雄司 (桐朋学園大学)

<修士論文発表>
1. J.G.トロムリッツのフルートと教則本にみるクヴァンツからの影響
   ― 音色、イントネーション、音量の観点から ―
  児玉 瑞穂 (武蔵野音楽大学大学院)

2. ウジェーヌ・イザイ作曲 ポエムについて
   ― Op. 12, 21, 26, 29の楽譜資料と成立過程 ―
  海野 舞 (東京音楽大学大学院)

3. 統計分析による明治期の軍歌研究
  山田 未希 (秋田大学大学院)

4. 信時潔の声楽作品研究
    ― 自筆譜・著述からみた創作理念の再考 ―
  仲辻 真帆 (東京藝術大学)

5. アメリカ占領下におけるアーニー・パイル劇場の実態(1945ー1948)
    ― 戦後日本の舞台芸術への影響 ―
  竹島 唯 (国際基督教大学大学院) 

6. 鉄道駅における音楽型発車サイン音
   ― その意味作用の分析的研究 ―
  五十嵐 美香 (お茶の水女子大学大学院)


1.J. G. トロムリッツのフルートと教則本にみるクヴァンツからの影響 ― 音色、イントネーション、音量の観点から ―

児玉 瑞穂 (武蔵野音楽大学大学院)

【発表要旨】
 トロムリッツJohann George Tromlitz (1725-1805)はドイツのフルート奏者、作曲家、フルート教師、フルート製作者である。今日の研究では、彼の教則本『フルート奏法のための詳細にして基本的な授業Ausführlicher und gründlicher Unterricht die Flöte zu spielen』(1791)(以下『授業』と記す)が注目されている。『授業』は、バロック時代のフルート演奏に関する教則本を著したクヴァンツJohann Joachim Quantz(1697-1773)と、実質的に現代のフルートを作り上げたベームTheobald Boehm(1794-1881)との間の時代、つまり18世紀末の演奏習慣を知る上でその重要性が見直されている。しかし、トロムリッツがクヴァンツとベームとの間にあってどのように位置付けられるかという問題や、彼の製作したフルートと教則本との関係、さらに、1800年の教則本『多鍵式フルートについてÜber die Flöten mit mehrern Klappen』(以下『多鍵』と記す)に関してはまだ研究の余地があると考える。以上を踏まえ、修士論文では同時代の教則本や他の製作者によるフルートとの比較、クヴァンツ、ベームとの比較から、トロムリッツを同時代及びフルートの歴史において位置付けることを試みた。本発表では、トロムリッツとクヴァンツの楽器、教則本の各々の比較を集中的に取り扱う。
 クヴァンツの製作したフルートは、異名同音関係にある音を区別する為に付加されたDis鍵とEs鍵を伴う2鍵式フルートである。一方、トロムリッツは複数の鍵を伴う多鍵式フルートを数種類製作していたが、今回は教則本で想定している2鍵式フルートと8鍵式フルートを比較対象とした。トロムリッツによる2鍵式フルートの鍵配列はクヴァンツと同様である。一方の8鍵式フルートは、当時の一般的な8鍵式フルートとは異なる鍵配列をしており、8鍵のうちの2鍵はクヴァンツによるものと同様である。
 クヴァンツの『フルート奏法試論Versuch einer Anweisung die Flöte traversiere zu spielen』(1752)(以下『試論』と記す)と『授業』の関係は先行研究でも指摘されていた。発表者は研究対象を『多鍵』まで広げ、楽器と教則本の関係性を探る為に運指表の比較を行なった。クヴァンツは『試論』において、異名同音関係にある音を運指によって区別する必要性を説いていたにも関わらず、実際の運指表では区別されていない箇所が見られた。一方、約40年後に出版された『授業』ではクヴァンツと同様に2鍵式フルートを想定しながら、クヴァンツが区別していなかった音も運指によって区別していた。また、自身による8鍵式フルートを想定した『多鍵』の運指表では、さらにその区別は徹底された。
 楽器においては、当時フルートに鍵が付加される主な目的がクロス・フィンガリングによって弱々しくなる音色や音量の改善にあった為、この目的以外の為にも鍵を付加したトロムリッツは非常に稀な存在であった。
 以上のことから、トロムリッツはクヴァンツから異名同音関係を区別するというイントネーション観を踏襲するだけでなく、当時一般に追求されていた音色や音量の改善を含め、音に対する独自の美意識を深く追求していたことを明らかにした。


【傍聴記】(安田 和信)

 児玉瑞穂氏(武蔵野音楽大学大学院)の発表は、J.G.トロムリッツ(1725-1805)のフルートおよびその教則本におけるJ.J.クヴァンツ(1697-1773)からの影響を探るというもの。楽器については、足部管のEs鍵とDis鍵の区別や、頭部管のスクリュー・コルクの踏襲等がクヴァンツからの影響という指摘があった。大半音と小半音の区別に象徴されるイントネーションへの配慮を両者が共有していたことの現れだろうが、彼の教則本(1791年初版の『フルート奏法のための詳細にして基本的な授業』等)にも、異名同音関係の音を区別する運指表が掲載され、同様な意図を読み取ることができる。ただし、クヴァンツの足部管のスライドを廃した点、運指表にみる異名同音の区別の徹底からは、トロムリッツがより正確なイントネーションのみならず、均一な音色や一定の音量を持った演奏を理想としていたことが窺えるという。時代は細やかなイントネーションへ配慮をしなくなりつつあったがゆえに、彼の考えが際立つという点も本発表では強調された。
 発表を伺いながら感じたのは、例えば教則本等の記述を手掛かりにする時、どのような読者を想定していたのかという問題意識の必要性であった。旧来のイントネーションの継承はプロの音楽家への警鐘なのか、アマチュアに対してプロの「秘技」を伝授する意図だったのか、というようなことである。多くの可能性を秘めた研究だけに、さらなる進展を待ちたい。


2. ウジェーヌ・イザイ作曲 ポエムについて ― Op. 12, 21, 26, 29の楽譜資料と成立過程 ―

海野 舞 (東京音楽大学大学院)

【発表要旨】
 本論文の目的は、ウジェーヌ・イザイ(Eugène Ysaÿe, 1858- 1931)がポエムと副題をつけて作曲した作品について、資料と様式の両面からその特徴を明らかにすることである。イザイはベルギーのヴァイオリニストで、作曲家としては《無伴奏ヴァイオリンのための6つのソナタ》作品27を作曲したことで知られている。その他の作品は現在あまり演奏されることがなく、イザイが作曲した作品の総数も明確にされていないが、作品番号のある作品全21曲のうちの8曲がポエムという副題を付されている。ポエムはこれまでの研究においてイザイの作品の中で重要な作品群であるとみなされているものの、ほとんど研究対象として扱われていない。そこで本論文では、ポエムという副題のある作品全8曲のうち、自筆楽譜を調査することのできた4曲(《ポエム・エレジャーク》作品12、《エクスターズ》作品21、《アミティエ》作品26、《ポエム・ノクチュルヌ》作品29)を対象として考察し、ポエムの研究の足がかりとする。
 はじめに楽譜資料の考察として、各曲の自筆譜、筆写譜、出版譜を調査し、資料記述を行うことで資料の状況を詳述し、さらに相互の年代関係を明らかにした。つづいて様式的考察として、資料研究の結果を援用して曲の成立過程を示し、その中で作品の内容がどのように変化し、いかなる音楽的特徴を有しているかを明らかにした。さらに、これらの特徴をイザイがポエムについて言及していることと関連づけて検討した。
 調査の結果、対象とした4曲にはそれぞれ複数(2- 5稿)の自筆楽譜が現存した。これらは各稿ごとに単独で、多くが綴じられた状態で保存されている。そして、用いられている五線紙や筆記具は作曲年に対応して一定に変化することが確認された。
 また、4曲すべての成立過程において作品内容に改変が加えられており、多くの場合同じ部分が繰り返し改訂されていた。さらに、繰り返し改訂されている部分の多くが技巧的な音型であることが確認された。楽曲以外の変化としては、タイトルや献呈相手の変更が見られたが、これらの変更が楽曲の内容の変化に影響を与えたことは確認されなかった。
 各稿の比較とともに考察した4曲に共通する音楽的特徴としては、基本的に3部分構造で発展部や再現部があること、技巧的な音型の繰り返しが多いことが挙げられた。そしてこれらの特徴はイザイ自身によるポエムについての言説にある“協奏曲との関連”や“ヴィルトゥオジテを作品に取り入れる”ということと関連があることが確かめられた。
 以上の考察を総合した結果、ポエムとは、比較的自由な形式において技巧的音型を取り入れることでヴァイオリンの魅力を作品に活かした楽曲であり、イザイの理想を体現した作品であった、という結論に至った。


【傍聴記】(安田 和信)

 海野舞氏(東京音楽大学大学院修了)の発表は、ウジェーヌ・イザイ(1858-1931)が残した8曲のポエムのうち、4曲(op.12,21,25,29)の現存楽譜資料から成立過程を明らかにするというもので、《アミティエ》op.26(1924年)が事例として扱われた。この作品はピアノ版スコア、オケ版スコア、ソロのパート譜について7種の自筆資料および2種の出版譜が現存し、今回はとりわけピアノ版スコアによる4種の自筆資料に焦点をあて、改訂の過程が示された。三部形式の中間部に向けられた主たる改訂は、初稿の段階(1914年)での76小節が完成稿(1924年)で126小節へ拡大され、改訂が進むにつれ、2つの独奏ヴァイオリンの技巧性がより高められていくという。そしてこれこそ、作品にヴィルトゥオジテを取り入れるというイザイの意図の具現化したものと結論づけられた。
 特にイザイのような自身も旺盛な演奏活動をした作曲家の場合、その時々に応じて旧作を手直しし続け、最終的に出版するなどして、作品を「固定」するに至るまで、当該の作品を「ワーク・イン・プログレス」の状態にしておくことは大いにあったと想像される。だとすれば、最終的な稿こそイザイの意図が最善の形で現れていることを必要以上に強調することは差し控えねばならないが、いわば20世紀初頭のコンポーザー=ヴァイオリニストの作品概念の一端を探る、一つの重要な事例研究の足掛かりに本発表はなると思った。


3. 統計分析による明治期の軍歌研究

山田 未希 (秋田大学大学院)

【発表要旨】
 明治期における軍歌の先行研究には、軍歌の歌唱場面に焦点を当てたものや、楽曲面に着目したものがある。楽曲面に関する先行研究として、軍歌集の内容の変遷や軍歌の特徴、新体詩との関係を題材にしたものがあり、楽曲や歌詞、作成者などの要素が取り上げられている。しかし、明治期全体を通しての軍歌の存在形態や特徴が明らかになったとすることは難しい。明治期の軍歌の在り方を明らかにするためには、明治期全体の軍歌を取り上げ、軍歌の誕生時とその後の変化を研究することが必要である。
 本研究では、楽譜付きの軍歌集に掲載されている軍歌を対象に、「時期」、「ピョンコ節の有無」、「ピョンコ節の割合」、「軍歌の内容」の4つを主要素として統計分析を行った。その結果、明治期の軍歌の存在形態と、現在と明治期の軍歌に対する認識の相違を明らかにすることができた。
 第一に、軍歌の特徴的なリズム型とされているピョンコ節は、日清戦争時から増加するということがわかった。その一方で、軍歌1曲の中でピョンコ節が占める割合が高くなるのは、日露戦争時からである。このことから、ピョンコ節というリズム型が軍歌に定着したのは、日露戦争時であると結論付けることができる。
 第二に、平時と戦時では軍歌の内容の傾向が異なっていることが明らかになった。また、平時である日清戦争前と日清・日露戦争間は、戦時よりも様々な内容の軍歌が出されている。つまり、この2つの平時は、軍歌の内容を模索し、発展させようとしていた時期と言える。しかし、時期では平時に分類される日露戦争後は、軍歌の内容では戦時と同様の傾向にある。このことから、日露戦争時から、戦争の有無に左右されない軍歌の内容の定型が成立したと考えられる。この定型は、リズム型や内容の面で、現在の軍歌に対する認識や定義と合致している。
 第三に、軍歌の内容とピョンコ節の割合の関係を分析した結果、軍事的な内容の軍歌は、ピョンコ節の割合の高い状態と正の相関関係にあるということがわかった。これ以外の軍歌は、ピョンコ節の割合の低い状態と正の相関関係にあることから、明治期の人々には、「ピョンコ節=軍事的な内容の歌」という認識があったと推察される。
 以上より、日露戦争時から日露戦争後の時期は、戦時と平時で変化しない軍歌の形態が成立した時期と言うことができる。その形態とは、ピョンコ節と軍事的内容の歌というものであり、これは現在の軍歌に対する認識と同一である。即ち、現在の軍歌に対する認識は、日露戦争時頃に成立したと考えられる。
 今後は、本研究では取り上げなかった軍歌の要素を用いた統計分析や、明治期以降の軍歌の在り方を研究することで、明治期の軍歌の特徴やその後に及ぼした効果を、より明確に示すことが期待される。


【傍聴記】(武石 みどり)

 統計分析により明治期の軍歌の特徴と年代的変化を明らかにしようとする研究であり、これまでの軍歌研究とは異なるアプローチを特徴とするものであった。日清戦争時よりピョンコ節を使用した軍歌が増加し、日露戦争以降定着したこと、軍歌を歌詞内容により分類した場合、戦争や軍人を題材とした軍事軍歌において明瞭にピョンコ節の割合が高いことが示され、その結論自体は納得がいくものであった。
 ただ発表の方法において、聴衆の理解度を上げるために最大限の配慮がなされていたとは言えない。統計分析という方法を用いるため避けられないことではあるが、レジュメは「クロス表」「カイ2乗検定」「等分散性」「平均値同等性」といった用語と数字の並んだ表、および参考文献一覧のみで構成されており、表やグラフ以外に文章による説明は記されていなかった。統計の専門用語や数値の示す意味を聴衆がその場で正確に理解できるかどうか、また次々に読み上げられる数値を表中で見出せるかどうか、そのあたりにもう少し配慮が必要ではなかったろうか。正確な数値を挙げる必要性はあるにしても、その表で特に見てもらいたい部分をマークしたり、その表からわかることを文章で書き添えたりすることにより、聴衆の理解度は大幅に上がったのではないかと思う。
 今後は、統計分析にさらに多様な要素を加えて研究を展開されることに期待したい。


4. 信時潔の声楽作品研究 ― 自筆譜・著述からみた創作理念の再考 ―

仲辻 真帆(東京芸術大学大学院)

【発表要旨】
 本論文は、信時潔(のぶとききよし)(1887〜1965)の声楽作品を自筆譜や著述の内容から見直し、これまでほとんど顧みられることのなかった彼の創作理念を考究することを目的としている。
 信時潔は、昭和前期を中心に活躍した作曲家である。彼は、バッハやベートーヴェンなどのドイツ古典音楽に強い関心を寄せながらも、バルトーク、シェーンベルク、ヒンデミットといった当時の現代音楽を幅広く学び、その上で自らの作品創作を行った。母校の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)では、約40年にわたって後進の指導に当たり、下総皖一、橋本國彦、長谷川良夫、高田三郎、大中恩、木下保、畑中良輔等を育てた。同校の本科作曲部(現在の音楽学部作曲科)創設にも尽力している。更に、音楽教科書の編纂や『コールユーブンゲン』・音楽書の翻訳、あるいは1000曲を越える校歌等の団体歌作曲を通して、信時は日本の音楽文化の礎を築いた。
 今日に至る近代の日本音楽界に大きな影響を与えたにもかかわらず、信時の活動や作品は、戦後、積極的に評価されることが少なかった。彼が手がけた《海ゆかば》等は、作曲経緯や奏演状況により、戦争との関連の中で意味付けられた作品であると言える。
 信時の業績の重要性が再認識され始めたのは、最近のことである。2005年以降、新保祐司の著作『信時潔』やCD『SP音源復刻盤 信時潔作品集成』、『海ゆかばのすべて』が刊行された。だが、信時に対して偏った見方がなされる傾向は依然として続いている。また、作品自体を掘り下げた記述はわずかしか無く、体系的な先行研究は未だ少ない。
 そうした状況を踏まえ、本研究では、信時がいかなる問題意識を抱き、どのような作品を書こうとしたのか、彼の自筆譜や著述の調査をもとに考察した。
 本研究により、信時が変遷する時代の中で生涯一貫して自身の音楽理念を追求し続けていたことや、彼の作品における単純性は、構想と推敲を重ねた結果であることが浮かび上がった。また、古謡や和歌に作曲の題材を求めることが多く、教会旋法と日本の伝統音階を併用するなど、信時が日本人としての意識を強く抱きながら作品創作を行っていたことが明らかとなった。
 本発表では、信時が遺した自筆譜や著述を検証した中で明らかとなった、作曲者の考えや創作過程、あるいは音楽観や創作上の課題について述べる。また、信時と親交が深かった声楽家の歌唱法についても言及し、立体的な信時作品の理解を試みるとともに、本研究の今後の展開に関して一方向性を示したい。


【傍聴記】(武石 みどり)

 これまで踏み込んだ作品研究の少ない信時潔の声楽作品について、自筆譜や著述の内容を手掛かりとしてその創作理念を明らかにする研究である。体系的な基礎研究が必要とされる状況の中で自筆譜等の一次資料を調査した点、信時の著述を丹念に拾い上げてそこから本人の創作理念を検討した点がこの研究の強みであり、そこから「日本人としての意識を強く抱いていたこと」「構想から推敲を重ねる中で素朴・単純な表現を目ざしたこと」が結論として導かれた。
 おそらく修士論文においては上記の検討が周到に行われていたものと思うが、今回の発表においては、発表者が実際にどのような検討を経て結論へと到達したのかという過程がいまひとつ明確でなかったことは残念である。たとえば自筆譜の資料記述を作成する際には、稿の年代や作成順序をどう特定するのか、現在の伝承状況からどういう成立過程の可能性が考えられるのか等、慎重な検討を要する問題が多々あると思われる。しかし今回の発表ではそうした問題についてはまったく触れられず、譜面上の表記に関わる事例のみが紹介されており、やや表面的な感を免れなかった。限られた時間内で研究の内容と意味を効果的に伝えるために、発表の焦点と組み立てについても熟考することが今後の課題と感じられた。


5. アメリカ占領下におけるアーニー・パイル劇場の実態(1945ー1948) ― 戦後日本の舞台芸術への影響 ―

竹島 唯 (国際基督教大学大学院)

【発表要旨】
 アーニー・パイル劇場(Ernie Pyle Theatre)とは、1945年12月24日から1955年1月27日まで、GHQによって接収されていた、東京宝塚劇場の事である。進駐軍専用の総合娯楽施設として開場し、原則として日本人の立ち入りは禁止されていた。その為、劇場の様子が公になる事はほとんどなく、十分な資料も存在しない事から、現在まで本格的な研究が行われてこなかった実状がある。しかし今回、日本に駐留するアメリカ軍兵士達の為に発行されていた進駐軍専用新聞のPacific Stars and Stripesと、検閲資料を集めたプランゲ・コレクションに保管されている、月報『Ernie Pyle Theater』を詳細に調査した結果、実は多くの日本人が従業員として働いていた事が確認できた。また、当時の日本における最高水準の舞台芸術家達が、アメリカの制作するショーに深く関わっていた事が分かった。このような背景から、本論文では、アメリカ占領下におけるアーニー・パイル劇場の実態を明らかにしつつ、同劇場が日本の舞台芸術に与えた影響について考察する。なお、研究対象は舞台の上演が最も盛んであった1945年末から1948年末の3年間に限定した。
 第1章では、GHQによって東京宝塚劇場が接収された経緯と、接収後の劇場改革の実情を明らかにし、アーニー・パイル劇場という施設が、敗戦直後の日本人と進駐軍兵士にとってどのようなものであったかを検討した。
 第2章では、アーニー・パイル劇場における日米の公演形態とその作品をPacific Stars and Stripesを元に整理し、1946年から1948年の間に、劇場の公演形態がどう変化し、作品に影響していたのかを考察した。そして、これらのショーに日本人の舞台芸術家達が深く関わっていた事を明らかにした。
 第3章では、日本人の舞台芸術家達がアーニー・パイル劇場の公演で学んだことを、具体的にどのように日本の舞台芸術界で活かしたのかを論じた。第1節では、「帝を侮辱している」という理由で上演が禁じられていたイギリスのオペレッタ『The Mikado』を、アーニー・パイル劇場で進駐軍がアメリカン・ミュージカルとして上演した事を指摘した。第2節では、『The Mikado』に関わっていた日本人の舞台芸術家達とオペラ歌手の長門美保によって制作された『ミカド』を取り上げた。第3節では、『ミカド』上演を通じて進駐軍との交流を深めていった長門美保が、オペラに「アメリカン・スタイル」を取り入れることでオペラの大衆化を目指したことを指摘した。これに影響を受けた帝国劇場社長の秦豊吉は「アメリカン・スタイル」の音楽劇であるミュージカルこそが、戦後の日本における「新しい舞台芸術」になると考え、「帝劇ミュージカルス」という作品シリーズを発表した。これにより、日本にミュージカルを定着させたと言える。


【傍聴記】(武石 みどり)

 これまでほとんどアカデミックな研究が行われてこなかったアーニー・パイル劇場の実態について、資料を基にその実態と戦後日本への影響を考察する研究である。進駐軍専用新聞や劇場の月報等を手掛かりとする点で、前半は手堅く進められた研究という印象を受けた。しかし、発表の後半で「The Mikadoが日本の民主化政策として取り上げられた」「アーニー・パイルが戦後のアメリカン・スタイルのミュージカル上演へのきっかけとなった」という点についてはやや説得力に欠けるように思われた。
 こうした印象を生み出した原因は、やはり発表の方法にあったと思う。パワーポイントを用いての発表は、一般にはあまり知られていない人物、建物、舞台、資料を視覚的に示す点では非常に効果的であったが、原稿なしのフリートークであったため説明に想定以上の時間がかかり、1〜3章の解説のうち2章の途中ですでに残り5分のベルが鳴り、3章にはほとんど時間を裂けなかった。また配布資料は事前にHP上で発表された発表要旨とまったく同じで、要旨をあらかじめプリントアウトして持参した人には無用のものとなってしまった。20分という時間をどのように使うのか、画面やハンドアウトをどのように用いるのか等、発表に際しての基本的な配慮がもう少し必要であったと思う。


6. 鉄道駅における音楽型発車サイン音 ― その意味作用の分析的研究 ―

五十嵐 美香(お茶の水女子大学大学院)

【発表要旨】
 近年、音響技術の発達により、芸術作品として鑑賞される音楽とは異なるBGMや着信メロディ等の新たな音楽の在り方・聴き方が浸透しており、1971年以降普及してきた音楽型発車サイン音(発車メロディ)もその一例である。本研究では、鉄道駅で運用される音楽型発車サイン音が、どのように聴取されているのか、すなわち「聴き手による意味づけの構造」について、ロラン・バルト(1915-1980)の記号論における意味作用の概念を適用し、検討した。修士論文では、発車合図音の歴史、使用の現状と音楽的特徴、制作者・設置者の意図などを含めて、包括的な考察を行ったが、本発表では、実際に音楽が使用される場において人々がどのように音を読み、意味づけをしているかに重点を置くこととした。
 研究方法の一つとして、JR山手線内を中心としたフィールド調査を行い、電車運行の状況、提示される音情報、アナウンス内容、ホーム上での人々の行動という観点から、鉄道駅という空間の在り方について考察を行った。その結果、鉄道駅は移動という目的を達成する空間であることに加え、公共規範や利用者の安全が前提とされる場であり、また個々人の自由な行動、各々の価値観が許容される空間でもあることが明らかになった。
 その空間の在り方を前提として、駅構内での利用者の行動や新聞の投書欄での発車サイン音をめぐる発言等に基づき、聴き手による意味づけを考察した。それらは、@移動の目的を達成するための音、A意識的に聴かれない音、Bコンテクストと関連を持たずに意味づけられる音、C制作時の音が保たれるべき音、D鉄道駅における行動に伴う感情が反映される音、E土地と結び付く音、Fコンテクストにおけるふさわしさが判断される音、に分類できた。
 さらに、音(能記)と概念(所記)との対応をめぐって言語記号等と比較を行った。その結果、音楽型発車サイン音は聴き手や状況に応じて音の要素の分節単位(音の連なり全体・音色等)が異なり、また分節単位が同一の場合も≪電車発車≫≪注意喚起≫≪駅周辺地域≫≪安心感≫等、能記と所記の対応が1対1ではないことが明らかになった。
 分節単位や各要素に与えられる意味の多様性は、聴き手が一方では鉄道駅というコンテクストを考慮し、他方では自身のフィルターを通して意味づけを行っていることに起因する。つまり、≪電車発車≫のようにそれ以上解釈不可能な目的的な読み、あるいは個々人の好み等を反映した自由な読みがなされた後“ふさわしさ”等が判断される目的的な読みが行われる場合や、駅構内での個々人の置かれた状況、目的や感情を反映した自由な読み、またコンテクストとは全く関連しない読みも存在する。この流動的な意味作用は、都市公共空間における鉄道駅という場、すなわち、移動という明確な目的を持ち、個々人が匿名的に存在し常に流動しているという場の在り方を示しているといえる。


【傍聴記】(福田 弥)

 当初、本発表の題目を見た時点では、駅という場の文化的歴史的コンテクストを見据えたサウンドスケープ・デザインの研究、あるいは意味論的環境観を切り口とした発車サイン音の考察かと予想した。実際には、「音楽型発車サイン音」(いわゆる駅メロ)を記号として捉え、その意味作用、すなわち能記と所記の関係を分析したうえで、発車サイン音は言語とは異なり、能記と所記の関係が恣意的な無縁的記号であり、その意味付けの多様性および多層性は、安全な移動が求められる鉄道駅というコンテクスト、および聴取者自身のフィルターによると結んだ。一般論として、発車サイン音が、聴き手個人のフィルターを通じて多様に意味付けされることは、ある意味、当然にも思える。どのような多様性があるかだけではなく、何パーセントの人がどのように聴取していたのか、数字を挙げて割合を示すと、対象者たちの聞き取り方の傾向が見えてくるのではないだろうか(質問に答える形で、新聞投書欄を資料としたケースでは約100人を対象としたと述べていた)。またフィールドワークのケースでは、人々の意味付けをどのように見分けたのであろうか。とくに駅は、駅員のアナウンスや通話中の携帯電話など、さまざまな音が聞こえる音環境であり、その中では人々が発車サイン音だけを聞いて行動しているとは限らないであろう。そうした点にも詳しい言及があれば、より判りやすいものとなったと思われる。またオーディエンスから指摘があったように、同一駅で複数のサイン音が使い分けられている場合もあり、制作者側の意図だけでなく、そこまで対象を広げて聴き手の意味付けを考察すると面白い結果となるのではないだろうか。発表者は、発車サイン音について、脱伝統音楽などの視点からはどのような立場をとるのかも知りたいところであった。


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