東日本支部通信 第15号(2013年度 第1号)

2013.5.2. 公開 / 2013.6.3. 最終更新

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東日本支部 第15回定例研究会

 日時:2013年5月11日(土)午後2時〜4時30分
 場所:青山学院大学 青山キャンパス 7号館2階720教室
 司会:那須 輝彦(青山学院大学)

 <修士論文発表会>
 1. J. S. バッハ《オルガン小曲集》の作曲技法 
―対位声部における固有動機の用法―
   安井 崇裕 (慶應義塾大学大学院)

 2. J.-Ph. ラモー著『新体系』における「サブドミナント」について
   伊藤 友計 (東京藝術大学大学院)

 3. 18世紀末のロンドンのコンサート活動における新聞広告の役割 
―予約演奏会の広告分析―
   長島 史恵 (明治学院大学大学院)

 4. 民俗芸能におけるテケテットンに関する構造人類学的考察
  川 瑞穂 (国立音楽大学大学院)


1.  J. S. バッハ《オルガン小曲集》の作曲技法 
―対位声部における固有動機の用法―
 安井 崇裕 (慶應義塾大学大学院)
【発表要旨】
バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)のオルガン・コラールには、断続的に提示されるコラール旋律に対して、対位声部がインベンションやリトルネッロと類似した「自律的な構造 independent structure」(May 1986)をもつ曲があると先行研究で指摘されている。しかし、コラール旋律が断続的に提示される様式のオルガン・コラールだけではなく、コラール旋律が切れ目なく提示される様式の《オルガン小曲集 Orgelbüchlein》BWV 599~644でも対位声部の「自律的な構造」を見出せるのではないか。そして、「自律的な構造」は対位声部で用いられる固有動機の入声と密接に関わっていると考えられる。
一例として、〈平安と歓喜をもって私は逝きます〉BWV 616を分析する。この曲では、コラール旋律はソプラノに切れ目なく提示される。曲は6つの区分から成り(区分1〜区分6)、そのうち区分1、区分2、区分5、区分6冒頭の対位声部で固有動機(「16分音符+32分音符×2」が4つ連なった動機)が現れる。そして、固有動機は他声部(固有動機、固有動機を二分割した動機、あるいは32分音符が省略され16分音符だけで構成された動機)によって二度模倣される。これらの区分冒頭における動機の入声が、この曲の対位声部における「自律的な構造」の軸となる。
これら4つの区分における動機の入声は、開始音、声部、音高の点で関連がある。固有動機の開始音は、区分1と区分6がニ音、区分2と区分5がイ音であり、それぞれ共通している。動機が現れる声部は、区分1がT⇒B⇒A、区分2がT⇒B⇒S(ソプラノのコラール旋律が固有動機で装飾される)、区分5がA⇒T⇒B、区分6がB⇒T⇒Aであることから、テノールに現れる固有動機を、バス、そして上声(区分1: A, 区分2: S)が模倣する区分1と区分2、および動機が一方向に提示されていく区分5と区分6は関連する。そして開始音の音高の点で、テノールとバスの音高がアルトの1オクターブ下である区分1と区分5、音高が全て異なる区分2と区分6を関連づけられる。
区分1、区分2、区分5、区分6の冒頭における固有動機の入声、およびそれらの関連づけの理由をコラール旋律に求めることはできない。なぜなら、動機の入声に対位するソプラノのコラール旋律は全て異なるからである。また、コラールの歌詞との対応関係を複数の根拠を挙げて例証することも難しい。したがって、固有動機の入声を工夫することで対位声部に「自律的な構造」を生じさせる技法自体の追求が、作曲において優先されたと考えるのが妥当であろう。


【傍聴記】(安川智子)

 J.S.バッハのBWV616は、ソプラノ声部にコラール旋律が切れ目なく置かれるオルガン・コラールであり、従来であれば、コラール旋律に対位声部が従っていると考えるのが妥当であろう。一方バッハには、断続的なコラール旋律に対して、独立した器楽形式が対等に置かれているような種類のオルガン・コラールがあり、Ernest Mayはこれを、コラール声部以外で「自律的な構造」をもつと表現している。本発表の主旨は、前者のBWV616にも、この後者のような「自律的な構造」が見られることを分析によって明らかにすることである。
 最初に、Ernest Mayによる「自律的な構造」について、BWV651aを例に説明があった。ここでは、主題の「主調−属調」関係が、コラール旋律(バス声部)とは無関係に提示されるという理由で、対位声部が「自律的な構造をもつ」と説明されたが、ここで発表者自身の批判的検証と「自律的な構造」の再定義がほしかった。BWV616の分析自体は、丁寧で納得することができた。ただ、対位法としてコラール旋律も組み込まれていることを考えると、これを対位声部の「自律的な構造」と表現するのが適切か、むしろバッハが独立した器楽構造に、コラール旋律を完全な形で組み込んでいる高次元での融合として説明ができないか、指摘のあった歌詞と固有動機の音型との関連性も含め、今後発表者自身がより大きな文脈の中で、いかに「読解」するかによって、分析結果も生きてくるように思われる。


2.  J.-Ph. ラモー著『新体系』における「サブドミナント」について
伊藤 友計 (東京藝術大学大学院) 
【発表要旨】
本発表の考察の対象はジャン=フィリップ・ラモーの音楽理論書第二作目である『新体系』である。この著作はラモーの主著である『和声論』(1722年)の4年後(1726年)に発表された。概してラモーの和声理論の考察に対しては次の二点をあらかじめ踏まえておくことが有益である。一点は、ラモーの音楽理論家としての業績は彼の独創や新奇性にあるのではなく、彼以前に既に存在していた多種多様な要素を単一の和声的パースペクティヴに統括したことにある。もう一点は、ラモー和声理論の重要な論点や主張はそのほとんどが第一作である主著『和声論』の中で議論され、開陳されているという点である。基本的に『新体系』も『和声論』の内容を継承し、その正当化の目的の下に執筆されたものである。
しかし以上のことは、『和声論』以降のラモーの理論書には注目に値するものは全くないことを意味しない。前作に何らかの新たな論点を付け加える必要を感じ、あるいは、同内容を述べるにしても別角度からの説明の有効性を認識したからこそ、ラモーが次作に取り組んだことは容易に察せられることである。したがって『新体系』の考察には『和声論』からの差異と変遷をみることが重要かつ不可欠である。『和声論』と比した際の『新体系』の新局面とは、音律の問題、音響学の知見(倍音)の和声理論への適用、「サブドミナント」という概念と名称、の三点である。
発表者は修士論文において上記三点の詳細な考察に取り組んだが、本発表ではこの三点のうち、「サブドミナント」に関する論点を集中的に扱うこととする。「サブドミナント」という名称は、西洋音楽理論においてラモーが『新体系』内で初めて命名したものである。サブドミナントという存在を自らの理論において確立するため、ラモーは1:3:9という幾何進行(等比数列)を根拠とし、その定着を図る。このように数比という数的明証性を基盤とする思考形態は、ピュタゴラスからデカルトにいたる数学的合理主義の伝統をラモーも継承していることを示しており、『新体系』において当時先端の科学的成果(倍音)に基づいて和声理論の展開する同じラモーの経験主義的態度と対照的であるのは興味 深い点である。この数比を出発点として、ラモーは様々な譜例、さらには「5度音程の特権視」「カデンツ(終止形)」等の トピックとともにサブドミナントの存在の正当化を図る。このようにしてラモーが『新体系』内で叙述するサブドミナントは、現在のわれわれの用法とはずれる部分も少なからずある。本発表では可能な限り具体例を参照しながら、『新体系』におけるサブドミナントの定義と用法を確認することを主眼とする。サブドミナントは、トニック、ドミナントと共に後の機能和声において欠くべからざる主要構成要素となっていくものであり、その命名の初出時の状況を精査しておくことには大きな意義があるだろう。


【傍聴記】(安川智子)

 「サブドミナント」は、『新体系』において、初めて命名された。本発表はその前提の上で、サブドミナント初出時の用法を詳述するという内容であった。ラモーは第1作『和声論』執筆後に、ソヴールの音響的研究を知ったため、『新体系』では、従来の「数による抽象的思弁」に、倍音という科学的実験に基づく説明が加えられている。すなわち1:3:5が導き出すもっとも完全な和音(長3和音)に対して、1:3:9はもっとも完全な「横の系列」、すなわちIV度、I度、 V度という進行を与えるという論法でサブドミナントの重要性を主張する一方で、I-IVよりもI-Vの関係がより完全である根拠としては、倍音現象を援用する。
 フロアからの指摘もふまえてさらに重要な論点は、ラモーがI-IV-IとI-V-Iの進行のみを想定しており、I-IV-V-IといういわゆるT-S-D-Tの(リーマン式)機能和声進行を想定していなかったということである。ラモーの言うサブドミナント上の和音とは、IV度上の付加6の和音を指し、これをII度の7の和音と同じと認めつつ、彼にとってサブドミナントの和音はあくまでIV度上の和音である。個々の議論は既視感があるが、それを極めて明快、緻密に整理したという点で(ラモーと同様に)、意義深い研究であった。個人的関心で言えば、「modulation」を「横の系列」と訳していたことに「なるほど」とひざを打った。この横の系列には、暗黙の了解として和声が想定されているのであり、I, IV, V, Iによるカデンツとその連続によって、「modulation」は「転調」へと変化していくのであろう。


3.  18世紀末のロンドンのコンサート活動における新聞広告の役割
―予約演奏会の広告分析―
長島 史恵 (明治学院大学大学院)
【発表要旨】
 「音楽熱狂」の時代と表現されるほどに、1790年頃のロンドンには数多くのコンサート活動が存在し、その多くは、金銭の授受によって大勢の聴衆へ提供される商業的な特徴を持っていた。当時のコンサートの新聞広告は、コンサート活動を知るための史料として頻繁に利用されるが、その新聞広告については、従来、コンサート活動の商業的な性格と関連させ集客の機能からのみ理解されることが多く、先行研究には、詳細かつ多面的に議論されたものはない。
 本修士論文ではこの新聞広告自体に注目し、当時のコンサート活動において新聞広告が果たしていた役割を多面的に考察した。個々のコンサートの性格や、聴衆層を確認したうえで、当時のロンドンの新聞の受容状況とコンサートの会計簿などの記録から、新聞広告がコンサート活動にとって主要な広告手段であったという事を確認した。それから予約演奏会、ヘンデル記念祭、ブルジョアのコンサートの、それぞれのコンサート活動が実際に掲載した広告を分析し、新聞広告の掲載意図を明らかにした。
 今回の発表では、プロフェッショナル・コンサートとザロモン・コンサート、2つの予約演奏会の広告の役割を考察した部分を中心とした。ハイドンがザロモン・コンサートに出演した、1791年のコンサート・シリーズを調査の対象とし、当時のロンドンにおいて流通していた新聞記事を収めたデータベースからコンサートの広告が見られた8紙を調査した。双方のコンサートは、コンサート・シリーズ開始以前から12回目のシリーズ最後の演奏会終了までそれぞれ100回を優に上回る広告を掲載していた事が確認された。それらの広告が出された時期とコンサートの開催日を整理し、広告内の情報の種類を基に広告の分類し、分析を行った。
 その結果、コンサートの新聞広告には、これまで言及されてきたように集客を目的とする要素が見受けられた反面、コンサートに聴衆を集める機能を持つとは考えられない要素も多く認められた。とりわけシリーズ開始後の広告には、送迎の馬車の向きやチケットの決まりなど、聴衆への注意喚起が多く見られ、掲載された広告の中には、集客に必要な情報を全く含まないものも見られた。また、広告冒頭の呼びかけの決まり文句が、一般の人々に向けたものから、すでにチケットを購入した人物へ向けたものへと変化し、明らかに広告がコンサートの参加者に向けられた情報を含んでいたことが確認された。
 予約演奏会の新聞広告は、より多くの聴衆を集める集客の役割の他にも、 演奏会への参加者に対する情報を伝達する役割も果たしていたことが、この調査によって明らかになった。


【傍聴記】(吉江秀和)

 18世紀末のロンドンにおける演奏会活動の研究に不可欠な当時の情報媒体の一つに、新聞広告が挙げられる。近年、新聞のデータベース化が進み、これまで以上に新聞広告を活用した演奏会や演奏団体の情報の収集、分析がおこなわれるようになった。長島氏の発表は、その新聞広告自体に注目して、演奏会の開催前から開催期間の前半、後半と時系列で広告の掲載内容を分析し、新聞広告が果たした役割を考察したものであった。
 今回の発表で取り上げられた予約演奏会(基本的に、一シーズンの演奏会の通しチケットを事前に購入する形態)は、主に上流階級を聴衆とし、当時の最先端の音楽を扱う同系統の2つのもの。発表では、両演奏会の広告に掲載された内容の変化――開催前におけるチケット購入の呼び水となる情報から、開催期間におけるチケットの既購入者に向けた情報への移行――や広告のパターン等が明瞭に示され、非常に理解しやすいものであった。予約演奏会という形態では、必要な聴衆数を獲得すれば更なるチケットの購入者を募る必要がないため、掲載情報が購入者を対象としたものへと徐々に限定されたとの指摘は、合点が行くものである。ただ、発表時間を考慮すれば致し方ないが、異なる音楽嗜好や聴衆階層の予約演奏会との具体的な類似点や相違点がスライドを用いて言及されると、各演奏会が求めた広告の役割が更に明確になったであろうと、個人的には思われた。このような地道な調査によって得られた貴重な情報が、今後の研究に生かされることを大いに期待したい。


4.  民俗芸能におけるテケテットンに関する構造人類学的考察
川崎 瑞穂 (国立音楽大学大学院)
【発表要旨】
修士論文「秩父市旧荒川村の神明社神楽に関する構造人類学的研究」では、埼玉県秩父市旧荒川村の白久地域に伝承される神明社神楽について、構造人類学の方法論を用いて研究した。この芸能には17の演目があり、それぞれの演目に囃子が2〜3曲付されている。囃子は計22曲(屋台囃子を入れると23曲)あり、それぞれ全く異なる曲が22曲も用いられる事例は、関東の里神楽においては非常に特殊であるといえる。この22曲の中には、他所の芸能にも散見される楽曲が数曲みられる。中でも《テケテットン(へんぱい)》《おかざき(思かざき)》《道引はやし》といった、それら他地域の芸能にも共有されている楽曲はまた、白久の隣接地域(荒川対岸の猪鼻地域や日向(ひなた)地域)の芸能や儀礼の中でも用いられている。修士論文ではこの現象を通して、神明社神楽が伝承される白久地域を中心とした荒川両岸の地域が、芸能や儀礼、そしてとくに楽曲という記号を媒介項にして相互にコミュニケーションを図っているという仮説を提示した。
本発表では、神明社神楽の楽曲の内、テケテットンについて研究した第2章をとりあげる。テケテットンという楽曲は神明社神楽のみに存在するものではなく、関東地方のいわゆる出雲流神楽に頻繁に用いられるものである。このテケテットンについては、森林憲史が「関東地方における“テケテットン”の分布とその系譜について」(2004)を皮切りに、非常に興味深い論考を発表している。本発表では、関東各地の神楽の広範なフィールドワークを通じて、テケテットンの源流を求めている森林の諸論文(「関東地方の神楽囃子について―楽曲から神楽の系譜を辿る試み―」、「「三つ拍子」から江戸神楽を考える―神楽囃子と所作から江戸神楽の古態を探る試み―」)を詳細に検討し、その仮説の有効性とその問題点を指摘する。
森林の論考は、「民俗芸能とその音楽に関する構造人類学的研究」を研究テーマにする発表者にとって非常に示唆に富むものあるが、その源流に関する考察については、いくつかの疑問点もある。それは、彼のフィールドの外側である中部地域や、彼の扱うジャンルの外側である非‐出雲流神楽をみることで顕在化してきたものである。テケテットンは、彼の研究領域の外側にも散在していることが、自身の調査で分かってきた。具体的には、長野県の冬祭や雪祭、千葉県の莫越山神社例大祭の「猿田彦の舞」などであるが、長野県の事例は、森林がテケテットンの淵源として指摘する鷲宮催馬楽神楽より明らかに古い芸能にテケテットンが用いられている興味深い例であり、千葉県の事例は、森林がテケテットンとセットになっていると指摘する「天狗・翁」にテケテットンが用いられないのに対し、他の箇所で用いられているという例である。本発表では、今後のテケテットン研究の展望として、自身の方法論的立場である「構造人類学」の重要性を指摘したい。


【傍聴記】(加納マリ)

 今回の発表は修士論文「秩父市旧荒川村の神明社神楽に関する構造人類学的研究」の第2章にあたるものである。すでにオーラル・ヒストリー学会、東洋音楽学会、民俗芸能学会、日本風俗史学会などで部分的に口頭発表されているとレジメに記載されていたが、報告者はこの論文についての発表を今回はじめて拝聴した。事前に提出された発表要旨によると今回の発表は、神明神社神楽の楽曲の中の「テケテットン」についてという。この「テケテットン」という楽曲がどんなものか、当日のレジメには多くの写真や譜例があったが、せめて音だけでも聴かせてほしかった。民俗芸能にふだん接する機会の少ない学会員も多いこの例会での発表としては、もう少し配慮があっても良かったのではないだろうか。
 そもそも「テケテットン」とは何なのか。発表者によると秩父地方では神楽囃子の代名詞であり、愛称として呼ばれているものという。先行研究者森林氏は関東地方の神楽囃子に広く用いられる囃子を「テケテットン」と総称しており、そうした森林氏の論をもとに発表者の論が展開された。この発表では「テケテットン」を神楽囃子のなかの楽曲の一つとしているが、神楽囃子で演奏される太鼓のリズム型であり、このリズム型を習得するための唱歌(しょうが=ソルミゼーション)でもある。神楽囃子は旋律楽器として笛が加わるのを常とするが、「テケテットン」には笛が入らず、打楽器のみで演奏されることや、天狗の舞や反閇という地面を踏む動作と結びついていることが指摘された。
 しかし、これに当てはまらない事例もあり、その考察に「構造人類学的視点」が有効だと説く。発表者が重要だと指摘するこの論文の方法論「構造的人類学的考察」については、民俗音楽をこうした方法論で解き明かすことの意図や有効性など、わかりやすく示してほしかった。
 さらなる研究の成果を期待したい。


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