日本音楽学会過去の全国大会第49回(1998)>研究発表E要旨


日本音楽学会第49回大会

研究発表E要旨


E-1 大久保 賢
演奏不可能(?)な楽譜ー記述的楽譜と規範的楽譜のあいだー

                                    
 ふつう楽譜が問題とされるときには、それが「いかに不完全なものであるか」ということがかたられることが多い。すなわち、楽譜を音にする場合、ちゃんとした音楽としてきかせるためには、演奏者が補わなければならないことがらが、かなりある、ということである。しかし、それとは逆の場合もあるのではなかろうか。それはつまり、楽譜にかかれていることを余すところなく実現しようとしても、できない場合がある、ということである。たとえば、極端な場合だが、極めて複雑に記譜された、ある種の現代の作品のことをかんがえてみられたい。また、古典的な作品においても、厳密な意味で演奏不可能な箇所は、いくらでもみつけることができる。しかし、実際には演奏者は、そうした楽譜を何とかして音にしてしまう。もちろん、厳密にいえば、演奏者がそこでおこなっているのは、不謹慎ないいかたかもしれないが、「それらしく弾くこと」あるいは、「近似値的演奏」である。だが、演奏者はけっしてゴマカシをしているのではない。また、きき手もそのことをみとめている。                  
              
 ところで、楽譜というもののありかたについては、有名な「記述的/規範的」という規定があるが、上でのべたような場合には、楽譜はその2つのうちのどちらにも、うまくおさまりきらない。また、「それらしく弾く」という演奏のありかたも、うまくとらえることができない。しかし、まさにそのことから、新たな問題がみえてくる。本発表では、「一見演奏不可能な楽譜を、それらしく弾く」ということの分析をとおして、音楽作品というものにおける楽譜の位置づけを再考し、この「それらしく弾くこと」が、実は演奏行為のかなり本質的な規定であるということをしめすことにしたい。



E-2 江村哲二
作曲過程モデル論(第一報)


 アナリシス(分析)が音楽作品の理解に有効な方法論であることはこれまでにたくさんの音楽学者たちによって示されてきた。一方アナリシスに対置される創作する側の論理であるシンセシス(統合)は、一般に創作というものが極めて個人的な過程であり、また客観的なアナリシスに比べ主観的なシンセシスを一般的に記述することの困難さもあり、その研究はアナリシスに比べてあまり成されていない。本研究は96年度より始まった日本学術振興会未来開拓学術推進事業「シンセシスの科学」からの成果報告(1)を参考に、作曲家としての立場から、作曲過程の記述のための作曲過程のモデル化を論じたものである。発表はまずパース(2)が提唱したアブダクションとディダクションからなる、分析過程としてのアナリシス・モデル、創作過程としてのシンセシス・モデルを提示し、次に吉川(3)が提唱した一般設計学を参考に、実体が属性によって記述、認識が可能であり、また機能、属性などの抽象概念集合は実体概念集合の位相であるとし、要求空間から機能空間への写像をg、機能空間から属性空間への写像をfとすれば、各写像の逆写像が連続写像であればf・gが作曲であるとするモデルを提案する。つまり自己の要求を直ちに属性空間に写像することは不可能であるから、自然法則に境界条件(音楽は何らかの制約下で自然法則が発現している。伝統的な和声法、対位法も境界条件の一つ)を与えて成る機能空間を介すことで自己要求を属性化するのが作曲であるとするものである。

文献/(1)冨山:シンセシスのモデル論、第75期日本機械学会講演会論文集W(1998)/(2)Hartshorne andWeiss (eds):Collected Papers of C.S.Peirce, Harvard Univ. Press (1978)/(3)吉川:一般設計学序説、精密機械45巻8号20頁(1979)


E-3 秋元淳
現代ポピュラー音楽における「ドラム・サウンド」の「演奏」実践


 本発表は、現代ポピュラー音楽において広範に用いられるドラム・セットという楽器が、複製メディア諸テクノロジーとの関わりを経て、新たに獲得した8演奏様式について論じようとするものである。

 ドラム・セットは、19世紀後半、南北戦争終結後の米国南部で誕生した「複合打楽器」であり、戦後の商業音楽産業の隆盛のなかで、単独奏者がいくつもの軍楽打楽器を四肢で一手に操るという演奏様式が広まったことに端を発する。

 ドラム・セットの演奏実践は本来、「叩く」という即時的な身体的様式に特徴づけられる。しかしながら、今世紀後半以降、種々の音楽実践において積極的に採用された複製諸テクノロジーの普及は、ドラム・セットの音響・リズムパターン(「ドラム・サウンド」)が「叩く」ことによって創出される、という線的な因果関係の崩壊を導いた。

 ドラム・セットを「叩く」という身体的所作と共に我々が経験する、ある種の美的体験は、「音価の伸縮性(『グルーヴ』)」という時間的様式との同時発生的なつながりをもつ。ところが一方で、ドラム・マシーンなどの複製テクノロジーの「演奏」実践における我々の美的体験は、「グルーヴ」を任意の定量音価データとして機器にプログラム後、その自動演奏を事後的に「聴いて」追認することによって初めて成立するのである。

 こうした複製テクノロジーによる「演奏」様式のあり方は、常に、当該の楽器・テクノロジーの生産・宣伝・消費(「演奏」)といった、ある種の経済学的要素を内に含みつつ形づくられることも無視できない事実であり、特に現代の音楽諸実践においては、そうした「外在的」な要素は決して二次的なものではあり得ず、我々の演奏様式、美的体験のありようを構成する基本的な部分として捉えてゆくべきであろう。


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