日本音楽学会過去の全国大会第49回(1998)>研究発表B要旨


日本音楽学会第49回大会

研究発表B要旨


B-1   武石 みどり
山田耕筰のニューヨーク(1918/1919年)における音楽活動 日本側資料からの再検討


 昨年の第48回全国大会においては、1918/1919年のニューヨークにおける山田耕筰の音楽活動について、主にボストンとニューヨークに残る資料から得た情報を報告した。今回の発表では、その後日本国内で調査した資料(印刷物、楽譜資料、およびこれまでに言及されていない書簡)をもとに、主に次の点について報告する。

(1) アメリカ到着から1918年5月頃までの活動: ニューヨーク到着直後、山田は旧知の舞踊家伊藤道郎と合流、その後数ヶ月間は一人で演奏活動を開始する機会に恵まれなかったため、伊藤と共演するという形で活動した。一部の伝記にみられる「カーネギー・コンサートの段取りは伊藤が中心になって整えた」という記述の根拠は、残る資料の中には見出すことができない。

(2) カーネギー・コンサートの具体化: 1918年6月頃、ジュール・デイバーというマネージャーを得たことにより、カーネギー・デビューの計画は急速に具体化した。山田がマネージャーを得た事は、その当時山田が相当額の資金を準備できたことを示唆している。

(3) YMCA慰問使:1918年11月頃、日本基督教青年會(YMCA)を代表し連合国慰問使としてニューヨークに派遣された平山大佐と出会ったことにより、山田は一時、自分も慰問使としてフランスへ渡ることを考えたが、これは実現しなかった。

(4) ディッペル・オペラの「蝶々夫人」日米共演計画: この計画はおそらく1919年3月頃もちあがり、その衣装を準備するために山田は5月に一時帰国した。しかし8月に予定されていた再渡米の前に計画は頓挫し、山田は日本に留まることになった。 

 また、以上の内容に加えて、第45回全国大会において発表した山田耕筰の東京フィルハーモニー會管弦楽部時代(1914〜1916年)のコピストについて、新たな発見があったので報告したい。



B-2  辻 浩美
松島彜(1890-1985) の生涯と作品研究


 松島彜は我国の洋楽史において、音楽教育の分野で多大な功績を遺しただけでなく、当時女性作曲家のパイオニア的存在と評価された音楽家である。1911年(明治44)東京音楽学校ピアノ科を卒業後、同校研究科に進学し、チェロ教師H.ヴェルクマイスターの下で正式に作曲を学んだ。翌年、学習院院長乃木希典の要請を受け、以後35年間学習院の教官として奉職し、独自の教育法を展開する。その間、文部省音楽教科書編纂委員に選出され、唱歌の作曲を始め、ピアノ演奏法や楽典等の著作も残している。また、大正期には自作品発表会を2度開き、満州へ自分の演奏会を兼ねた視察旅行をするなど、当時の女性としては異彩を放つ存在と言える。1964年(昭和39年)以後、鎌倉の円覚寺の一角に居を移し、かねてからの関心事であった仏教音楽の研究に専念し、他界するまで精力的に創作活動に打ち込んだ。

 こうした輝かしい経歴を持ちながら、松島彜という名は今では殆ど忘れ去られてしまった。実際、松島に関する先行研究は少なく、彼女の作品研究にいたっては皆無である。幸いにも氏の遺品は、「松島彜文庫」として日本近代音楽館に保管され、教材用作品を始め、管弦楽曲、チェロ、ヴァイオリン、ピアノ作品、声楽曲と幅広いジャンルに渡る膨大な作品群を実際に見ることができる。しかし正確な作品数はおろか、作曲年代不明の作品が大部分を占める等、本格的な資料整理は今後が待たれる状態にある。

 松島の創作活動は、その置かれた状況によって3つの時期に区分される。T期は西洋音楽の語法による創作期、U期は教材用作品を量産した時代、V期は仏教音楽の創作期。今回の発表では、松島の生涯を創作活動の視点から検証し、次に現在までに収集・整理を終えた作品資料について報告する。


日本音楽学会過去の全国大会第49回(1998)>研究発表B要旨